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生まれてきたことが苦しいあなたに

20240415

シオランの思想

生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる。

シオランは、常に思想なりなんなりが「生きられている」かを重視してきた。「生きられている」思想とは、その思想と共に生き、その人の人生が刻印されている思想ということだ。あるいは、思想なりを 「生きる」とは、その思想のために傷を負うこと、その思想のために苦しむことだと言えるだろう。言い換えれば、その人の人生に影響を与えることだ。

労働の拒否と、怠惰の礼賛

一般に人間は労働過剰であって、この上さらに人間であり続けることなど不可能だ。労働、即ち人間が快楽に変えた呪詛。もっぱら労働への愛のために全力をあげて働き、つまらぬ成果しかもたらさぬ努力に喜びを見出し、絶えざる労苦によってしか自己実現はできぬと考える、これは理解に苦しむ言語道断のことだ。

根源的なものを垣間見たければ、どんな職業にも携わってはいけない。一日中、横になったまま、嘆いたり呻いたりすることだ。

私は働いて自分を破壊するよりも、パラサイトの生活を送りたかった。それは私にとってドグマ ( 信条 ) のようなものだ。自分の自由を守るためにはどんな貧困も受け入れた。 パラサイトの人生とは、つまり楽園のような素晴らしい人生ということだが、これだけが私には唯一耐えられるものだと思えた。

怠惰:何かをすることそのものの拒否

怠惰な人間:個人・社会の維持及び再生産に対して気が乗らない人間

社会というものが出来て以来、そこから逃れようとする者は迫害され、嘲笑された。君が一つの生業を、名前の下につける肩書を、君の虚無の上に捺す印章を持ちさえすれば、あとは何をしようと構わないのだ。「俺は何もやりたくない」などと叫ぶ大胆さは、誰一人持ち合わせていない。世間の人は、あらゆる行為から解放された精神に対してより、人殺しに対するほうが寛大である。

殺人は、社会の通常の活動の範疇に入るが、怠惰による無為はそうではない。

自由になろうと努めてみたまえ。君は餓死するだろう。社会が君を生かしておいてくれるのは、君が交互に奴隷となったり暴君になったりする、その限りにおいてである。

私たちは、一つの仕事を持つことを求められている。まるで生きることが一つの仕事、それも最も困難な仕事ではないかのようだ。

人生が余生になるとは、それはいつ終わりを迎えても構わないものになる。まだ終わりは来ていないが、いつ来てもいい。

笑いとは生と死に対する唯一の、紛れもない勝利である。

私たちは社会で生きる限り、何らかの役割を果たさなければ生きていけない。経済であれば労働者あるいは資本家として、家庭であれば親あるいは子として。あらゆる人が自分の役割を果たすことで何かを行っている。そもそも何かを行わなければ生きていけないのだ。生きるためには何かをしなければいけない。
それどころか、私たちは積極的に何ごとかを行っている。働かないでも生きていける資産を持つ人でも、やはり積極的に何かをしている。モノを加工する。輸送する。客にサービスを提供する。コードを書く。作品を創造する。それによって私たちは社会と他人に何かをもたらしている。私たちの行為の総体によって社会が成立し、国家が成立し、ひいては歴史が成立している。

完全な自由を熱望する人間は、それに到達した途端、自分の出発点に、最初の隷従に戻ってしまう。

誰からもあれをやれと強制されず、選択肢が無数にあり、その中から決定しなければならない状況よりも、人はむしろ誰かに指示・命令されるほうが楽に感じる。選択肢から何かを決断するという行為は、思いのほか疲れるものだ。そうでなければ、他人に何かを選んでもらうときに予め選択肢を絞るのが推奨されたりはしないだろう。
元気があるときなら自由に、思う存分検討して、 決断することもできる。だが元気がなかったり、衰弱したりしていればどうなるか。 誰かに決めてもらいたいと思うようになるだろう。

人は生きているだけで疲れるものだ。人生に向いてない人はなおさらだ。呼吸をしているだけですり減っていくというのに、日々の労働や人間関係が輪をかけて私たちを蝕んでいく。

様々なことが私たちにこれをしろあれをしろ、これに関心を向けろあれに関心を払えと命じてくる。私たちはその濁流に飲みこまれ疲弊しきってしまって、そのうち、何のためにこんなに疲れているのか、何のために生きているのか、わからなくなる。すべてのことが徒労に思えてくる。ときどき、何の苦しみもなく、ふっと一瞬のうちに自分が消えれば、どんなに楽だろうかと思うようになる。

何よりも、私たちは生きているだけで老いていく。どんなに疲れ知らずの人にも、老いは待ち構えて、じわじわと襲いかかってくる。 老いは疲労を増し、そして人生の儚さに私たちを直面させる。
しかし、そもそもなぜ人生は虚しいのだろう。それは私たちの人生がとても跪く、崩れやすく、 儚いからだ。時間と共に私たちは老いて昔のことを失ってしまう。虚しいというのは、変転限りなく、持続性がないということだ。 永続性のかけらも持たず、すぐにふっと消えてしまう。そこから、無駄・無意味ということが出てくる。疲労や苦しみ、歴史や未来への展望が虚しさの感情を強める。

