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細馬宏通(ほそま・ひろみち)

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細馬宏通(ほそま・ひろみち)

マガジン

  • トットの抜け道 (『トットてれび』のこと)

    2016年にNHKで放映された『トットてれび』の話。2016年当時に書かれたものの再掲です。

  • 今日の「あまちゃん」から アーカイヴズ

    細馬宏通『今日の「あまちゃん」から』(河出書房 2013)からお蔵出し。7月以降の文章は2013年の放映時に書かれていたものです。

  • 洋楽で練習する日本語

    洋楽を日本語の時間に。

  • 「ドライブ・マイ・カー」覚え書き

    ある作品について長く考え続けることができるとき、その作品にはある種の居心地のよさがある。わたしにとって「ドライブ・マイ・カー」はそうした居心地を持つ作品であり、三時間以上あるこの作品の時間に何度でも浸りたいと思っている。この居心地のよさがどのような考えをもたらすのかはっきりわかっているわけではないけれど、わたしの考えはどうやらこの作品の隅に居座ることを決めたらしいので(スピッツの古い歌みたいに)、しばらくの間、思いつくことを書き留めていこうと思う。  なお、このマガジンに収められた記事は、いずれも映画の内容に分け入るものであり、映画を観ていない人の楽しみをスポイルする危険がある。また、映画を観ずにあらすじをつかみたいという向きには何ら役に立たない。ここまで読んでまだ映画を未見の方には、今すぐブラウザを閉じ、映画館に直行し、このすばらしい映画を同時代の人間として体験することをお薦めする。

最近の記事

「マキシン」 by Donald Fagen

 「マキシン」の魅力はいくつもある。アーティキュレーションを見事に切りそろえるコーラス。ピアノがコードを打つタイミングのよさ。いろいろ現世の悩みで韻を踏んでおいて「マキシン」という固有名詞で韻を解消するタイミング。  その、現世の悩みの部分が、言い切ったかと思うとスイートになるのは、まるで卓ドン刑事とカツ丼刑事のようだ。たとえば最初のコーラス。 Some say that we’re reckless(卓ドン) They say we’re much too young

    • 藤沢さんの背中 —『夜明けのすべて』のある場面について—

       『夜明けのすべて』(三宅唱監督)の冒頭、観客はベンチに座るずぶぬれの背中を見る。背中は次第に自身を支えられなくなり、ついには横たわってしまう。その姿と重なるように「PMS」という病気について物語っているのは、背中の持ち主の声だろう。観客はこうして、藤沢美紗(上白石萌音)の身体に現れる変化を「PMS」として目撃し、以後、その兆候に鋭敏になろうとする。  とはいえ、わたしたちは、動き続ける時計の針をじっと見つめるように兆候を虎視眈々と待ち望んでいるわけではない。スクリーンの上

      • 詩の練習052:電線工夫の歌

        グレン・キャンベル「ウィチタ・ラインマン」を日本語で歌って少し話します。

        • 電線工夫(Wichita Lineman by Jimmy Webb)

          でんしんばしらのうえ 幹線道路でいくよ 電流に何か異常はありませんか 君の歌きこえる電線 唸る音の向こうに 電線工夫だから 電線の上 休みがあるといいな 雨の日だけじゃなく でも雪が降っちゃったら電線は 耐えられない そばにいてくれればいい 欲しくてたまらないけど 電線工夫だから 電線の上 (試訳:細馬)

        マガジン

        • トットの抜け道 (『トットてれび』のこと)
          2本
        • 今日の「あまちゃん」から アーカイヴズ
          1本
        • 洋楽で練習する日本語
          24本
        • 「ドライブ・マイ・カー」覚え書き
          13本

        記事

          最小公倍数を求めて ―荻野目洋子「ダンシングヒーロー」―

           子供の頃から、盆踊りの振り付けはどうもヘンだと思っていた。なぜか踊っているうちにずれる。自分だけが下手くそなのかと思っていたら、みんなずれている。ずれているのに平気で踊っている。ヘンなの。  その典型が、我が滋賀県で発祥した江州音頭。音頭取りがあれこれ歌ってから「ヨイトヨイヤマカドッコイサノセ」と合いの手が入る。踊りは簡単。ポンと打って右、左、右、両手下げ上げ下げ上げ、ポン。6小節で一回り。ところが歌はといえば、必ずしも6小節で回らない。4小節のときも6小節のときもある。

