【能楽】弱法師・文荷
2024年7月3日(水)、国立能楽堂で、能『弱法師』と狂言『文荷』を観ました。公演の順番は、狂言→能でしたが、思うところもあり、能から記載します。
■能『弱法師』について
(1)はじめに
私は、2年前から能を観るようになったのですが、その当時から「この演目は観てみたい。」と思っていた演目がいくつかあります。『弱法師』もその一つです。まず、言葉として「弱法師」を調べました。
能の作品の中では、盲目であることも、よろよろする理由の一つでした。
(2)観たいと思っていた理由
本作を、観たいと思っていた(思い続けていた)理由をいくつか挙げます。
私自身、眼鏡をかけていますが、知人に視力が弱い方もいて、その観点から作品が心に残っていました。これが第1の理由です。
第2は、下村観山の絵です。文化遺産オンラインのリンクを貼ります。6曲1双とあり、2枚の絵で一対です。今回、能を観て、盲目、夕陽、梅の枝など、この絵についての理解も深まりました。
第3は、三島由紀夫の『近代能楽集』です。能の謡曲を近代劇に翻案した戯曲集で、『弱法師』もその1つとなっています。家庭裁判所を舞台としているようで、こちらも読んでみたいと思いつつ、私は未読で、この点申し訳ありません。
(3)能のあらすじ
「the能ドットコム」から引用しましたが、話の続きを知りたい方は、下(↓)のリンクをご覧下さい。
(4)感想など
私は能を観るとき、うとうとしてしまうことが多いものの、ずっと楽しみにしていた演目でしたので、今回は緊張感を持って観ることが出来ました。演目の内容にも関わらず、喜びのあまり顔がほころんでしまい、ある意味、不謹慎に映ったかもしれません。
あまり詳しく書くとネタバレみたいになってしまうので、絞って記載します。
盲目の人が心眼で見る夕陽とは、どのようなものでしょうか。西方の極楽浄土を拝む「夕陽の美しさ」と「盲目である自身の哀しみ」のバランスとその揺らぎが、狂乱を招くのでしょうか。盲目の人でも心眼で見えるという「観念(理想)」の世界と、「現実」の世界のバランスともいえるのかもしれません。
ここまで書きながら、私たちの日々の生活の中で当て嵌まる部分もあるのかなと思いました。現実社会で上手く行かないことがありつつも、希望が差す瞬間があるというか。
(5)本公演、他公演について
本公演は喜多流の公演で、配役としては、シテの俊徳丸を香川靖嗣さん、ワキの高安通俊を殿田謙吉さんが担当されていました。
ネットで検索すると、他公演でも『弱法師』を見かけました。(繰り返しであるものの、楽しみにし続けていた私は、)初夏に多い演目なのかなと思ったりもしましたが、舞台は梅の花枝が出て来る春なので、私の思い過ごしのように思いました。
■狂言『文荷』について
短めですが、あらすじ・感想等を記載します。
笑いが起こるポイントはいくつかありましたが、太郎冠者と次郎冠者が、主の恋文を開き、盗み読んで笑う場面にくすりときました。
また、公演プログラムによると、本作は能『恋重荷』のパロディとして作られた作品ということです。この『恋重荷』という能も、いつか観てみたいと思いました。余談ですが、歴史上「恋」という言葉は、いつぐらいからあるのか、知りたいと思います。
和泉流の公演で、配役としては、シテの太郎冠者を野村万禄さん、アドの主を吉住講さん、小アドの次郎冠者を野村万之丞さんが担当されていました。
■最後に
個人的に思いのこもった演目でしたが、感想など割と淡々と(落ち着いて)記載することが出来ました。
また、冒頭の画像は「夕陽」で検索し、おかのくらさんの画像を使用させて頂きました。ありがとうございました。
本日は、以上です。
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