(超長編)【本要約】史上最強の哲学入門
2022/2/23
バキ成分
バキ地下闘技場
今までの哲学入門書には、何が足りなかったのだろうか?
「 バキ 」分が足りなかった。
よもや「 バキ 」を知らない人はいないとは思うが、、、
「 史上最高の真理を知りたいか! 」
「 おおおおおおおお!! 」
哲学者入場!
「 史上最高の『 真理 』をしりたいかーーッ!」
「 オーーーーー!」
「 ワシもじゃ、ワシもじゃみんな!」
「 全哲学者入場 」
地下闘技場の哲学者紹介
神殺しは生きていた!さらなる研鑽を積み人間狂気が甦った!超人!!
ニーチェだァーー!!
近代哲学はすでに私が完成している!
ヘーゲルだァー!!
経験されしだい還元しまくってやる!
現象学の開祖フッサールだァー!!
哲学・科学なら我々の歴史がものを言う!
自然哲学者デモクリトス!!
「 存在 」の不変を知らしめたい!
パルメニデス!
著作は三部作未完だがケーレ ( 転回 ) ならお手のものだ!
ナチスの鉄拳ハイデガーだ!!
方法的懐疑は完璧だ!
近代哲学の父デカルト!!
真理のベストディフェンスは神学の中にある!
スコラ哲学の神様が来たッ!
トマス・アクィナス!!
議論なら絶対に敗けん!相対主義の話術みせたる!
ソフィスト、プロタゴラスだ!!
アプリオリ ( 先賢的 ) な総合判断ならこいつが怖い!
哲学界のコペルニクス的転回カントだ!!
熱帯から人類学者が上陸だ!
構造主義レヴィ=ストロース!!
楽しく生きたいから哲学者になったのだ!
真の幸福を見せてやる
エピクロス!
冥土の土産に「 真理 」とはよく言ったもの!
達人の問答が今議論でバクハツする!
ギリシア流産婆術ソクラテス先生だーー!!
哲学者こそ地上最高の代名詞だ!
まさかこの男が来てくれるとはッッ!
哲人王プラトン!!
儲けたいからここまで来たッ!
「 見えざる手 」の根拠、いっさい不明ー
アダム・スミスだ!!
オレたちは言語学で最強なのではない。哲学で最強なのだ!
ご存知、近代言語学の祖ソシュール
哲学の本場は古代ギリシアにある!
オレを驚かせる奴はいないのか!
ヘラクレイトスだ!!
デカカァァァァァァいッ!!
説明不要!!
哲学界の大巨人アリストテレスだ!!
哲学は実践で使えてナンボのモン!
超道具主義哲学!
本家プラグマティズムから、デューイの登場だ!!
国家は王のもの、邪魔する奴はリヴァイアサンで思いきり殴るだけ!
ホッブズ!!
真理を探しに宗教へ入ったって!
教父アウグスティヌス!!
他者論にさらなる磨きをかけ「 イリヤの空 」
レヴィナスが帰ってきたァ!
今の自分に差延はないッッ!
脱構築デリダ!
東洋四千年の哲学が今ベールを脱ぐ!
印度から
ゴータマ・シッダールタだ。
信者の前でならオレはいつでもキリストだ!
燃える教祖
イエス・ベン・ヨセフ
本名で登場だ!!
主教の仕事はどーしたッ!
知覚の炎、いまだ消えずッ!
「 在る 」も「 無し 」も思いのままバークリーだ!
特に理由はないッ!
科学が真理なのは当たり前!
王位協会には内緒だ!
科学の神様!
ニュートンが来てくれたーー!!
サン=ジェルマン通りで磨いた実在哲学!
実存主義のデンジャラス・ロンパリ
サルトルだ!!
実在だったらこの人を外せない!
超A級反逆児キルケゴールだ!!
超一流経済学者の超一流哲学体系だ!
生で拝んでオドロキやがれッ!
共産主義の妖怪マルクス!!
経験論はこの男が完成させた!
イギリス経験論の切り札
ヒュームだ!!
ダメ人間が帰ってきたッ!
お尻を出した子一等賞!
人民は君の著作を待っていたッ!
ルソーの登場だーーッ!!
真理の真理
真理を目指して何が悪い!
人間として生まれたからには、誰だって一度は絶対的真理を求める。
真理など一瞬たりとも夢見たことがない、そんな人間は一人として、この世には存在しない。
それが真理だ。
ある者は生まれてすぐに!
ある者は厳しい現実に!
ある者は難解な学問に屈して!
それぞれが真理を掴むことを諦め、それぞれの道を歩んだ。
派遣社員、政治家、パイロット、漫画家、ニート、サラリーマン、フリーター、、、
しかし、
最後まで諦めなかった者がいる!
この地上で誰よりも!
誰よりも、真理を望んだ、偉大なるバカヤロウたち!
入場!
■真理の真理
プロタゴラス「 相対主義 」
絶対的な真理なんてそんなものはない!価値観なんて、人それぞれさ!
