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「法と道徳の分離」原則の射程

「法と道徳の分離」原則はリベラリズムの主張であるが、それは「道徳に反した行為は直ちに処罰されない」ということを意味するに過ぎない。 「法で処罰されない行為は道徳的にも許される」ことまでは意味しないし、そこまで言うのは「法と道徳の分離」原則に反し、道徳判断を国家に委ねる結果となる。

たとえば、米国は、ヘイトスピーチが処罰されない“自由の国”で知られるが、社会的にはヘイトスピーチは道徳的に厳しく批判され、ヘイトスピーチをすれば社会的地位を失うことになる。 道徳判断を国家に委ねない社会のあり方としては、一つのモデルとして健全だ。米国社会では市民道徳が機能している。

他方、日本のように、封建的権威主義の残滓が残る社会では、「道徳と法の分離」が徹底しない。それは、「道徳に反した行為は処罰すべきだ」という方向にも、「法に反していないから道徳的にも許される」という方向にも顕れるわけだ。 弁護士層で自分がリベラルだと主張する奴は、後者のパターンが多い.

「プールの水」案件にせよ、その他のポルノ案件にせよ、自称リベラル弁護士の諸君は、これらが法に反していないことを強調するわけだが、批判者はそんな話はしていない。道徳的批判をしているのだ。 法に反しないからと言って道徳的批判から逃れられない。それは「法と道徳の分離」の帰結でもある。

ならば、「プールの水」案件はなぜ道徳に反するのか、直感的結論の提示だけではなく、「論証」は必要だろう。 あえて試論を提示すれば、それは、他者(女子生徒)を道具として自己の性欲を満たす事を肯定的に表現したものであり、他者の人格の尊厳に対する敬意を欠いているからだと論証できるだろう。

なるほど、法は他者の法益を「侵害しないこと」以上の要求はしていない。法益侵害がない以上、「プールの水」案件で法的な追求までは難しかろう。 しかし、道徳は他者の人格に敬意を払うことを求めうる。その点で、「プールの水」案件は、明らかに他者(女子生徒)の人格への敬意を欠いていた。

(初出 2021年6月25日 Twitter)



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