死の観念はあらゆる態度を正当化する。死はどこにでも引き合いに出せるし、どんなことにでも役に立つ。死は有効性と無効性、両方を正当化する。
次のように言うことができる。
「ねえ、どうしてこんなことをする必要があるんですか。どうして苦労しなきゃいけないんですか。どうせ死んでしまうのに」
あるいは反対にこうも言える。
「いずれ私は死ぬのだから、私に残された時間は限られているのだから、私は急いでこれをやらなければいけない」
まさしく解決がない問題であるがゆえに、死はいかなる態度をも正当化し、生の重要な局面において、自分を助けてくれる。死はすべてを正当化する終わりのない問題である。

勝とうが負けようがどうでもいい。だから何をやってもいい。何をやっても意味はないから。成功しようと失敗しようとどうでもいいではないか。それが私たちになんの関わりがあるだろう。私たちの成功も失敗も、最後には塵のように消えるし、そして私も灰になるのだから。

人生は虚しいというのは、それほど、ネガティブなことなのだろうか。人生に意味はないという事実が、ある種の「ポジティブな」 効果を生むのだと。
①人に意味がないのは喜びである
②人生には意味はないとう事実は生きる理由になる。


人生に意味がないというのは、人生には目的がないという風に言い換えられる。何のために私たちは生まれた?何のためでもない、だから私たちに存在意義はない。このことはもちろんネガティブなことに感じられるかもしれない。
しかし、目的がないからこそ楽しいということはないだろうか。目的があるならば、それを達成したかどうかで各人の人生の価値が決まってしまう。明確な目的があるというのは、達成するにせよしないにせよ、苦しみの原因になる。 できた人はまあいいだろう。だができなかったらどうするのか?しかもその目的とは外から強制された目的だ。反対に、目的がないのなら、好きなことをやっていいのだ。目的がないからこそ、私たちは何でもできる。むしろ私たちには意味があるから、目的を与えられているから、何かをやらなければならずに苦しんでいるのではないか?私たちが何かのために生まれたのなら、私たちはそれをしなければいけない。いや、実のところは、何かのために生まれたからって、別にその何かをしなければいけないというわけではないのだが、その何かをしろという圧力が生じるだけで私たちには苦しみになる。


生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。 唯一の理由にだってなる。

人生に意味はないというのは、あえて死ぬ理由
にはならない。だって人生に意味はないのだから、生きたって意味はないし、死んだって意味はない。だからわざわざ死ぬ理由にはならない。その結果として、生き続ける理由のひとつになる。

生きるどんな理由もなければ、ましてや死ぬどんな理由もない。だから、根拠などまるでなしに生き、そして、死のうではないか。

健康である限り、人は存在しない。
自分が存在していることを知らない。

病気は実在し、そして、人は病気に罹ることによって器官の存在を初めて強く意識する。私たちに胃があることは、日常的に知識として知ってはいる。しかし私たちが胃を持っていることを強く意識することはない。胃や消化器官が順調な限り、私たちは胃があたかも存在しないかのように食べ、これはおいしい、それはまずいなどと思うだけだ。それに対して胃が不調になったとき、私たちは胃の存在を強く意識する。 私たちには胃があったと気づく。知識でしかなかったものがこの上なく実感できるものになる。そのとき私たちは不調になった器官にほとんど支配されるがままになる。そして器官と同様に、私たちが私たちの存在を意識するのも、つまり自分が存在していることを意識するのも、病気になったときだ。

人が健康でいる間は、人は健康を意識せず、 それを享受する。それは幸福な状態なのだが、私たちはたいてい自分が幸福であることを知らない。 健康が失われたときはじめて、私たちは自分が幸福であったことを知る。

私たちの人生は、病気によって初めて始まる。 実際に人生は病気に満ちており、そして大抵の人生は病気によって終わるのだから、機会には事欠かない。病気のおかげで私たちは自分が生きていることを実感する。そして意識されるその苦痛に満ちた人生は、不幸な人生以外ではありえない。

死は人生の外側であるとともに、内側にも属している。これは実は当たり前のことだ。だって、そもそも生きていないと、死ぬことはできないからだ。死ぬためには生きている必要がある。もっと言えば生まれる必要がある。死ぬことが、存在する状態から、存在しない状態への移行だとしたら、一度も生まれなかった人は、決して死ぬことがない。だとすると、死は生に内在していると言える。

私たちは死を意識するほど生を意識し、生を実感する。ちょうど病気が私たちをまどろみから覚醒させるように、死の意識も私たちを覚醒させる。だから、人は死と格闘することで生を真剣に生きられるようになる。 死を意識すればするほど、人は真剣に人生を生きる。死に近づくほど私たちはこの上な生を意識し、本当の人生を充実させてしまう。

私たちは、死からも自由になるほど生から解放されたい。







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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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