相対主義である。
何が正しいかなんてことは、人や場所や時代によって変わるもので、相対的なものに過ぎない。
人間は万物の尺度である
プロタゴラス
ソクラテス「 無知の知 」
無知を自覚することが真理への第一歩
水の冷たい・温かいは、人それぞれだから、絶対的に決められないとしても、もし、銭湯のような共同浴場があったら、やっぱり、1番最適な理想の温度を決めなければならない。そして、世の中は、共同浴場のようなものである。
ソクラテスは、「 相対主義を是とせず、絶対的な価値・真理を追求していくべきなのだ 」と言う思念を持っていた。
無知の知
ソクラテス
ソクラテスは、真理が知りたかった。そして、それを知ろうとしない世界に反逆したかった。
「 無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすものだ 」と考えていた。
「 知っている 」と思っていたら「 知りたい 」と思うわけがない。
「 知らない 」と思うからこそ「知りたい」と願うのである。
だから「 まず、自分が何も知らないと認める 」ところから始めよう!
ソクラテスは、裁判にかけられて死刑を宣告される。そして、自ら毒杯を手に取って飲み干した。
「 この世界には命を賭けるに値する真理が存在し、人間はその真理を追求するために人生を投げ出す、強い生き方ができる 」ということをソクラテスは証明した。
デカルト「 方法的懐疑 」
数学とは何か?
まず、最初に「 公理と呼ばれる絶対的に正しい 」とする基礎的な命題をいくつか仮定し、そこから論理的な手続で定理を見つけ出していく学問のことである。
デカルトは、哲学も数学と同様に「 誰もが正しい 」と認めるざるを得ない確実なことを第一原理 ( 公理 ) として設定し、そこから論理的な手続きで結論を導き出すことで哲学体系を作り出していくべきだと考えた。
デカルトは真理を導き出すために、あらゆることを疑った。
そして、あらゆるものを疑うことができるけど、この世のすべてを疑えたとしても「 それを疑っている私がいる 」ということだけは疑えない。疑っている私の存在を疑ったとしても、やっぱり「 疑っている私 」がいることは真だからだ。
我思う、故に我あり
デカルト
ヒューム「 懐疑論 」
神も科学も思い込みに過ぎない。
ヒューム ( 1711-1776 )
経験論:人間の中に浮かぶ知識や観念は、すべて経験から来たものに過ぎない。
人間は「 完全 」である神が存在することを知っている。
でも、人間は「 不完全 」な存在だから、本来「 完全 」である神を経験したり、知り得たりするはずがない。
では、なぜ、人間は神を知っているのか?
それは、人間にとって神は、経験に由来しない唯一のものだからである。
従来の考えを退け、ヒュームが初めて神様を否定する。
現実には存在していない概念「 想像の産物 」というものは、すべて「 過去の経験の組み合わせ 」によって創られている。
過去の経験の組合せからできた、現実には存在しない概念のことを複合概念と呼び、人間の想像力は、この複合概念の範囲に留まる。神も複合概念のひとつだと捉えた。「 神は、人間の経験に由来する観念的な想像物に過ぎない 」と唱えた。
科学法則さえも経験上の産物に過ぎず、現実世界と一致しているかどうかはわからない。
人間は「 ある状態Aになった時、ある状態Bが起こる 」という経験を繰り返しているうちに、「 A → B が必ず起こる法則が宇宙にあるのだ 」と思い込んだに過ぎない。
科学という学問とは「 その経験上の思い込みを絶対化している 」だけに過ぎない。
ヒュームは、自我 ( 私 )、神 ( 宗教 )、科学 ( 因果律 ) を懐疑し、絶対性を容赦なく否定した。
そして、西洋哲学の経験論は完成した。
ただし、東洋哲学では、ゴータマ・シッダールタが通過済みであった。
カント「 批判哲学 」
世界の本当の姿は知り得ない
ヒュームの言う通り、人間は経験から知識を得ている。
その経験の受け取り方には、人間としての特有の形式がある。
それは経験によらない「 先天的 ( 生まれつき ) 」なものである。
「 経験内容の違いによらず、人間同士で共通しているものは何だろうか 」とカントは考えた。その結果「人間は何かを見るときには、必ず『 空間的・時間的 』に見ている 」という経験の仕方について共通の形式があることを見出した。私たちは『 空間的・時間的 』に存在するモノしか認識できないし、経験できない。それは、私たちの脳が、構造上、神経を通じてやってくる刺激を『 空間的・時間的 』な情報として解釈するように仕組みになっているからだ。
私たちは、どのような経験であろうと、必ず『 空間的・時間的 』に経験するという「人類共通の形式」を持っている。
「 人間の概念は、すべて経験に基づいており、そして、経験なんて人それぞれなんだから、人類で、共有するできる絶対的な概念なんてあり得ない。」
という経験論の先に
「 経験の内容はそれぞれだが、経験の受け取り方には、人類共通の一定の形式がある。その形式の範囲内では、みんなが『 そうだね 』と合意できる概念が作り出せる。そこに、人類として、普遍的な真理・学問を見出せる。」
人間はモノ自体には到達できない。
モノ自体:人間の固有の形式によって経験される前のホントウの世界のモノ
人間が知覚して存在している、机の上のリンゴというモノは「 知覚される前の世界 」から「 人間固有の型式で変換されて映し出された後 」のモノでしかない。
モノは「 人間が知覚して変換される前 」の状態なのだから「 経験によって変換される前 」のモノ自体の姿を捉えることはできない。私たちは、世界のホントウの姿を知ることができない。
人間は、人間が知覚できる世界での真理にしか到達できない。
