フランス革命とクラシック 保守派はベートーヴェンを否定できるのか
保守派の「開会式」批判
例のパリオリンピック開会式に関して、保守派が「フランス革命」をボロクソ言うのは、まあいいですよ。
フランス革命のジャコバン派は「元祖左翼」と言われるし、フランス革命を否定したバークが保守主義の原点だとされる。
「Will」の編集者は、ネット番組で開会式を非難しつつ、フランス革命はヒトラーのナチスのような歴史の汚点だと言っていた。
でも、日本保守党の百田尚樹党首がフランス革命に否定的なことを言ったら、こう言ってやろうとわたしは待ち構えていた。
「あんた、クラシックファンでしょ! フランス革命がなかったら、ベートーヴェンの音楽はなかったのに、そんなことが言えるの? あんたはこれまで何に感動してきたんだ?」
ーーと。
でも、百田氏は、開会式の悪口はXで言ってたけど、フランス革命については特に何も言ってなかったな。
もしかして、わたしのような反論を予想して逃げたのか。つまらん。
古典派とフランス革命
クラシック音楽の中核的レパートリーである、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンあたりの、いわゆる古典派、クラシックの中のクラシックは、フランス革命と同時代の空気を吸っている。
われわれがこれらの音楽を聴くとき、そこに鳴り響いているのは、18世紀啓蒙主義の精神であり、フランス革命の精神であると言ってもいい。
バッハとかマーラーとかは、忘れられていた時期があったけど、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンは、彼らが生きていたときから、途切れることなくずーっと聴かれている。ずーっとヒットしてる。
それらの音楽がなぜ「いい」のか。その魅力と、フランス革命で絶頂期を迎える啓蒙思想、歴史が明るく開放的な方向に向かっている感じ、理性が解放される喜びとは、切り離せないはずなんですね。
フランス革命と古典派3人衆の年譜
でも、「ベートーヴェンはフランス革命の理念に共感していた」というのは、なんとなく知っているけど、ハイドンたちが、フランス革命をどう考え、どのような態度をとったかは、考えてみると、わたしもあんまり知らない。
だから、ちょっと調べてみたんだけど、これがなかなか複雑ではありますね。
彼らはフランス人ではない。ハイドンとモーツアルトはオーストリア人、ベートーヴェンはドイツ人です。
だけど、フランスは重要な音楽マーケットだったから、親近感のある隣国だったはず。
しかしフランス革命は、それぞれの自国にも大きな政治的インパクトをもたらしました。
まず、3人の古典派とフランス革命とのかかわりを、年表にしてみました。
年表でわかるとおり、長生きしたハイドンは、アメリカ独立戦争もフランス革命&ナポレオン戦争も経験した。
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンは、それぞれ会ったことはありますが、3人が一堂に会したことはないようです。
また、モーツアルトとマリー・アントワネット、ナポレオンとベートーヴェンはほぼ同い年(1歳ちがい)です。
1732年 ハイドン生まれる
1755年 マリー・アントワネット生まれる
1756年 モーツアルト生まれる
1762年 6歳のモーツアルト、ウィーンのシェーンブルン宮殿で7歳のマリー・アントワネットに会う。「大きくなったら、ぼくのお嫁さんにしてあげるよ」
1769年 ナポレオン生まれる
1770年 ベートーヴェン生まれる
1775年 アメリカ独立戦争(〜1783)
1778年 モーツアルト、パリに滞在。「交響曲”パリ”」
「ヴォルテールがくたばった」という手紙を書く
1784年 ハイドン、モーツアルトに会う
1787年 ベートーヴェン、モーツアルトに会う
1789年 フランス革命(〜1795)
1790年 ベートーヴェン、ハイドンに会う
1791年 モーツアルト「魔笛」
モーツアルト死す(35歳)
1793年 マリー・アントワネット処刑される(37歳)
1796年 ハイドン「戦時のミサ」
1797年 ハイドン「皇帝フランツ讃歌」
1803年 ナポレオン戦争(〜1815)
1804年 ナポレオン皇帝になる
ベートーヴェン「英雄」
