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灯台発祥の地|神奈川県横浜市

 1864年(元治元年)、長州藩と英仏蘭米の四か国連合艦隊との間で馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が起こり、敗れた長州藩(幕府)は多額の賠償金を支払うことになった。
 1866年(慶応2年)に英仏蘭米の四か国は賠償金の減免と引き換えに十二条からなる江戸条約(改税約書)を幕府と締結。十一条「外国交易のため開港する全ての港への航海の安全のために必要な灯台、浮標、立標を整備する」に基づいてイギリス公使ハリー・パークス(1823~85)らは日本沿岸の灯台建設を幕府に要求する。各国公使や外国の海運業などから必要な灯台建設場所を募り、観音埼、剱埼、野島埼、神子元島、樫野埼、潮岬、佐多岬、伊王島の8灯台と横浜本牧、函館の2灯船が設置されることになった。

燈台寮

  明治維新後、明治政府は灯台事業を江戸幕府から引き継ぎ、1869年(明治2年)に横浜桜木町元弁天(現在の中区北仲通り6丁目)に灯台事業を担う「燈明台とうみょうだい局」が置かれた。しかし政府発足直後は官制改革が相次ぎ、その所管は外国官、大蔵省、民部省と転々とした。その間の灯台事業の実務は横浜裁判所(後の神奈川府裁判所)が行っていたが、1870年(明治3年)10月に工部省が新たに設置されると、1871年(明治4年)5月に鉄道・電信・製鉄所などとともに灯台事業の所管も同省に移り(神奈川県が兼務していた灯台実務も移り)「燈明台局」から「燈明台掛」となる(※公私設灯台の新設が禁止される)。同年8月には「燈明台掛」を廃して「燈台寮」が設置され、これにより日本全国の航路標識を統括する中央機関が誕生することになった。
 1874年(明治7年)には燈明番(灯台守)の育成と灯台の機器などの試験を行う「洋式試験灯台」を設け、リチャード・H・ブラントンの指導のもとで灯台機器の製作や灯台保守員の教育が行われた。また、専門の土木技術者の教育機関「修技黌しゅうぎこう」(工部大学、後の東京大学工学部の前身)も開設された(「修技黌」は近代国家への技術者育成のために各省庁がそれぞれ必要な専門技術を習得するために設けた自前の育成機関)。
 ブラントンは灯台寮構内で灯台、灯船、浮標等の製作・修理に関する作業を始め、各種工作機械を整備し鉄工・鋳物・銅工場を設けて灯台の機械を製作。工場は海に面しており、専用の突堤とクレーンを備え、鉄道が各工場に通じていた。灯台の他に民需ではブラントンによる日本で2番目の鉄製の橋梁である横浜の吉田橋もここで製作された。
 

明治七年当時の灯台寮。奥が試験燈台。足場のあるのは鉄造灯台の仮組み立て
(『燈光 1934年3月号 燈臺寮御臨幸六十周年』より)

 灯台寮で製作された灯台機器は海岸のデリックで艀に積まれ、灯台視察船などで各地の灯台建設地へと運ばれた。1876年(明治9年)からブラントンなどお雇い外国人の解雇以後は、ブラントンの通訳で日本初のコンクリート造である鞍埼灯台を建設した藤倉見達や、出雲日御碕灯台や水ノ子島灯台など日本の灯台の頂点ともいえる大型灯台を建設した石橋絢彦など優れた日本人技術者を輩出した。
 以後80年にわたり日本の航路標識行政の中心となったこの地からは、世界最先端の技術を習得した灯台技術者や保守員が全国の灯台の保守へと送り出され、現代の日本の海上交通安全の礎が築かれていった。

試験灯台

 試験灯台は正式な航路標識ではないが明治天皇行幸の日である1874年(明治7年)3月18日が点灯開始日として記録されている。当日の海岸は多くの見物人で黒山のようになり、一等灯台の光芒に驚きの目を見張ったと伝えられる。この時の試験灯台のレンズは一等8面閃光レンズ、ドーテー四重芯石油灯で、同年11月に点灯を開始する犬吠埼灯台に移設設置された。
 
 試験灯台はレンガ造で6.1m四方、高さ約12.2m。三階構造。一階では各種油の光力試験や灯器の修理場として、二階以上は一等灯台の機器類を装備した。灯台職員養成のため教授方には当時神子元島灯台の灯台看守であったチャルソンが迎えられ、明治14年まで勤めた。チャルソンは最後のお雇い外国人灯台看守として日本に滞在した。
明治32年9月に二代目試験灯台が、昭和17年に鉄造の三代目試験灯台が設置。二代目の試験灯台は関東大震災に被災したが、灯籠の枠組み部は昭和4年11月点灯の都井岬灯台に移設使用された。

対岸から見た試験灯台と灯台寮(『燈光 2007年11月号』より)
試験燈台から犬吠埼灯台に設置された一等八面閃光レンズ(犬吠埼灯台霧笛舎に展示)
試験灯台の回転機械
(『燈光 1934年3月号 燈臺寮御臨幸六十周年』より)
二代目試験灯台。灯籠部が都井岬灯台で使用された
(『燈光 2007年11月号』より)
三代目試験灯台。昭和17年に上島灯台として移設。
(『燈光 2007年11月号』より)
灯台寮のあった地は現在は「灯台発祥の地」として残されている。

 この地は明治初年に弁天社があった島まで埋立てて陸続きにしたもので、灯台事業の役所だけでなく、明治政府のお雇い外国人のための宿舎が建てられた。護岸は土木史上貴重な日本最初の石積み岸壁である。また逓信省電務局の電信電話機器の製作所や、横浜裁判所と燈明台とのあいだで行われた日本初の「電信業務発祥の地」でもある。燈明台局は昭和23年に海上保安庁燈台局として東京に移転。

モニュメントとして残されている試験灯台の基礎煉瓦
明治7年当時の灯台寮付近
(『燈光 1934年3月号 燈臺寮御臨幸六十周年』より)
『日本燈台史:100年の歩み』より

参考
『日本燈台史:100年の歩み』 海上保安庁灯台部編/丸ノ内出版
『燈光 2007年11月号』 公益社団法人 燈光会
『燈光 2000年8月号』 公益社団法人 燈光会
『燈光 1996年5月号』 公益社団法人 燈光会
『燈光 1934年3月号』 公益社団法人 燈光会

灯台発祥の地 
〒231-0003 神奈川県横浜市中区北仲通6丁目


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すずきたけし
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