睨愛
日々のnoteのスキの数で感情が変動する様になった今日この頃。完全に他人の評価に囚われた人生が確定した。だからそれ以外の事は何も頭に入って来ない。「確か今日色々書きたい事あったけどな」と今日の出来事を思い出してみようとするが、何一つ思い出す事は出来ない。思い出せるとしたら、先程母、姉と楽しく会話をしてたぐらい。これは今日一日が充実していなかったという事ではなく、完全に記憶から抹消されているのだという事。何かの感情を随時メモしないと思い出せない体。この体を操るのは相当難しいはずなのによく2024年10月16日水曜日の晩夏を思い出すかの様な夜の中を生き延びて来ている事にまた驚く。そして感心する。自分の命の尊さなどはとっくに無くなっていると本気で思っていたけれど、今日の母、姉と会話をしている時の2人の表情を見ていると、自分の命の尊さを実感し、また明日の為に動ける体に変わっていける。そんな事を思い出したら一つ今日の出来事を思い出した。それは人生初めてのチャーハン作りをしたという事だ。今までいつも僕のチャーハンを作っていたのは母だった。母の作るチャーハンは僕の記憶が無い頃から僕に提供していて、何故かその当時の風景、音、匂い、母、僕の形、母の表情、僕の感情は分からないが、僕の胃袋はこの味を記憶しているかの様にバクバク体内に入れれる形に初めからなっていた。本当に美味しい。僕が保育園の給食でチャーハン以外の食べ物が出た時に、僕が園内を大暴れしてその都度母が先生に謝りながら皆んなよりも早く家に帰って母のチャーハンを食べるという事もしょっちゅうしていた。僕は昔からかなりの偏食で、みんなが好きな西瓜や雲丹や園内限定うどん(中身は普通のうどんだが、ちょっと家の味と違うという事で一口も食べれなかった)などが一切食べれず、その代わりにラーメンや家のうどんや母のチャーハンばかりを毎日毎日食べていた。拘りも凄かった。保育園に設置されてある積み木の位置が少しでも定位置とは違う置き方になっていたら直ぐに直したり、保育園に行く時は絶対この服というただ質感だけが良い無地のTシャツばかり着たりなど、完全に父親(ADHD.ASD.躁鬱.強迫性障害持ち)の血筋を幼少期から感じさせるタイプの子供だった。当たり前の様に落ち着きは無かったから母が集中力を付けさせようと地元の習字教室に7年ぐらい習っていたが何も変わらなかった。(その分、めっちゃ字上手なったけどな)今の社会は僕みたいな「変人」に対してある程度優しい世界になって来ており、父の時代よりも生きやすい時代だと思っている。だがこれは僕が偶々、変人も優しくしようとする社会の時代に「人間」として生まれただけであって、別の生物の場合だったら何もかもが変わっていたと思う。例えばサムネに登場している猫を例に話してみよう。この猫は先週ぐらいに家に出現した猫で、画像でもわかる通り母猫、子猫①、子猫②、子猫③、子猫④の計五匹で構成されており、古い築40年ぐらいの木造住宅の僕の家の隙間から子猫がドドドドドッ!と音を立てながら落ちてくる所を僕と母が目撃して、僕が「猫だ!」と叫んだら母が、「うわ!私動物嫌いやからコラムニスト(仮)どうにかして!」とすぐさま排除の動きを提案して来た。僕は「可愛い!」と思ったので少しその言葉を聞いていないふりをして猫を見ていた。そしたら次々と他の子猫もその隙間から落ちて来て、仕舞いには大きな母猫までもが落ちて来た。僅か直径20〜25cmぐらいの隙間に五匹も猫がいた事に衝撃を受けながらも、猫が逃げない様にそぉ〜と近くに行って暫く観察してみたら、子猫達が母猫の母乳を飲み始めたのだ。母猫は周囲に睨みを利かせ、子猫達を守りながら母乳を飲ませていた。その光景を見て僕は思った。僕みたいなADHD.ASDの特性持ちがもし猫だった場合、何かの感情に任せて衝動的に道路に出て轢かれて死んだり、天敵に襲われて死んだりして野生の生物達の最大なる目的である「子孫繁栄」を達成する事が出来ずに生涯を終える。そんな必要の無い猫だと自分で思っていてもいつも母は側にいて、陰から見守っている。母が大腸癌になって入院している時もLINEで「お父さんちゃんと起きてる?」と家族の事を心配する程だ。(これは僕の母の話)どんな命でも誰かの愛が含まれており、意味の無い命など無い。望まない妊娠で生まれた命でも、その後誰かの愛が含まれる命に変わっていくだろう。衝動的に見たくなるあのグロ動画に映るあの青年も、誰かの愛が含まれている。
睨んだ目には愛があり
その愛が子供に含まれる
ADHD.ASD.鬱持ちの僕の命も
母の愛が含まれていて
いつもその愛を感じる事で生きていける。
汚い共依存。
もう、戻れないから。
追記
ADHD過ぎて
話のテーマがコロコロ変わっていますが
ご了承下さい。