真理とは、人間によって規定されるものである。
「 真理とは、人間の上位の存在であり、普遍的である 」という従来の思考様式をカントは反転させたのだ。
カントは真理のコペルニクス的転回を為した。
ヘーゲル「 弁証法 」
カントは、人間にとっての真理の存在を明らかにしたが、到達の手順までは説明していなかった。ゴールがあるのはわかったけど、そこに向かう方法はわからない。
ヘーゲルは、弁証法で、真理に辿り着けることを提案した。
弁証法:対立する考えをぶつけ合わせ、闘争させることで、考えを発展させていく方法
弁証法に対して、キルケゴールは「 いつ見つかるかわからない真理よりも、私が今生きる上で役に立つ真理を探すことの方が重要だ 」と唱えた。
サルトル「 自由の刑 」
自由とは、何が正しいのかわからないのに「 好きにしろ 」と放り出されてしまった不安定な状態のことである。
① 人生において「 何をすべきか 」という重大な問題について「 あなたは、これをしなさい 」という正しい価値観を、神様も国家も学校も誰も教えてくれないのだ。
② だから、私たちは自分で決めなくてはならない。
③ 失敗や間違えに怯えながらも、不安の中で、正しいかどうかもわからない何かを決断して生きていかなくてはならない。
④ そして、その決断は、自由である。
これから先、10年後、20年後に、現在の決断を後悔しているかもしれない。でも、それについて、誰にも文句は言えない。なぜなら、自分で選んできたことだからだ。自分の選択で失敗しようが後悔しようが、その選択の全責任を負わされる。
人間は自由の刑に処せられている。
どの価値基準が正しいのかわからないからって、何一つ選ばずに、ただ無為に人生を消費して生きていくよりは、間違っているかもしれないリスクを背負ってでも何かを選んで生きる方がいい。
自由を求め、自由を探して生きていくことこそ、我が人生である。すべての選択を自分で行い、その全責任を負うのが、自分である。そのことに、何も疑問を持たずに生きてきた。
https://junjourney.com/fear-of-freedom/
私は、私以外の人が「 何を考えているのか 」知らない。「 自由が煩わしい 」という人もいることを知る。「 誰かから、言われたことを、何も考えずにやり続けることに、疑問を持つどころか、それをありがたい 」と考える人がいる。青天の霹靂とは、このことかと、本当に頭をトンカチで殴られたような衝撃が走った。
私の当たり前は、他人の当たり前でないから、私の当たり前が、他人の当たり前と違う。だから、私は、人から「 変わっている 」と言われるのだ。人は「 変わっている 」と言われることが、嫌らしい。私は、気にならない。言われ過ぎて、もはや、褒め言葉にすら聞こえる。「 変わっていない = 他人と同じ 」って評価なんだから、それは、ダメなのだ。他人と同じじゃ、平均的じゃないか、私は、平均点ではなくて、もっと高い点数を取りたいのだ。
そう、社会人のテストの点数は、年収の過多で表現される。年収は高くありたいだけだ。たくさんのお金を手に入れて、豪華な家に住みたいとか、豪勢な食事をしたいとか、豪遊がしたいとか、そんなことがしたいわけじゃないんだ。
私は、自由でありたいだけだ。自由を求めているだけだ。
自由とは何か?
お金からの解放である。お金を意識しながら生きることからの解放である。
毎日、好きなことをして生きていく自由が欲しいだけだ。
・海外に住んで、自分の価値観を知って、それを表現する。
・本を読んで、自分を知って、それを表現する。
それが、私が、今、見える自由である。
私の目の前にある自由は、毎日、好きなところで、好きなことをして、それを表現していく自由だ。
by 湯浅
レヴィ=ストロース「 構造主義 」
レヴィ=ストロースは、未開人との暮らしを体験する中で「 西洋とは異なった形態で発展した別社会の人類なのだ 」と確信した。ヘーゲルやサルトルの「 歴史は真理を目指して進んでいく 」という主張は、西洋の歴史観に過ぎない。西洋人が「 未開人を文明から取り残された人々 」と捉えていること自体が、間違いである。
「 人類の歴史とは、たったひとつのゴール ( 真理 ) に向かって進展するものであり、西洋人は、最先端である。それ以外の文化の人々は、後ろから付いてきている発展途上の社会である。どんな社会でも時間を重ねれば、西洋と同じ文明に辿り着ける。西洋人は、最先端であるから、発展途上の社会を導かなければならない。」
という意識は傲慢である。
西洋の歴史 ( 時間 ) とは、過去から未来へと一直線に進む。
過去とは未開の悪い時代で、未来とは過去の問題を改善した優れた時代である。歴史の連続性を重視し「 何という名前の人間が、いつ生まれ、何を成し遂げたのか 」という先人の足跡を年表として残してきた。
東洋では、歴史 ( 時間 ) とは、矢のように一直線に進むものではなく「 輪 」のように永遠に巡る。
東洋では歴史は年表ではなく、歴史の出来事を神話のような架空の物語として語り継いできた。歴史は永遠に巡るものであるから、時は移り、所変われど、人類の営みは変わることはない。個別の事象に意味はなく、その本質が重要視される。
歴史は真理に向かって進展するのではない。
世界には様々な文明・価値観を持った社会が存在する。
それらの文明や社会の間に優劣もないし、目指すべき唯一の文明や社会はない。
デューイ「 実用主義 」
中世哲学:信仰によって真理に到達しよう
近代哲学:理性によって真理に到達しよう
現代哲学のひとつ、実用主義が誕生する。
実用主義:真理かどうかはどうでもよく「 実際の生活に役に立つかどうか 」だけを考えよう。
【 従来の哲学 】
・愛とは何か?
