松岡正剛ではなく、杉浦康平が偉かった
松岡正剛には1ミリも関心が湧かなかったが、杉浦康平は凄かった。
松岡正剛は天才ではないが、杉浦康平は天才だった。
松岡の死で、そのことを改めて思い出していた。
工作舎の仕事を印象的にしていたのは、中身は大したことない本を、あのように深遠に見せていた杉浦康平のデザイン力だった。
1970年代の杉浦康平、1980年代の菊地信義などによって、日本のブックデザインは、世界でもまれな高みにあった。
ブックデザインにカネをかけられたのは、そのころ日本経済が絶好調、出版業界も最高潮だったからだろう。
ちょうど活字から写植に移る時代で、出版業界が新たなブックデザインの基準を求め、冒険や実験が許されたときでもあった。
「編集工学」という言葉を松岡は使っていたが、その言葉がより当てはまったのは杉浦康平の仕事だと思う。
彼と仕事をさせてもらったことがあるが、あれはまさに「工学」であり、素材から何からいちいち工作して、一つの工芸品を生み出す作業だった。
一時期は、どのような紙を作るか、どのような書体セットを用意するかなど、製紙会社や印刷会社が杉浦におうかがいをたてていたほどだ。
だが、杉浦は、ある時期からどっかに行ってしまった。
なんでも、奥さんに死なれ、ブータンでその亡骸を鳥葬にしたあと、アジアのどこかで仙人になったとか聞いた。
ニューエイジとかスピリチュアルとか、そのあたりに行っちゃってる人だったから、ああ杉浦はもう日本に戻ってこないのだろうと思っていた。
でも、いつの間にか戻っていて、まだ生きているはずだ。
杉浦の代表作は、1988年の「大辞林」(三省堂)だと思う。版面の隅々、文字の隅々まで彼の美意識が貫徹されていて、圧倒された。彼の日本語文字への偏執、「明朝体」愛の集大成になっていたと思う。
もともと、天才・杉浦が用意する「器」に、見合うだけの「中身」を作れる者はほとんどいなかった。
広辞苑と張り合うために作られたこの辞典は、ギリギリその「中身」があった。
いまや出版の時代、本の時代が終わり、杉浦や菊地の凄さは、もう伝わりにくくなっているだろう。
何より、杉浦が天才を発揮するような場所が、もう出版界にはない。
デジタルの時代になれば、杉浦や菊地の美の技法は生かせない。
松岡の死で思い出されるべき杉浦の偉業が、あまり言及されていなかったのは寂しかった。
菊地信義も死に、杉浦康平は、わたしが見た出版界の天才の、最後の生き残りになっている。
<参考>
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