『違国日記』の語りと声 (細馬宏通)
このノートは、『違国日記』の少なくとも5巻までを読み終えた人に宛てられています。
「違国日記」というタイトルの作品に、ある奇妙な表現が表れる。「page. 11」で、高校に入学した朝は、同級生たちと初めてことばを交わすうちに、両親についての会話に巻き込まれる。朝は自身について「…うちはー 親 来てなくて」「っていうか事故で死んじゃって」「叔母さんと暮らしてるんだけど 叔母さん小説化で忙しいからさー」という。三番目のフキダシは、同級生の顔にかぶっており、このフキダシをきいた瞬間の同級生の表情を隠すように描かれている。
奇妙な表現、というのは、その直後、囲みのないフキダシに記されたことばのことだ。
これは「違国日記」という「日記」の物語のはずだ。なのにこの囲みのないフキダシには、「日記に書けなかった」ということばが、書きことばで記されている。では、この「日記に書けなかった」と書く語りは、いつ、どこで記されているのか。
この、日記と語りとの不一致は、同じ回のラストでいっそうはっきりする。囲みのないフキダシによる語りは、あたかも日記に記されたことばであるかのように続いている。
ところで、同じページ(3巻 p.37)には、朝の日記の文面が描かれているのだが、その文体が、語りとはまるで違う。絵に描かれた日記には、高校一年生にふさわしい、絵文字が記されており、続けて「でも勝手にしんじゃった人が悪いと思う」という一文が記されている。それまでの日記調の語りと描かれた日記の文面とは、どちらも亡くなった母のことを語っているのだが、二つの文は、うまくつながってはいない。まるで、高校生の朝は、語りとは関わりのない日記を書き続けているかのようなのだ。
このように、『違国日記』にあらわれる「日記」は、どこか一筋縄ではいかない現象である。
『違国日記』の中で、日記をめぐる、もっとも衝撃的な回の一つは、5巻の、朝が母親の日記を読む「page. 23」だろう。
ある日、朝は槙生の部屋に忍び込んで、紙袋に入った母親の日記を見つける。突然、すでにこの世にはいない朝の母親である実里が現れ、フキダシで語り始める。この語りが通常の声ではないことは、フキダシが通常のアンチック体ではなく明朝体で記されていることから明らかだ。字体とその語り口から、読者はこの声を、実里が日記を読み上げる声として、読み取ることができる。
突然、朝は「わかんないじゃん」と言う。
異様な反応だ。
ふつう、母親の日記に自分の名前の由来を見つけたら、そしてそれが美しいことばで綴られた記述であったら、読み手は、自身のルーツに心震わされ、おかあさんありがとうと感謝にむせび泣くものなのではないか。ところが、ここに表されているのは、日記への不信だ。日記には何とでも書ける。本当はなかったことも、本当は感じなかった思いも。それが、ただの自身への覚え書きではなく、娘に読まれることを前提としたものであるならなおさら。読者はまず、朝のこの尋常ではない反応に衝撃を受ける。
しかし、一方で、朝の傍らには、「わかんないじゃん」という朝の声とは別の考えが記されている。
語りの中で、朝は、高校生である自分の態度を「受け入れたくなかった 知りたくさえなかった」と過去形で捉えている。しかも「母にも母の 彼女だけの怒り 孤独 葛藤があったこと」を、母の日記から読み取っている。そして、自身に「わかんないじゃん」と叫ばせたのは、母の日記に感じた「大きな穴」であり、その穴の底にあるかもしれない「「本当は母はわたしを愛していなかったのではないか」という怪物めいた恐怖」であることもまた、読み取っている。このような、大人の立場の読み取りと、高校生である朝の「わかんないじゃん」という叫びとは、はっきり乖離している。
この回が読者を揺り動かすのは、高校生の朝が、自分に最も近しいはずの、自分の母親の記したことばに「嘘」の可能性を読み取る直情が一方にあって、もう一方では(おそらくはその後、大人になった朝が)同じことばに、嘘以上の怒り、孤独、葛藤を読み取っている点にある。そして、この、大人になった朝の語りは、どういうわけか、叔母で小説家でもある槙生のことばの調子に、とてもよく似ている。語りと声は、高校生の朝の姿の傍らにあって、まだことばにならない自身の孤独をなめすように響き合う。
そういえば、この物語の最初に記された、「あの日 あのひとは 群れをはぐれた狼のような目で わたしの 天涯孤独の運命を 退けた」という朝のことばもまた、およそ中学生や高校生には似つかわしくない調子で、そのことばづかいには、自身の運命の結節点を、それこそ「群れをはぐれた狼のような目で」決然と書き記す強さがある。これは十代の朝のことばよりも、むしろ槙生のことばに近い。
「わかんないじゃん 何だって書けるもん」という朝のことばは、書くという行為に対する異議申し立てでもある。それは、小説家の槙生にとって、避けて通ることのできないものであり、槙生はこの問いに、書くことによって答えねばならない。朝は自覚していないけれど、それは、書くということをなりわいとする槙生との共同生活という、この物語全体を揺らす、大きな問いでもある。
『違国日記』の物語のあちこちにあらわれる朝の語りは、いつ、どんな場所で、記されているのか。そして、まだ十代の朝、日記のことばに対して「こんなの嘘かもしんない」「わかんないじゃん 何だって書けるもん」と叫ぶ朝は、どのような怒り、孤独、葛藤に突き動かされ、声を発していくのか。朝の、書くことへの異議申し立てに対して、槙生は、そして朝自身は、どんなことばを記すことになるのか。語りと声、二つのことばの違いは、『違国日記』の最終巻にいたるまで、その緊張を保ち続ける。
*このノートは、『ユリイカ2023年9月号 特集=ヤマシタトモコ』に収められた、細馬宏通『内言のない会話劇――「日記」以前としての『BUTTER!!!』』 のサブテクストとして書かれています。