1809年 ハイドン死す(77歳)
1813年 ベートーヴェン「ウェリントンの勝利」
1814年 ベートーヴェン「フィデリオ」
1821年 ナポレオン死す(51歳)
1824年 ベートーヴェン「第九」
1827年 ベートーヴェン死す(56歳)
ハイドンとフランス革命
ハイドンの政治思想、というのがいちばん資料がないですね。
彼はご承知のとおり、エステルハージ家に雇われて、晩年まで膨大な作品を書いた。
エステルハージ家は、ハプスブルク家に変わらぬ忠誠を誓った同盟者でした。
その作品は、まさに啓蒙期の溌剌とした機知と疾風怒濤の情感を反映している。
でも、ハイドン自身は「革命的」性格ではなく、生涯貴族の庇護から離れようとはしなかった。
彼にはただ創作のための平和な環境が必要で、フランス革命のような動乱は迷惑だったでしょう。
ナポレオン戦争時は、ウィーンが占領させることを恐れてイギリスに逃げますが、結局ナポレオン占領下のウィーンに戻って死ぬことになります。
フランス革命が起こった1789年、フランスの出版社が、ハイドンに交響曲を依頼しています。
出版社が望んだのは、おそらくフランス革命にちなんだ作品で、「国民(national)交響曲」と名付けられるべきとされていましたが、ハイドンは断っています。
翌1790年、ベートーヴェンはウィーンでハイドンに会っています。
21歳のベートーヴェンが、60歳近いハイドンのレッスンを受けようとしたんですね。
そのとき、彼らがフランス革命についてどう語り合ったか、を想像している記事がありました。
フランス革命の理念に共鳴するベートーヴェンと、それに反感を覚えるハイドンの間で、不協和音があったのではないか、と。
ハイドンは、ベートーヴェンに対して、父親的な感情を持ったのではないか。そして、父と息子でありがちな、喧嘩が生じたかも。それはフランス革命についてだけでなく、当時の政治システム全般で意見が食い違っただろう。宮廷で貴族に囲まれて生きたハイドンは保守的な人だった。
そこで二人の間で議論になったのではないか。父と子がするように「お前の目的はなんだ」「何を欲している?」的な。ベートーヴェンはハイドンを尊敬し続けただろうが、二人が仲良くなることは難しかっただろう。
("Haydn and Beethoven... and Napoleon?" 2024 Daniel Adam Maltz)
その後、フランス革命軍が「マルセイエーズ」(現フランス国歌)を歌って侵攻してくるのを知り、ハイドンは「神よ、皇帝フランツを守り給え」(現ドイツ国歌)を作曲して祖国に捧げました。
共和政讃歌に対して、君主政讃歌で対抗したのです。
ハイドンが作曲した「神よ、皇帝フランツを守り給え」
後年、持病が重くなり、作曲ができなくなった最晩年のハイドンは、この「神よ、皇帝フランツを守り給え」をピアノで弾くことを慰めとしていたようです。(Wikipedia「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」)
音楽で新しい世紀を開いたハイドンは、政治思想的には旧体制の追慕のなかに生きたのでした。
モーツアルトとフランス革命
前述のとおり、モーツアルトとマリー・アントワネットはほぼ同い年。
モーツアルトとフランス革命のかかわりと言えば、モーツアルト6歳、マリー・アントワネット7歳のときの逸話が有名です。
神童モーツァルトの有名なエピソードに、転んだところを助け起こしてくれたマリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」とのたまった、という話がありますが、この時6歳の彼が何をしていたかといえば、女帝マリア・テレジアの住まう宮殿での御前演奏です。彼女も当然その演奏を聴いているし、幼いモーツァルトを膝の上に乗っけてあげたそうですから、その神童ぶりに驚嘆したのでしょう。彼ら親子が有名になったきっかけは「女帝の前でこの御前演奏をした」ことも一因です。さらにモーツァルトは12歳の時、マリア・テレジアに再度謁見しており、演奏を聴かせるなどして2時間、一緒の時を過ごしました。15歳の時には、新作オペラを委嘱されたりもしています。
(植田彰「モーツアルトの生涯」)