・人間とは何か?
・物質とは何か?
・国家とは何か?
・その本質はいったい何なのか?
【 実用主義 】
そんな結論の出ないことを永遠と議論したって、らちがあかないから「 その効果は何か?」という実用的なことを問おう。
実用主義の代表的な哲学者であるデューイは、自らの思想を道具主義と言った。
「 人間の思考 ( 理性 ) は、単に生きるための道具に過ぎない 」と考えた。
すべてを「 道具として何の役に立っているか?」というキーワードで考えればよい。
Aを信じることが人間にとって有用性があるとしたら、Aの真偽によらず、Aは真理である。
真実は真理たりえない、嘘が真理たりえることもある。
・一ヶ月後に死ぬ真実を知って、怯えながら一ヶ月過ごすのか?
・「 健康だ 」と思っていて、死ぬことも知らず、死ぬことに怯えることもないのか?
「 健康だ 」という嘘が、真理なのだ。
by 湯浅
デリダ「 脱構築 」
デリダは、ポスト構造主義であり、脱構築を唱えた。
わからないものは、しょうがない。だから、もう作者 ( 話し手・書き手 ) の意図なんて、気にしない。読み手それぞれが、文章を読んで、自由に解釈して、それぞれの解釈を真理とする。
誰かに何かを話したとき、相手が自分の意図とは違う理解をしていたら、「 聞き手が解釈できていない 」と考える。
「 聞き手は話し手の意図という正解に達しなくてはならない 」という固定観念を持っている。
話し手の意図は「 絶対的な真理だ 」と考える。
相手が「 自分の意図を正しく理解したかどうか 」はわからない。
私たちが、やり取りしているのは言葉であって、意図そのものを直接やり取りしているわけではない。だから、意図の解釈の正しさは、誰にもわからない。
言葉というのは、そういうモノである。コミュニケーションとはそういうモノである。会話とは、言葉を使うときの状況から推測した「 きっとこういうことだろう 」という「 確かめられない個人の解釈 」によって成り立っている。
不確定性原理
科学的観測の限界を示す理論
物理学において原理的に絶対に観測不可能な領域が存在する。
不完全性定理
数学は自分自身の中に「 ホントウに成り立っているかどうか証明できないヘンテコな命題 ( 数式 ) 」を作り出すことができるという定理
そういうヘンテコな命題が内部に含まれる以上、数学は完璧な論理体系とはならない。
どんなに完璧に見える数学体系を構築しようと、必ず、証明不可能な命題が現れてしまい、完璧だといえる数学体系を作り出すことはできない。
時代が進むごとに真理が明らかになるどころか「 到達できない真理 」があることが示されてきた。これらの学問の発見は「 学問を発展させていけば、いつかは、世界のすべてがわかるだろう 」と期待してきた人々に失望を与えた。
レヴィナス「 他者論 」
レヴィナスは「 自分の死とは、全く無関係に存在し、何事もなかったように機能していく世界に対しての恐怖 」を " イリヤ " と名付けた。
・自分の生死に無関係な世界
・何のために、何の意図を持って、そこに在るのか、全く理解不可能な世界
その世界に絶対的な他者を感じるようになる。
現代哲学において、他者とは、
・私の主張を否定してくるモノ
・私の理解できない不愉快なモノ
・私の権利や生存に全く無関心なモノ
様々な意味を表す抽象的な言葉となっている。
この世界には、たくさんの他者で満ち溢れている。
現代において、哲学者や科学者が、探求の末に辿り着いた先にあったモノが他者であった。
どんなに完璧だと思える学問体系を打ち立てようと、必ずしもそこに「 何だかわからない他者 」が現れ、完成を阻んでしまう。例えば、不確定性原理、不完全性定理である。どのような言説を述べようと、それを否定する他者の存在だけは決して否定できない。
宗教も科学も哲学も「 世界を何らかの形で記述して説明しよう 」という試みのひとつである。
それは、何らかの言葉の組み合わせであり、何らかの枠組みを作ることなのだから、その枠の外側には他者が必ず存在してしまう。
ソクラテスから始まった哲学の絶対的真理の探究は既に閉じられてしまった。
他者とは、私という存在を自己完結から救い出してくれる唯一の希望であり、無限の可能性である。
世の中に他者が存在せずに、人類が絶対的な真理に到達し究極の理論を完成させたとしたら、その世界は、私たちが望んだ理想の世界なのだろうか?
