【創作】評論家とは、小説家になれなかった人がなる職業?
評論家は、
フィクションの創作が
書けなかった人、
想像力がなかった人がなるもの。
私の頭にはこんな偏見?が
あります。
お恥ずかしながら。
では、昭和にファンがたくさんいた
『批評の神様』小林秀雄や、
その他にも、
江藤淳や吉本隆明ら、
ほぼ神様的な存在は、
想像力?空想力?が
不足していたから、
小説家にはならず?なれず?
批評家になったのだろうか?
こんな偏見を続けていいだろうか
という不安が先立ちますが、
お叱りは受ける覚悟で書き進めます。
小林秀雄は、
あんなに、キュンキュンとエモる
評論をたくさん書けたのだから、
まさか、想像力がなかったとは
想像がつかない。
モーツァルト論、
ドストエフスキー論、
ゴッホ論、
志賀直哉論、
詩人ランボウ論、
本居宣長論などなど、
彼がいなかったら、
こうした人びとは
今、どうなっていたろうか?
彼は感動した作品や人を
とことん研究したけれど、
ただの研究者では
終わらない人だった。
世間にたくさんいる
専門的な研究者と、小林秀雄は
いったいどこが違うのだろう?
それは、やはり
並々ならぬ創造力と想像が
作品にたっぷり注がれている
からではないでしょうか?
もちろん、小林秀雄だって
若い時代、一度は、
小説家を目指した時がありました。
やっぱり、あなたも
小説家になりたかったのね?
と、ちょっと同情したくもなる。
私も小説家をあきらめた口だから。
でも、こうも思うんです。
小説家になるには、
あまりにものを観るチカラが
ずば抜け過ぎていたのではないか。
はっきり言って、
小説家として小説を書き、
世に放つのは、
実は相当な鈍感さが必要なんじゃ
ないかしら?
ものが見え過ぎていた小林秀雄には
そうした鈍感さはなかったから
創作は痛い行為に見えたのでは
ないでしょうか?
また、こんな疑問も湧いてくる。
小説家を目指して小説家になる、
というのは、よくある憧れだけど、
批評家を目指して、、、
という話はあまり聞かない。
というか、
人は本来、批評家を最初から
目指したりはしないですね。
小説と批評は、
書くという意味では、
よく似た行為ではありますが、
小説家は、
空想力とナルシズムが必要だ。
でも、批評家になるには、
知識と愛情と分析力がいる。
小林秀雄は、
その3つをみな抜群に備えてた。
でも、なかなか、
そんな人はいないのでしょうね。
ファンがたくさんいる批評家は
今、滅多にいませんからね。
古市憲寿や千葉雅也さん、
東浩紀さん、宮台真司さんら、
現在を代表する評論家たちも
小説家になりたい未練は感じる。
実際、古市さんや千葉さんは
小説を書いているし、
芥川賞にノミネートされている。
でも、なんだか、小説家には
なりきれていないんだよなあ。
小林秀雄にも、
作家になりたいという願いは
やっぱりずっとあったのかな。
そのコンプレックスがあるゆえ、
名批評家になれたのかもしれない。
ちょっぴり可哀想な小林秀雄。
ああ、初めてだ、
小林秀雄に可哀想だなんて
感情を持ったのは。
でも、あんなに独特の
個性的な文体を備えながら、
小説家にはならなかった人は
日本近代文学史では
きっと稀だったに違いない。