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灯台|Lighthouse

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すずきが訪れた日本の灯台の写真を記録しています。灯台を知るために灯台に関するコラムや記事なども書いています。 ※記事・写真の無断転載を禁じます This site record…
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灯台INDEX

最終更新日:2024年11月25日 灯台マガジンのインデックス(随時追加) 訪れた灯台、コラム、記事などをインデックスしています。 ※灯台名横の(A~D)は明治期に建造された灯台を①歴史的・文化財的な視点、②土木・建築史的視点、③生活文化史的視点から『灯台施設調査委員会』(1985~1987)が判定・分類したランク。 コラム灯台の歴史《世界編》灯台の歴史《日本編》条約灯台|江戸条約・大坂条約灯台発祥の地|神奈川県横浜市 ◆北海道◆日高門別灯台|北海道日高町 2022年

灯台発祥の地|神奈川県横浜市

 1864年(元治元年)、長州藩と英仏蘭米の四か国連合艦隊との間で馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が起こり、敗れた長州藩(幕府)は多額の賠償金を支払うことになった。  1866年(慶応2年)に英仏蘭米の四か国は賠償金の減免と引き換えに十二条からなる江戸条約(改税約書)を幕府と締結。十一条「外国交易のため開港する全ての港への航海の安全のために必要な灯台、浮標、立標を整備する」に基づいてイギリス公使ハリー・パークス(1823~85)らは日本沿岸の灯台建設を幕府に要求する。各国公使

都井岬灯台|宮崎県串間市

都井岬灯台|宮崎県串間市 2024年10月23日 1929年(昭和4年)12月22日点灯。  宮崎県日南海岸の最南端の都井岬は東南アジアから日本にやってくる船舶が最初に視認できる場所にあり、沖合は「黄金の瀬」と呼ばれる数多くの暗礁が点在し船乗りに恐れられていた。  都井岬灯台の設置は海運界からの要望により始まったが、当時の日本艦隊が志布志湾に集結し日向灘で演習をしていたため、都井岬灯台設置には海軍からの強い要請があったともいわれている。  設置当初は一等レンズが使用され、

豆酘埼ミョー瀬標柱(旧豆酘埼灯台)/豆酘埼灯台|長崎県対馬市

豆酘埼ミョー瀬標柱(旧豆酘埼灯台)(C)長崎県対馬市 2024年10月20日 1909年(明治42年)10月13日点灯。 |豆酘埼ミョー瀬標柱は豆酘埼灯台として対馬南端の豆酘埼より南南西約1.2km沖合いの暗礁「ミョー瀬」上に建てられた灯台。構造は円形コンクリート造。  設置当時は無筋コンクリート造で円形黒白継線塗り。1934年には白色に塗装さた。2020年には灯室部が破損し撤去されている。  旧豆酘埼灯台は保守管理が非常に危険であったことや、光力の増大の必要性から198

烏帽子島灯台|福岡県糸島市

烏帽子島灯台|福岡県糸島市 2024年10月19日 1875年(明治8年)8月1日点灯。 ブラントンによって唐津湾から北東約23km沖の玄界灘の孤島、烏帽子島に建てられた烏帽子島灯台は、レンズを含めた灯器、鉄材が英国からの輸入だったため当初の予算よりも高騰し、また絶海の孤島である烏帽子島への工事材料の輸送や追加工事が相次いだため起工から竣工まで2年6カ月という難工事を経て建てられた。  建設にあたって当初は日本人技術者により独力で建設したいと願い出ていたものの、時期尚早とし

条約灯台|江戸条約・大坂条約

江戸条約 8灯台 1864年(元治元年)にこの関門海峡で長州藩と英仏蘭米の四か国連合艦隊との間で馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が起こり、敗れた長州藩(幕府)は多額の賠償金を支払うことになった。1866年(慶応2年)に英仏蘭米の四か国は賠償金の減免と引き換えに十二条からなる江戸条約(改税約書)を幕府と結ぶ。十一条には「外国交易のため開港する全ての港への航海の安全のために必要な灯台、浮標、立標を整備する」と定められ、江戸条約によって国内に西洋式灯台の8基が設置された。 観音埼