他者とは、私にとって「 意図の確実な疎通ができない不愉快で理解不可能な対象 」であると同時に、「 問いかけが可能な唯一の存在 」でもある。私たちは、他者に「 ホントウはどうなんだろう?」と心理を問いかけることにより「 新しい可能性 」「 新しい価値観 」「 新しい理論 」を無限に創造し続けていくことができる。
■国家の真理
プラトン「 イデア論 」
「 究極の理想の存在 ( 理想のイデア ) 」というものが、どこかに「 ホントウに存在する 」
現実世界で完璧な三角形は存在しない、私たちは見ることができない。
現実世界に存在するのは「 どこか歪んでガタガタした不完全なモノ 」である。
完璧な三角形は、現実世界とは違う別世界に「 ホントウに存在する 」と考えたのである。
人間が作り出したあらゆる概念についても同様である。例えば「 美 」という概念についても、究極の理想の美が、別世界に「 ホントウに存在する 」と考えている。
プラトンにとって哲学者とは、そうした究極の理想の何か ( イデア ) を探究する人である。
・国家は、イデアを知ることができる哲学者が王になるべきである。
もしくは
・王は、哲学を学ぶべきである。
と結論付けた。
これを哲人王思想という。
古代ギリシアでは、煽動政治家が政治の実権を握っていた。
煽動政治家:もっともらしく語るのが上手なだけの無能な政治家
プラトンの師匠ソクラテスは、煽動政治家に対して「 ホントウの正義とは何か?」「 ホントウの幸福とは何か?」と議論を挑みかけ、打ち負かしていった。
「 私たちは、ホントウのことは何も知らない。だから、議論して、ホントウの正義とは何か?幸福とは何か?一緒に考えよう。」とソクラテスは主張した。
ソクラテスは既得権益を持つ政治家の怒りを買い、死刑に処される。
プラトンは、人間は「 国家としてあるべきホントウの姿 ( 究極の理想の国家 = 国家のイデア ) 」を知ることができるはずだと考えた。そんな哲人王がいないのであれば、作ればいい。アカデメイアという学校を作った、のちの大学の起源となる教育機関である。
アリストテレス「 論理学 」
アリストテレスは、プラトンの創設した学校アカデメイアの生徒で、プラトンの弟子であった。
アリストテレスは、イデア論に対して真っ向から否定した。
・イデアなんてホントウにあるの?
・あるってことをどうやって確かめるの?
・もし仮にイデアがホントウにあったとしても、それが一体何の役に立つの?
アリストテレスは、馬のイデアを持ち出すより「 現実の馬 」を観察して「 四本足だ 」とか「 タテガミがある 」とか「 ヒヅメがある 」とか、そういう馬固有の性質をたくさん集めて「 馬とはどういうものか 」をきちんと定義した方が役に立つと考えた。
実際のところ、私たちたちが、馬を認識するのは、四本足で、タテガミがあって、ヒヅメがあって、顔が長くて…など、そういう特徴を持った動物を何度も見ているうちに「 馬というイメージ ( 抽象化した印象 ) 」を思い浮かべるようになった。
アリストテレスは、実際の物質を、よく観察して特徴を整理した方が、建設的だと考えた。
アリストテレスは、あらゆるモノを対象として観察して、抽出した特徴を体系的に分類し、整理することで世界を把握しようとする学問 ( 自然科学 )をはじめた。
アリストテレスが万学の祖と呼ばれる所以である。
・イデア論は、仮定の議論であり、空想の世界の論理である。
・イデア論を否定する現実主義者のアリストテレスの立場からすると、プラトンの哲人思想は理想論であった。
アリストテレス「 政治学 」
アリストテレスは、学問的なやり方で、政治の特徴を分析して、国家の政治体制を3種類に分類した。
① 君主制:1人の王様が支配
② 貴族制:少数の特権階級が支配
③ 民主制:みんなで支配
①君主制
メリット
→ 支配者が1人であるため素早く政治的決断ができ、支配者が優秀であれば国家は発展していく
デメリット
→ 支配者が権力に溺れて独裁者となった場合には、独裁を止める構造がないため、国家は崩壊する
②貴族制
メリット
→ 支配者が複数であるため権力が分散され、独裁者が生まれるリスクは少ない
デメリット
→ 貴族が派閥争いや権力闘争に夢中になって肝心の政治を疎かにしてしまい、国家は崩壊する
③民主制
メリット
→ みんなで国家を支配するため、うまくすれば1番公平な政治決断がなされる
デメリット
→ みんなが政治に無関心になると、適当に投票してしまい、無責任な煽動政治家の政治決断によって、国家は崩壊する
国家が崩壊したあとは「 革命という名の政治体制の交代劇が起こる 」ということまで示唆している。
ホッブズ「 社会契約論 」
ホッブズ ( 1588 - 1679 )
・理想家として最高の国家を目指したプラトン
・現実家として国家のありようを分析したアリストテレス