          最小公倍数を求めて ―荻野目洋子「ダンシングヒーロー」―

          斧と発話 —『悪は存在しない』 のこと—

           映画の冒頭、音楽が途切れ、チェーンソーの音が耳をつんざいたかと思うと、1人の男(大美賀均)が長い丸太を切っている姿が目に入ってくる。男が深々と切り込みを入れ、それが貫通した途端、組木の上に横たわっていた丸太は、きれいに4つに転がる。それだけでも、この種の作業の素人であるわたしは手品でも見る思いなのだが、さらにそこからワンショットで、男は短い丸太を次々と切り株に乗せ、斧でぽんぽんと割っていく。力みというものがまるで感じられない。にもかかわらず、すべての丸太は必ず、一振りで割れ

          斧と発話 —『悪は存在しない』 のこと—

          「チェルフィッチュ「映像演劇」をめぐって〜”演劇性”のアップデート」のこと

           5/29、早稲田大学小野講堂で「チェルフィッチュ「映像演劇」をめぐって〜”演劇性”のアップデート」を観た。まず、山田晋平がこれまでの「映像演劇」を振り返り、そのあと、山田晋平、岡田利規、長島確、岡室美奈子による対話が行われた。 https://prj-kyodo-enpaku.w.waseda.jp/activity/2024_0529.html  スクリーンそのものの存在を強く感じさせながら身体が映し出される。そのような身体を劇場という空間に置いたとき、観客は何を見出

          「チェルフィッチュ「映像演劇」をめぐって〜”演劇性”のアップデート」のこと

          いきものめく画面 —「悪は存在しない」のいくつかのショット—

           『悪は存在しない』について書きあぐねているうちに、角井誠による刺激的な論考が出た。中でもはっとさせられるのが、骨を見下ろす黛(渋谷采郁)をとらえる「骨の視点ショット」という記述だ。このショットを論の軸に据えて、角井の論は物語の思いがけない「骨」を浮き彫りにしている。  以下では、この角井の論に触発されて、『悪は存在しない』について書く。ただ、たどる道は角井の論から少しくそれていくことになるだろう。    「骨を見下ろす黛をとらえる骨の視点ショット」には、確かに他のショッ

          いきものめく画面 —「悪は存在しない」のいくつかのショット—

          連れてってよ ("Take Me With U" by Prince)

          かくせない どきどきしてる ひみつが きみの合図 こたえたい もえちゃう 愚問さ どこへ 愚問さ なにを 愚問は問うな ベイビー 連れてってよ からだじゅう どこも よびつづける ふたりとも ほしいんだから 遊んでる場合? 愚問さ どこへ 愚問さ なにを 愚問は問うな ベイビー 連れてってよ 愚問は問うな 行こうよ君のマンション 愚問は問うな 行こうよ夜のタウン とにかくいようよ 夜もずっと とにかく抱かれていたいよ ずっと もう一晩中 途方もない 離さないよ 操縦して

          連れてってよ ("Take Me With U" by Prince)

          佐藤文香「渡す手」を読む

           佐藤文香『渡す手』の表題作「渡す手」を何度か読み、未だ読み切ったという気がしない。詩はまとまりのある物語ではなく、そのつど明滅することばの時間だと思っているけれど、ならばそれぞれのことばが明滅するための響き合いはあるはずで、しかしそれがまだ、十全には感じられていなくて、だから読み切った感じがしない。  読み切って片付けられないから詩は携えられるのだとも言える。その、十全ではないところも明らかにしながら、いまのところわたしがどう読んでいるか、一連ずつたどって、記していこう。