旧和田岬灯台|兵庫県神戸市

旧和田岬灯台|兵庫県神戸市 2024年10月15日  1867年(慶応3年)4月に幕府と英国公使が同年12月の兵庫開港に備えて結んだ大坂条約(大坂約定)に基づき設置を約束した5つの灯台のうちのひとつ(「和田岬」「六連島」「部埼」「江埼」「友ヶ島」)で、リチャード・H・ブラントンによって神戸港南西の和田岬砲台横に設置された。  正式な点灯開始は1872年10月1日(明治5年8月29日)だが、1871年6月(明治4年4月27日)には仮灯火で点灯を開始。  初代は木造八角形の灯

釣島灯台|愛媛県松山市釣島

釣島灯台(A)|愛媛県松山市釣島 2024年10月18日 点灯は1873年(明治6年)6月15日。  松山港沖合い西側の伊予灘と東側の備讃瀬戸航路の分岐点である釣島の西端部)に建てられた釣島灯台はリチャード・H・ブラントンによる瀬戸内海8基のうち最後の灯台。当初は今治灯台として燧灘から来島海峡の目標とされて計画されたが、現地調査を経てブラントンによって釣島へと変更されたとされる(明治37年刊「燈台要覧」)。灯塔構造は円形石造、下部に半円形石造の附属舎。灯塔・退息所・倉庫の石

金華山灯台|宮城県石巻市

小佐木島灯台|広島県三原市

小佐木島灯台(C)広島県三原市 2023年10月24日 1894年(明治27年)7月4日点灯。保存ランクC。 灯塔構造は円形石造で石積みの囲障がある。  糸崎港(三原市)から沖合約4kmに位置する小佐木島灯台は、来島海峡の潮流の影響を比較的に受けないひうち灘から布刈瀬戸、三原瀬戸を通過して周防灘に出る三原瀬戸航路上にほぼ同時に建設された9つの灯台・灯標のひとつ(百貫島灯台、大浜埼灯台、長太夫礁灯標、小佐木島灯台、高根島灯台、大久野島灯台、|鮴崎灯台、中ノ鼻灯台、大下島灯台

大王埼灯台|三重県志摩市

大王埼灯台|三重県志摩市 2023年5月3日 1927年(昭和2年)10月5日点灯。  三重県東部の大王埼沿岸周辺は険礁、暗岸が点在しており、古くから安乗埼、鎧埼と並び「志摩三埼」と呼ばれ海の難所として知られた。なかでも高さ8.4mの大王岩(大王島)は「伊勢の神埼(こうざき)、国埼(くざき)の鎧、波切(なきり)大王なけりゃよい」と唄われるほどで、その大岩の名は船乗りには脅威であった。同地では1913年(大正2年)に死者51名を出したサンマ漁船の遭難事故、1918年(大正7年

安乗埼灯台|三重県志摩市

安乗埼灯台|三重県志摩市 2023年5月3日 1872年9月1日仮点灯。 1873年(明治6年)4月1日点灯。 リチャード・H・ブラントンによって三重県志摩半島の的矢湾入り口に八角形の木造灯台として設置。当初の名称は的矢灯台。  安乗港は江戸時代には多くの船で栄えたが沖合には暗礁が多く事故が絶えなかったため、幕臣河村瑞賢の建議により1674年(寛文13年)に灯明台が設置されていた。当時は外国船のための灯台設置が優先であったが、ブラントンにより和船だけでなく外国船にも有益と

戸島灯台|熊本県天草市

戸島灯台(D)|熊本県天草市 2023年10月19日 1897年(明治30年)4月8日点灯。保存ランクD。 三角港や八代港から南西諸島や台湾を行き来する船舶の重要な目標として明治30年に上的島、長崎鼻と同日に点灯を開始。  1959年(昭和34年)4月まで灯台職員が灯台敷地内の宿舎に家族とともに居住し灯台の保守管理を行っていた。 参考第十管区海上保安部『明治の現役灯台』https://www.kaiho.mlit.go.jp/10kanku/toudai/maijitou

上的島灯台|熊本県天草市

上的島灯台(C)|熊本県天草市 2023年10月19日 1897年(明治30年)4月8日点灯。保存ランクC。 「戸島灯台」とあわせて天草市最古の灯台。 三角港や八代港から南西諸島や台湾を行き来する船舶の重要な目標として明治30年に戸島、長崎鼻と同日に点灯を開始した。 点灯開始から無人で、保守管理は戸島灯台の職員によって行われていた。