2人は究極の国家論を展開した。2人は国家には支配者がいることを前提としている。
【 ホッブズの人間観 】
① 人間は、自分勝手で極悪で利己的な生き物である。
② 人間を自然状態で放置しておくと欲望のままに利益を求めて殺し合いを始めるだろう。
③ だから、人間たちは、その殺し合いに終止符をうち、互いに共存するために『 架空の支配者 』をつくり出し、国家という仕組みをつくり上げたのだ。
17世紀の西洋では「 国家とは、神様が特定の人間に、王の地位を承認して統治の権限を与えることで成立する 」と考えられていた。これまでの時代では、王や国家は神に由来する神聖な存在であった。
しかし、王の暴君が続くと、民衆は、神が決めた王に疑問を持ちはじめる。
「 そもそも国家とは何だろうか 」と疑問に思う。
「 国家とは、神に由来するモノではなく、人間が互いに共存するためにつくった人工物なのだ 」と国家を再定義した。ホッブズの社会契約論である。
ホッブズは、戦争の影響で、早産の結果未熟児として、この世に生を受けた。戦争の恐怖によって、無理矢理、世界に放り出され、生まれてすぐに生命の危機と戦わなければならなかった。
ホッブズは、戦争、人間同士の殺し合いを止める方法を考えた末に、社会契約論を打ち出し「 国家とは、自己中心的な人間たちが互いに殺し合わないように、自己保存のためにつくった組織なのだ 」と説いた。
① 人間たちは、国家の強制により「 自分の欲望のために他者を殺す自由 」を放棄する。
② 国家は、人間の自由放棄の見返りとして、身の安全を図る。国家とは、安全保障システムである。
旧約聖書に出てくる、リヴァイアサンという怪獣
・絶対的な恐怖の象徴である。
・誰にも逆らえない神に次ぐ強者である。
→ リヴァイアサンが「 国家の正体だ 」と捉えた。
人間の欲望を抑えるため、人間は自らリヴァイアサンをつくり出した。
国家間の争いは、国家間を統治する唯一のリヴァイアサンがないことで、リヴァイアサン同士の戦争が起きる。
ルソー「 人民主権 」
ルソー ( 1712 - 1778 )
ルソーは、ホッブズの社会契約論に反論した。
人間は、自然状態で殺し合わない。田舎ではみんなが助け合って生きている。文明化された都会の方が、人間同士で騙しあっている。文明以前の国家がない状態になっても、殺し合わない。
ルソーの人間観
① 国家などなくても、人間は互いに助け合って暮らしていける平和的な生き物である。
② そこに、知恵のある人が現れ、他者から搾取する術を身に付けた。
③ そのため、国家とか身分とかの仕組みができてしまった。
国家は、知恵のある少数の身分 ( 王 ) を保証する仕組みなので、大多数の民衆の幸福をもたらさない。民衆には「 そんな国家は不要だ 」と放棄できる当然の権利がある。そんな国家は解体して、もっとよい国家に作り変えたほうがいい。
① 王は、国家の権力を用いて、民衆から徴税する存在である。
② 民衆は、国家がなくても生きていける。
③ 王は、民衆がいなくては生きていけない。
④ 民衆と王は、民衆の立場が上である。
⑤ 国家は民衆なくして、国家たり得ない。
ルソーは「 真の権力者は、王や国家ではなく、民衆である 」という人民主権を説いた。
王や国家は、真の権力者である民衆から、委任された機能にすぎない。
だから、王が無能なら、国家に反逆して、革命を興すべきだ。
ルソーの私生活は荒んだダメ人間であったが「 情緒的で感情的な大衆受けする文章が書ける 」という才能があった。否、独自の独特の視点でモノゴトを捉え、表現する能力があった。
ルソーは「 エミール 」という教育論の本を書いていて、教育学の祖と呼ばれている。
・不確実な未来のために、現在を犠牲にするあの残酷な教育をどう考えたらいいのか!
・私はエミールが怪我をしないように注意することはしないのだ。
本を通して、ルソーの思想は民衆に広く知られた。
国が傾き、民衆が貧困で苦しんでいるのに、王族は、贅沢と浪費を繰り返していた。民衆は革命を興し、王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑した。フランス革命である。
アダム・スミス「 見えざる手 」
アダム・スミス ( 1723 - 1790 )
人民主権の国家は、民衆が豊かに快適に暮らしている状態を目指さなければならない。
そのために必要なのは、経済活動である。
アダム・スミスは、経済学という学問を打ち立て、現代につながる経済社会の流れを生み出した。
アダム・スミスは、経済学の父といわれる。
西洋のキリスト教圏では「 商人がお金儲けすることは卑しいこと 」とされていた。また、日本でも、士農工商 ( 儒教の思想 ) という身分制度で、商人は1番低い身分に置かれていた。そして、現代でも「 お金は卑しい 」という風潮がある。
なぜ、商蔑視の思想が東西問わず存在していたのか?
