敗戦処理と憲法学の罪
1 正義嫌いと敗戦処理
日本人は「正義」が大嫌いで「正義は人の数だけある」とかいう価値相対主義を信奉しているのだが、そうなった原因は敗戦処理にあったと思う。そして、憲法学の主流もその流れの中にあった。
ナチスを「悪」だと理解して精算したドイツと異なり、天皇制を維持した日本は、戦前の帝国主義について「善でも悪でもなかった」と言う必要があったのだ。
宮沢俊義と尾高朝雄の「主権論争」を読めばわかる。宮沢は尾高を論破して民主主義を擁護したとされているが、宮沢が擁護したのはソフィスト(価値相対主義)だ。宮沢は天皇主権憲法を書いた松本委員会のメンバー。その彼が前言を簡単に翻せた理由は、この男の本質が価値相対主義だったからである。
ドイツは、ナチス犯罪を時効なしで処罰し、ホロコース否認言説も犯罪とする「闘う民主主義」を採用した。戦後、日本の憲法学が同じ立場をとらなかったのは、天皇制を維持するために、侵略戦争と植民地支配を真に反省せず、被害者も加害者も「どっちもどっち」という価値相対主義に逃げ込んだからだ。
鬼畜米英と叫んで戦争を煽った奴が真っ先に平和主義者となったのも、子どもに愛国心を教えろと言う人が在日米軍基地建設に賛同する売国奴であることも、この文脈で理解できる。彼らにとって、戦争も平和も、親米も反米も、愛国も売国も、全て等価なのだ。「正義が勝つのではなく勝った方が正義」とは彼らが最も好む言葉だ。
2 手塚治の「アドルフに告ぐ」
手塚治虫「アドルフに告ぐ」は主人公の「正義って一体なんなんですかね」との台詞で終わる。
手塚治虫は戦争被害者を描く作品を多く書いているし「アドルフ」が名作であることも争わないが、ホロコーストも日本帝国主義もパレスチナ人虐殺も同じように「不正義」と断じることはできなかったのだ。手塚治虫の戦争関連の漫画を読めば、彼自身が戦争の悲惨な体験をしたことがわかる。また朝鮮支配について無自覚な人ではなかっただろう。それにも関わらず、最後は価値相対主義に親和的な態度をとっていたと思う。それほどまでに、戦後の日本人を支配したこの空気には、強いものがあったと思う。
大日本帝国は中身が「悪」なのに「これは正義だ」と嘘をついて言いふらしていた。日本人は敗戦で嘘がバレると、「いや、あらゆる正義が嘘なのだ」と言い訳をし始めたのだ。しかし、日本帝国の掲げた「正義」が実は嘘だったとしても、あらゆる正義が嘘であるとは言えない。当たり前ではないか。
3 憲法学の罪
諦観的平和主義という言い方があって、正義の戦争より不正義の平和を選ぶ立場とされる。こう評されるのは長尾龍一氏の諸説だが、長尾氏は一級のケルゼン研究者であり、ケルゼンこそが戦間期欧州の学者として最も徹底した価値相対主義者であった。ケルゼンこそ、日本の憲法学に影響したと思っている。
憲法学者で「日本の憲法は価値相対主義に立脚する」とか言う人が居る(佐藤幸治教授等)が間違いだと思う。日本国憲法は国民主権主義を「人類普遍の原理」であるとし、これに反する憲法は無効だと言っている(全文)。これは価値相対主義ではなく、むしろ「闘う民主主義」の方に整合的だ。
憲法学こそ、根本的な見直しが必要だ。
初出2022年5月14日 Twitter