いきものめく画面 —「悪は存在しない」のいくつかのショット—
『悪は存在しない』について書きあぐねているうちに、角井誠による刺激的な論考が出た。中でもはっとさせられるのが、骨を見下ろす黛(渋谷采郁)をとらえる「骨の視点ショット」という記述だ。このショットを論の軸に据えて、角井の論は物語の思いがけない「骨」を浮き彫りにしている。
以下では、この角井の論に触発されて、『悪は存在しない』について書く。ただ、たどる道は角井の論から少しくそれていくことになるだろう。
「骨を見下ろす黛をとらえる骨の視点ショット」には、確かに他のショットにはない、なんとも言えない不気味さがあった。その「なんとも言えない」ところを、もう少し考えてみよう。
じつは『悪は存在しない』には、人ではなく物の位置にカメラを置いたショット(いまの時点では、あえて物の「視点」ショットとは呼ばないことにしよう)が、「黛をとらえる骨の視点ショット」以外にも何度か登場する。たとえば、序盤、葉わさびを見つけた巧(大美賀均)を、葉わさびの側からフィクスで撮るショットがそうだ。冒頭の木立ちの重なりを捉える繊細なトラヴェリング・ショットや娘の花(西川玲)を背負う巧が表れる移動撮影がもたらすマジカルさに比べると、どこか隙があって、わざとらしい感じがする。違和感はある。ではこれを「葉わさび視点ショット」とまで言えるかというと、それは違う気がする。
もう一つは、最初に巧と花が子鹿の骨を見つけたときに、骨の側からフィクスで撮られたショットだ。これは、「骨を見下ろす花をとらえる骨の視点ショット」と言えなくもない。しかし、角井はこのショットを決定的なものとしては取り上げていないし、わたしも、これを「骨の視点」とまで言うのはいい過ぎだと思う。一方で、葉わさびの側からのショット同様、何か得体の知れない違和感は感じられる。「はんや」という飲み込みにくい巧による名指し(それは、あとでパンフレットを見てようやく「半矢」という漢字なのだとわかるほど、なじみのないことばだ)が、その違和感にさらに謎をかける。
では、これらのショットに比べてなぜ、骨を見下ろす黛をとらえた後半のショットが、わたしを戦慄させるのか。それは、このショットにおいて、カメラがくるりと向きを変えるからだ。骨の位置で死んだように止まっていたカメラが、不意に目玉をぎょろりと動かしたかのような衝撃。その動きは、骨にとりついている何ものかの動きであるかのように感じられる。わたしは、地面近くから仰角でくるりと動くその動きを、得体の知れないいきものとして感じ、そのいきものの在処を、骨に帰する。さらに言えば、わたしにとってそのいきものは、黛が動いたからこそ目玉を動かしたように見える。いきものによって黛が「選別された」かのように見える。
じつを言えば、この骨のショット以外にも、『悪は存在しない』で背筋がぞっとしたショットがあった。それは映画の序盤、学童保育に花を迎えに来た巧が、花が先に一人で帰ったと知って車で追いかける場面である。そもそも、この学童保育の場面は、「最初の一歩」か何かを遊んでいるらしい子供たちが、それぞれの姿勢で動きを止めているのをドリーで撮影していくという、ゴダールの『ウィークエンド』の車たちを思わせるショットで始まるのだが、この時点ではカメラの動きはいかにも滑らかで、映し出される光景は不穏ながらも、楽しんで観ていられる。問題はそのあとだ。カメラは車に乗り込む巧を見送る学童保育の先生を映し出すのだが、その先生の姿が不意にがくんと上下に揺れる。
このときわたしは、こちらの身体が不意に揺らされるようなショックを受けた。
すぐに景色は、動いたかと思うとみるみる遠ざかりはじめ、ようやくそれは、巧が発進させた車の後部から撮影されたのだとわかった。しかしなおもショックが名残っている。一つには、遠ざかる景色があまりに不安定だからかもしれない。カメラは、活劇場面でもないのに、車の振動をキャンセルするどころか、むしろ振動にまかせて震えている。
しかし、もう一つには、わたしが「そのようにカメラが動くとは思っていなかった」からだ。
学童保育の先生を捉えるカメラは、てっきり地面に固定されているものだと思っていた。もっといえば、それは人に据え置かれたものだと思っていた。それが突然、思いがけない動力を得たのを観て、その動きに、得体のしれないいきものの気配を感じてしまった。さらに言うなら、ここには「骨を見下ろす黛をとらえる骨の視点ショット」に通じる怖さがある。先生の姿が追われるのではなく上下に揺らされることによって、先生は「選別されなかった」のだという感じがしてくる。
(続く)