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愛人を「たらい回し」にした作家たち 河上徹太郎と大岡昇平

昭和文壇の「妖女」、坂本睦子についての記事は、ありがたいことに、私が書いた中で、最も読まれているものの一つだ。


坂本睦子(1914-1958)は、16歳のとき、文藝春秋社の施設内で直木三十五にレイプされ、夜の世界へ。色白のフランス人形のような美貌で昭和の作家たちを夢中にさせ、中原中也、小林秀雄、坂口安吾、菊池寛、河上徹太郎、大岡昇平らの愛人になり、最後は自殺した。

大岡昇平は、彼女との情事と彼女の死を「花影」(1961)という小説に描き、この小説は毎日出版文化賞を受賞、池内淳子と池部良で映画化もされた。

映画「花影」(1961)ポスター
「花影」DVDパッケージ


詳細については、上記「たらい回しにされた女」などを参照してほしい。

大岡昇平


私は、河上徹太郎つながりで、坂本睦子を知った。河上は、私が住む柿生(川崎市)に長く住んだ、柿生ゆかりの作家だ。

河上は、坂本睦子と最も長く愛人関係をむすんだ人でもある。それは、彼女の22歳から33歳ごろまでに当たる。

その後、睦子は、河上の学生時代からの文学仲間である、大岡昇平の愛人になる。「たらい回し」という言葉は悪いが、まあ禅譲というか、河上も納得して譲った形だろう。


「花影」が発表された時、小説の中の「葉子」が坂本睦子をモデルにしているのは文壇周知であり、ちょっとしたスキャンダルと論争を引き起こした。

それについては、Wiki「坂本睦子」に詳しい。


河上徹太郎も、睦子との関係はみんな知っているから、冷やかされたり、やんわり非難されたりしている。

河上徹太郎


実際、坂本睦子が自殺した時、河上徹太郎はどう思ったのだろう。

大岡昇平の「花影」を読んで、河上はどのような感想を持ったのか。

その疑問は、私の心にずっと引っかかっていた。



最近、河上徹太郎著作集を読んでいると、河上の「花影」書評も収録されていた。

1961年、「花影」刊行直後に読売新聞に載ったものだ。

その一部(主要部分)を、記録のために、ここに引用しておきたい。

書評の前段で、河上は、「花影」の葉子(坂本睦子)は「戦前派型の女」であり、戦後は「ニヒル」に生きざるを得なかった、と強調する。

以下は、後段から、結論の部分である。


 彼女(葉子)は新興マダムにのし上がっている昔の朋輩潤子のように器用な転身はできない。自分の身についたものは、物でも、心でも、からだでも、無償でいつも相手の男に分かち与える覚悟ができている。ーーただし相手がそれを無償で受け入れる限りにおいてである。
 
 葉子の心のいわば白痴美的な美は、そういう無償のそれである。作者がそれを徹底的にいとおしみ書きたいのである。彼女は自分が分かち与えるものがなくなった時、きわめて自然に自殺する。いわばこれは「完全自殺」である。

 こういうニヒルを現代小説の読者にわからせることはむずかしい。(中略)

 そう考えるとこの小説は、戦前派の水商売女が戦後の時代に生きる生態についての実験的な意味を持つといえよう。そしてそういえば悲劇的だが、この寄るべのない女の自殺が自他ともにあと腐れなく美しい印象を与えたとしたら、それで作者は成功したというものである。

(「河上徹太郎著作集2」新潮社、1981、p313)


当然ながら、感情を押し殺し、周囲の目をはばかった文章で、歯切れが悪く、晦渋だ。

10年間付き合った元愛人に投げる文章としては、一見、冷たいように思える。

でも、大岡昇平の視点に仮託して、睦子への「いとおしみ」も感じられないわけではない。ニュアンスに富んだ文章だと思う。


いちばん感じるのは、大岡の「花影」と同じで、

「睦子の自殺は自分の責任ではない。彼女は自殺すべくして自殺した」

という懸命な自己正当化、ないし責任逃れであろう。

「彼女は自分が分かち与えるものがなくなった時、きわめて自然に自殺する」

とは、なんとも男に都合のいい解釈に思われる。


一方、睦子の自殺に「戦前派のニヒル」を見る河上の認識は、やはり鋭いと感じる。

私は、睦子の自殺と、三島由紀夫の自決の、意外な同時代性について書いたことがある。


三島由紀夫は「花影」を評価した。小説の中の自殺する女に、自分の姿を重ねることができたからだ。

「花影」における「戦前派の自殺」を、「悲劇的」だが「美しい」という河上の評言は、もしかしたら三島にも当てはまるかもしれない、と思う。

「戦前派」の本当の気持ちは、もう今の我々にはわからない。大岡や河上の世代までが了解できた精神のあり方が、たしかにあったのだろうと思う。


だが、それはそれとして、長いあいだ愛人にしておいて、「責任」を取らず、女を自殺に追い込んだ大岡昇平や河上徹太郎が、現代の目から責められることも、仕方ないだろう。

責任を取らなかっただけでなく、作品や書評の形で、その無責任を正当化さえしている。

それについては、睦子の友人だった白洲正子が、河上と大岡の死後に、批判してもいる。

よくは知らないが、最近は文芸批評でも、フェミニズムの影響が強いだろう。坂本睦子と作家たちの関係は、今どのように論じられているのだろうか。



<参考>


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