上のエッセーで記されているごとく、これはむしろ、啓蒙君主として有名なマリア・テレジア(マリー・アントワネットの母)とモーツアルトの関係をものがたる逸話と言えるでしょう。
モーツアルトが「お嫁さんにしてあげる」と言ったマリー・アントワネットが首を落とされたとき、モーツアルトはどんな感想をもったのでしょうか。
マリー・アントワネットの処刑はモーツアルトの死後ですから、感想を聞くことはできませんでした。
モーツアルトとフランス革命の関係で、次に思い浮かぶのは、例の「ヴォルテール罵倒」の手紙ではないでしょうか。
ヴォルテールが1778年に死んだとき、パリにいた22歳のモーツァルトは、父レオポルトに、次のような手紙を送りました。
「あの罰当たりな、悪党の親玉ヴォルテールがくたばりました。まるで犬のようなみじめな死に様です。獣のような死が、やつには当然の報いです!」
これは、モーツアルトが、今日交響曲「パリ」と呼ばれる第31番をパリで初演して、喝采を受けたとき。同時に、パリに同行した母親が同地で亡くなった直後という複雑な時期のものです。
ヴォルテールの家の近くにいたため、その死をいちはやく知って父親に伝えたのでしょうが、フランス革命の精神的支柱であるヴォルテールを「悪党の親玉」とは。
よく引用される、この手紙の英訳文は以下のとおりです。
I must give you a piece of intelligence that you perhaps already know — namely, that the ungodly arch-villain Voltaire has died miserably like a dog — just like a brute. That is his reward!
わたしも昔、たしか岩波文庫に入ってた「モーツアルトの手紙」でこの部分を読んで、衝撃を受けたものでした。「おい、モーツアルト、この言い方はないだろう」と。
では、モーツアルトは「反・フランス革命」だったのかといえば、そうではない、というのが今日の通念でしょう。
フランス革命を後押ししたというフリーメイソンに入ったこともそうですし、後年の代表的オペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」には、どれもフランス革命の「自由・平等・博愛」の精神が横溢している、というのが今日の見方だと思います。
たとえば「フィガロの結婚」を書いたフランス人のボーマルシェは、ヴォルテールの信奉者で、初のヴォルテール全集を出版した人物でもありました。モーツアルトは、自ら自然に、フランス革命の理念に沿って音楽を書いています。
ピーター・ゲイは、モーツアルトのこうした複雑さを、以下のように解説しています。
モーツァルトがどれくらいフリーメイソンに荷担していたかについて明らかにしていないが、宗教的寛容と政治改革をめざす世俗的なメイソンの側にいたようである。彼はこの頃、父親に宛てて聖職者をさす「パフ」という侮辱的な言葉を用いて、「聖職者というのは何でもできるのです」と書いている。こんなことを言ったからといって、彼が異端であったということではない。しかし、モーツァルトのカトリック信仰は(父親と同様)、強固なものではなく、現実の世界の経験を広く受け入れ、教会の権威にはそれなりに批判的であった。われわれはモーツァルトがヴォルテールの徒ではなかったこと、自分の出世に絡まないかぎり、政治に関して驚くほど無関心であったことを知っている。彼の生涯における最後の二年間、一七八九年から九一年にかけて、ヨーロッパはフランス革命によって震撼させられたが、彼の書簡にはこの歴史上の大動乱に関する言及は一言も見られないのである。それでも彼は善行や知恵の普及のために、伝統的なキリスト教の教えに賛同できない役人や学者、博愛主義者の仲間になることができたのである。『魔笛』は、これから私たちが見ていくように、たくさんの要素を含んでいるが、しかし、それはまた真実、愛、人間の価値に対する合理主義的なフリーメイソンの賛美でもある。パパゲーノとパミーナは彼のもっとも偉大なジングシュピールの中で、「男と女、女と男は神にまで至る」と歌う。
ピーター・ゲイ『ワイマール文化』(到津十三男訳、みすず書房、1970)p91
まあ、モーツアルトは、子供のまま大人になった人で、政治的にはアッパラパーだったのではないでしょうか。だからヴォルテールへの暴言も許せるというものです。