商が富を蓄積し過ぎると、権力者を脅かす存在になりかねない
→ 経済的支配者の誕生
民衆が富を追求して商を目指すと、民衆の大半の職業である農をやめてしまい、国家が飢饉に陥ってしまう
→ 農業の崩壊
お金儲けの権化として、商を低い地位に扱い、蔑視の思想を流布させるのは、権力者の支配構造として必然であった。
【 アダムスミスの思想 】
・お金儲けこそ、経済活動であり、民衆が幸福になる手段である。
・経済活動を後押しすることが、人民主権の国家の役割である。
個人が自分勝手に利益を追求しても、必ず「 見えざる手 」に導かれて、社会全体の利益につながるような結果が生じる。
市場には競争原理があるから、個々人が自分の利益を追求しても、市場に淘汰されるか存続していくかの結末を辿る。
18世紀初頭、産業革命の時期と重なってアダム・スミスの思想は受け入れられ、民衆は、自分の利益を追求して、商売や事業を始めた。資本主義の幕開けである。
カール・マルクス「 共産主義 」
カール・マルクス ( 1818 - 1883 )
資本主義を採用した国家は繁栄した。権力者が、すべての富を独占していた身分制度の国家と違って、資本主義国家ならば、自分が働けば働いただけ富を得ることができる。その結果、国家の経済活動は捗り、豊かな社会へと発展していった。
マルクスは、資本主義全盛の中、「 資本主義は、民衆を不幸にするシステムなので、破綻する 」と警鐘を鳴らした。
・資本主義とは、資本家が労働者を搾取する不公平なシステムである。
・資本家は、労働者が働いて作り出した利益の一部を、労働費として払って、残りは自分の懐に入れた。
とは言え、
・資本家は、儲かるかどうかわからないビジネスに多額の投資をして、ミスをすれば一文なしになるリスクを冒している。
・労働者は、リスクはない、毎月決まった労働費が保証されている。仕事が、儲かっても、儲からなくても。労働者は安定している。
資本家はハイリスク、ハイリターンで、労働者は、ローリスク、ローリターンである。
・借金してハイリスク、ハイリターンを狙うか?
・安全にローリスク、ローリターンに収まるか?
その違いの差でしかない。
by 湯浅
資本家同士の価格競争によって、利益は圧縮されていく。それでも、資本家は利益を得たいので、労働者の賃金を下げたり、労働者に過剰な労働を求めたりとしわ寄せが、労働者へといくことになる。
労働者の生活が苦しくなると、市場は縮小していく、社会は資本家ではなく、労働者が大半を占めるからだ。市場が縮小すると、資本家はリストラを行い、労働者は失業する。
どんなに社会の経済情勢が悪化しても、必ず労働者が割りを食う運命にある。
資本主義は、資本家と労働者という新しい身分階級を生み出すシステムである。
① 不当に酷使される労働者が資本家を打ち倒すような革命が興り、資本主義が終焉するはずだ。
② 資本主義の後は、共産主義の時代になる。
③ 共産主義国家は、すべての階級や差別をなくした平等社会で、国家が富を管理し分配する。
実際の現実には、労働者による革命は興っていないし、共産主義は繁栄していない。
共産主義は、平等でなかった。国家の実権を握る共産党官僚が、特権階級となった。共産党官僚は、「 政府を批判する思想の弾圧をする 」という恐怖政治を行なった。
共産主義は、平等 = 競争による収入格差が生まれない = 働いても働かなくても同じ収入である。労働意欲が高まることはないので、経済活動は、停滞していった。
資本主義
資本主義社会とは消費経済であり、成長を前提としたシステムになっている。止まったら死んでしまうマグロのように、死に至るまで進み続けるしかない。
現在、社会を見渡してみても、生きていくのに必要なモノはすべて揃っている。私たちは、十分な生活ができている。
現実は、資本主義経済の維持のため、資本家のため、労働者は、一度しかない人生の大半の時間を削って、労働し続ける。
私たちは、自分たちの生活を豊かにするために、資本主義経済をつくり出したはずなのに、いつのまにか、そのシステムを維持するためだけに、過剰な労働を強いられている。
主従関係が逆転している。
これまでは、贅沢という欲望が資本主義を維持する原動力となっていた。
しかし、今の世の中は、そんなに苦労してまで手に入れたい贅沢はあるだろうか?
経済的成功に対する欲望が薄れ「 働きたくない 」というニートが生まれた。資本主義社会の成長が飽和状態に達したため「 労働の価値を見失った 」という歴史的な問題に直面した世代の人類である。
現代は「 労働の価値を見直す 」という歴史の転換期にきている。
自由主義
アダム・スミスの自由主義
個人が自由に経済活動をしてしても「 見えざる手 」によって幸福がもたらされる。
世界恐慌によって、自由主義が否定された。
そこで、国家が経済活動を主導したが、お役所仕事では、市場をコントロールできなかった。
アダム・スミスの自由主義が、新自由主義として甦った。
現代の新自由主義
市場のことは市場に任せて、すべて民間企業の自由にさせる。
・構造改革による規制緩和
民間企業を制限するような法律は撤廃して、民間企業の自由にさせてみよう
= 構造改革
・小さな政府
公共事業を民営化しよう
※小泉内閣の政策は、新自由主義による
新自由主義において、国家とは、自由な競争ができる舞台を用意して、そこに介入しない小さなシステムである。
新自由主義は、自由な競争社会だからこそ、貧富の差は広がり「 格差 」が生まれていく。
新自由主義は、見えざる手に、すべてをかけた。
もともと、見えざる手は、科学的でもなければ、理論的な根拠もない。
■神様の真理
エピクロス「 快楽主義 」
社会が混乱し、人々は不安にさいなまれる時代に、幸福に生きることをテーマにした哲学が産声をあげた。
3つの哲学の学派
・キュニコス派
・ストア派
・エピクロス派
■キュニコス派
金や家や地位など「 何かを所有する 」という、世間的な幸せを放棄しよう。
何も所有しなければ、奪われることもない。
すべての所有物を捨てた状態で幸せになれば、誰にも奪われることのないホントウの幸せに到達する。
■ストア派
ストイックの語源となった禁欲主義をテーマとする。
理性をしっかり持って規律正しく生きることが幸せをもたらす。
「 快楽を得たい 」という欲望を理性が抑制すれば、問題のない安定した幸福な人生が訪れるから、禁欲しよう。
■エピクロス派
「 気持ちいいことをして、楽しく生きよう 」といった快楽主義・刹那主義をテーマとする。
快楽:飢え・渇き・寒さ暑さといった苦痛が取り除かれた「 普通の状態 」のことである。一過性の快楽、飽食・惰眠・放蕩は、快楽の定義には含まれない。エピクロスの快楽は、自然で慎ましいもので、自然な快楽を自然に満たして、楽しく生きていこう。
永遠に終わらない究極の快楽、真の快楽とは、友情である。
「 神 」のエピクロス的解釈
・もし、世間で言われているような万能で全知全能の神様がいるとしたら、いちいち人間なんかを気にかけるだろうか?
