「チェルフィッチュ「映像演劇」をめぐって〜”演劇性”のアップデート」のこと
5/29、早稲田大学小野講堂で「チェルフィッチュ「映像演劇」をめぐって〜”演劇性”のアップデート」を観た。まず、山田晋平がこれまでの「映像演劇」を振り返り、そのあと、山田晋平、岡田利規、長島確、岡室美奈子による対話が行われた。
https://prj-kyodo-enpaku.w.waseda.jp/activity/2024_0529.html
スクリーンそのものの存在を強く感じさせながら身体が映し出される。そのような身体を劇場という空間に置いたとき、観客は何を見出し始めるか。それは演劇における身体のあり方をどのようにアップデートしうるか。このような問いを置いた上で、安易な答えに着地せずに新しい考えを試みていく四氏のやりとりはたいへんおもしろかった。長嶋さんが終盤投げかけた、シアトリカルな表現から身体そのものを押し出すパフォーマンスへと変化してきた70年代以降の舞台のあり方に対して、改めてシアトリカルな表現を試みるとしたら、という問いにも考えさせられた。
対話では、「映像演劇」の一作品『階層』について、スクリーンとスクリーンとのあいだに隙間を開けると、観客が能動的にその隙間で起こったことを想像し始める、という現象に話が及んだ。じつは対話のうしろの画面で、山田さんがスクリーンセーバーの如く『階層』の一場面を流していたのだが、それを見ていて気づいたことがあったので、ここで記しておこう。その場面は、以下の動画の11:19あたりから見ることができる。
7つの縦長のスクリーンが並べられており、俳優たちは一階の客席に向けて動くのだが、来場した観客はそれを通常の客席からではなく、客席上に据えられた張り出しから見下ろすという、不思議な構造を持った作品だ。記録映像で観たので、スクリーンを間近に見下ろす臨場感がどのようなものかは想像するしかなかったが、面白かったのは、スクリーン間の隙間の幅だった。
通常、いわゆるマルチスクリーンでは、スクリーン間の隙間が、ちょうど投射される映像間の隙間と同じ幅になるよう調節して、自然に見せる。ところが「階層」では、スクリーン間の幅が、映像間の隙間より少しばかり狭く設られている。そのため、俳優の動きがスクリーンをまたいで、一つのスクリーンから隣のスクリーンに移るとき、スクリーンどうしは、二次元で繋がっているというよりは、ぐにゃりとねじ曲がった空間を経由しているように見える。俳優がいったん一つのスクリーンの端から、そのねじれた空間にはけて、そこから隣の画面に改めて登場するような感じがするのだ。言うなれば、七つのスクリーンの、そのスクリーンごとに、俳優たちは小さくはけて小さく現れる。そのたびに、観ているわたしは、スクリーン間の隙間のぽっかり空いた空間を観ながら、そこに、スクリーンから出た俳優の、見えない身体の亡霊が、ねじれながら漂っているような感覚に陥る。
今回はあまり詳細を見ることができなかったが、「ニューイリュージョン」という、2枚のスクリーンの作品では、この、映像間とスクリーン間の幅のずれの調整が、観客の想像力にかなり決定的な役割を果たしたのではないかと思う。対話の中でちらと出て来た「等身大」問題(映像の中の俳優をどれくらいの大きさにするか、等身大か5mの巨人か)という問題も、このスクリーン間の幅の問題と関係してくるだろう。
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うがったことを言おうとするのではなく、これからの可能性を慎重に探るように対話は進み、岡田さんが終盤で、このあとミーティングしますと言っていたのが印象的だった。まったく。これからミーティングがしたくなるような対話が必要だ。