ベートーヴェンとフランス革命
で、いよいよベートーヴェンとフランス革命ですよ。
ベートーヴェンとナポレオンはほぼ同い年だった。
ご承知のとおり、ベートーヴェンは「フランス革命精神の実現力」をナポレオンと張り合うように、ナポレオンをビンビンに意識して生きました。
ベートーヴェンの全生涯は、フランス革命によって形づくられたと言ってよい。1770年に生まれ、10代のときにバスティーユ襲撃事件が起こった。ベートーヴェン20代のときにジャコバン派が猛威を振るい、その後反動期に入る。この時期のベートーヴェンの手紙には、革命の達成を助けたい気持ちがあふれ、彼自身、紛れもない革命派だった。
ベートーヴェンは、フランス革命を歓迎した作曲家というにとどまらず、フランス革命の精神を音楽で表現した作曲家である。
(Simon Behrman "The Revolutionary Genius of Ludwig van Beethoven" JACOBIN 2020)
作品上、ベートーヴェンとフランス革命のかかわりが最も明らかなのは、「フィデリオ」ではないでしょうか。
交響曲「英雄」をめぐる有名な逸話はここで繰り返しませんが、ベートーヴェンのナポレオンへの執着はこの曲で尽きるわけではなく、最後の大作「ミサ・ソレムニス」はナポレオンへのレクイエムだという説もあるようです。
そしてもちろん第九は、啓蒙思想の精華で、「自由、平等、博愛」の精神を歌っている。
なぜドイツで?
ここで面白いのは、なぜ現地のフランスではなく、隣のドイツで「フランス革命」が芸術として残ったか、ということではないでしょうか。
それについて、上掲の「ジャコバン」の筆者は、こう書いています。
ベートーヴェンと同時代にもフランス革命の精神を表現しようとした作曲家は何人もいた。たとえば、(フランスの)フランソワ=ジョセフ・ゴセック、ルイジ・ケルビーニ、エティエンヌ=ニコラ・メユールらは、あからさまに共和政を賛美する歌やオペラを書いている。だが、知的な意味でそれらの音楽が新しいとしても、音楽のスタイルは古かった。だから、彼らの音楽は今日まで生き延びられなかった。
それに対して、ベートーヴェンは、表面的に共和政を称えただけでなく、新しい音楽のスタイルにその新時代の精神を反映させた。共和政をあからさまに称えた曲は、フィデリオ、エロイカ、第9などで、決して多いとは言えないが、ベートーヴェンは、音楽そのもので「革命」を感じさせようとした。事実、彼は共和政がヨーロッパの政治を激変させたのと同じように、ヨーロッパの音楽を過激に変えたのだ。
ただ、こういうこともあったのではないか。
思想史家の関曠野が書いているように、フランス革命は、後進国のドイツでより「神格化」された、ということですね。
フランス革命は、国家が未統一だった後進地域ドイツの知識人に圧倒的な影響を及ぼしました。革命が勃発した日を毎年酒杯で祝っていたというカントは哲学におけるジャコバンでした。ヘーゲル哲学は、フランス革命とナポレオン戦争を古代いらいの西洋哲学の視点で総括した歴史哲学といえます。
関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたのか』p49
結局、大陸ヨーロッパは、ナポレオンに占領された国から近代化されていきました。革命を起こせなかった国で、より革命が美化される、という、日本にも当てはまりそうなことが起こったのかもしれません。あるいは、アメリカ占領軍を仰ぎ見た敗戦国の日本人みたいな心境か。
このあたりになると、とてもわたしの手に負えない大問題になります。
いずれにせよ、後から振り返れば世界史を変えた大事件であるフランス革命も、同時代のハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンから見れば、さまざまに複雑なニュアンスを持ったことでしょう。
話がまとまらないので、今では忘れられた(が、たまに思い出される)フランス革命にまつわる重要曲、ケルビーニの「レクイエム」を貼り付けて、終わりにします。
ルイジ・ケルビーニ「レクイエム」(1816年) *王政復古期にフランス革命で処刑されたルイ16世を悼んで書かれたレクイエム。ベートーヴェンやブラームスに絶賛された
<参考>