          佐藤文香「渡す手」を読む

          『二度寝』のよさを二つほど物語る

           『二度寝』(Creepy Nuts 作詞:R-指定、作曲:DJ松永)のよさについて記しておきたい。感想とか解釈とかじゃなく、どうきいてどう妄想しているか、妄想はどうとめどなく続くかについて。  最初から一行一行全部いいのだし、その連なりをいくらでも語れるのだが、とりあえず二箇所だけ。  もうこの「煙てぇーか昔話は」がよすぎてですね。浦島といえば煙、煙といえば浦島なのだが、それは、お伽噺の上ではもっぱら若浦島に浴びせて現世並みに年をとらせる効能で知られている。その煙を「昔

          『二度寝』のよさを二つほど物語る

          「あの曲」は「『ああ』の曲」 —柴田聡子『後悔』—

           好きなうた、ぐっとくるうたの基準は人によって違うだろうけれど、「この人は何を言い出すんだろう」と思わせるうたは、いいうただと思う。そして、柴田聡子のうたは、「何を言い出すんだろう」率がとても高い。  たとえばいきなり「ああ、きた」とうたい出す。何がきたかと思ったら「あの曲がきた」とくる。なんじゃこりゃ?  世の中にはDJが好きな曲をかけてくれるうたがたくさんあるけれど、柴田聡子の「後海」は何の説明もなく「ああ、きた」から始まるうた、ただ頭とからだにばんっ、と衝撃がきて、それ

          「あの曲」は「『ああ』の曲」 —柴田聡子『後悔』—

          トットの抜け道 第二回(2016.6)

          アニメーション映画『窓際のトットちゃん』は、鉄道、改札、車両、本、そして泰明ちゃんを軸とした、よい映画だった。それを見て、『トットてれび』の「さあさあ出発だ」という声のことを想い出したので、以前書いた以下の文章を再掲します。 トットの抜け道 第二回  テレビは鏡だ。  といっても、「テレビは社会を映す鏡である」といった話をしたいのではない。テレビは、文字通り「鏡」なのだ。  昭和33年の大晦日、中華飯店にテレビが来る。画面の中の紅白歌合戦は白黒だけれど、そこに赤いネオン

          トットの抜け道 第二回(2016.6)

          トットの抜け道 第一回(2016.6)

          『ブギウギ』が放映されている今だから、2016年に放映された『トットてれび』について書いたものをもう一度掲載しておこう。なお、『トットてれび』を知らない人はこちらをどうぞ。 以下の文章は、放映された頃、いまはないwebサイトに掲載した。 トットの抜け道 第一回  『トットてれび』の抜け道のことについて書いておこう。あらすじだとか視聴率だとかかかった予算だとか、そんなことじゃなく、このドラマのあちこちにほころびている、ここからよそへと通じる思いがけない抜け道のこと。テンポ

          トットの抜け道 第一回(2016.6)

          春日聡監督『ブーンミの島』を観る

           日曜日、三軒茶屋のキャロットタワー5Fで春日聡『ブーンミの島』。春日さんとは、細川周平さんのプロジェクトでご一緒したことがある。映画は宮古島の苧麻文化を映したものだという。この夏、初めて宮古島の調査に行ったわたしには、行かない手はなかった。  とはいうものの、わたしは、そもそも、苧麻も知らなければ、糸というものがどうやって作られるかも知らなかった。紡績、ということばは知っていたが、「績」という字を「うむ」と訓読みすることすら知らなかった。  苧麻、もしくは「ブー」から糸を

          春日聡監督『ブーンミの島』を観る

          『違国日記』の語りと声 (細馬宏通)

          このノートは、『違国日記』の少なくとも5巻までを読み終えた人に宛てられています。  「違国日記」というタイトルの作品に、ある奇妙な表現が表れる。「page. 11」で、高校に入学した朝は、同級生たちと初めてことばを交わすうちに、両親についての会話に巻き込まれる。朝は自身について「…うちはー 親 来てなくて」「っていうか事故で死んじゃって」「叔母さんと暮らしてるんだけど 叔母さん小説化で忙しいからさー」という。三番目のフキダシは、同級生の顔にかぶっており、このフキダシをきいた

          『違国日記』の語りと声 (細馬宏通)