・全知全能な神様が、人間に「アレをやってはいけない」「アレを食べてはいけない」なんて言うだろうか?
・人間も神様のことを気にかけなくてもいい。
イエス・キリスト「 アガペー 」
汝の隣人を愛せよ
汝の敵を愛せよ
アウグスティヌス「 懺悔 」
アウグスティヌス ( 354 - 430 )
分列したキリスト教の教義統一という偉業を成し遂げた。
アウグスティヌスは、マニ教、新プラトン主義などの他の宗教や哲学思想を渡り歩いた後、回心して、キリスト教徒になった。他の宗教や哲学思想という下敷きがあったおかげで、キリスト教を客観的視点で眺めることができた。
唯一絶対神は、完璧な善の存在である。
人間に、悪が存在しているように見えるのは、善の不在に過ぎない。闇が、ただ光の不在であり、闇という確固たるモノが存在するわけではないのと同様に、悪も確固たる実体として存在するわけではない。
だから、神が、悪と呼ばれる何かを創り出したわけではない。
神は人間を愛するあまり、人間に自由意志を与えた。
だが、それゆえに、人間は神の意図から外れる行動を、即ち、悪を為すようになった。
コレこそが、人間が生まれながら背負っている原罪なのである。
アウグスティヌスは「 人間は、自由意志と欲望を持ち、それを自制することができない存在であるから、人間は自力では救われない、神の力が必要である 」とした。
トマス・アクィナス「 スコラ哲学 」
12世紀を過ぎた頃、古代ギリシアのアリストテレスの著作が、ラテン語に翻訳され、西洋キリスト教圏に入ってきた。
① 論理とは、私たち人間の思考 ( 理性 ) の形式そのものである。
② 論理は、時代や場所によらず「 誰もがそう考えざるを得ない 」という普遍的な人類共通のルールである。
③ みんなが同じ論理を共有することができる。
「 キリスト教の神学 」と「 アリストテレスの哲学 」という議論のバトルが勃発した。
哲学は「 論理で神の地位を脅かそう 」としたが、トマス・アクィナスは「 論理を逆手に取って哲学の地位を脅かす 」という手段に出た。
論理とは、即ち、原因と結果である。この世界には、様々な自然現象に溢れているが、それらは、すべて何らかの原因から生じている。
・この世界はなぜ存在するのか?
・その最初の原因って何?
・卵が先か?鶏が先か?
最初の原因を突き止めることは、論理的に不可能である。
原因と結果という関係を超越した何かを想定しないことには、この問題を解くことはできない。
論理を超える存在、神の存在である。
論理の範囲外にある真理については、神学でしか回答を出すことができない。
それは、神の啓示からでしか知ることはできない。
ニーチェ「 神は死んだ 」
神とは、弱者のルサンチマンが作り出したモノに過ぎない。
神という概念や神への信仰は、人間の崇高な意志から生まれたモノではなく、むしろ、弱者の嫉妬という歪んで捻じ曲がった負の感情から生み出された。
神への信仰 ( 弱者の嫉妬が生み出した負の感情 ) が、人間本来の生を押し殺してしまっている。
ルサンチマン
弱者は、金や名誉や権力を手に入れられないから、弱者である状態を惨めに思わないように「 弱者であることに価値を見出す 」という幻想を作りだした
ルサンチマンという幻想の「 弱者救済システム 」が、信仰の正体である。
私たち人類は、もはや、神を信じることはできない。人間がよってたかって神を殺してしまった。
神は死んだ。
神が死んだ世界 = 神や道徳が絶対的な価値観とならない時代が来る。
そんな世界では、人間はどうやって生きていけばいいのか?
超人
権力・財力・影響力といった強さを求めることが人生の本質であり、強くなることを目指す者
末人
超人と反対に、何も目指さずに、ただ、健康と眠りを求めて、穏便に人生を過ごすことを目的として、何となく生きていくだけの存在
■存在の真理
ヘラクレイトス「 万物流転説 」
万物の根源は水である
タレス
存在の正体は、無限定な何か
アナクシマンドロス
空気が固まってできた
アナクシメネス
万物は流れ去る
ヘラクレイトス
この世界には、永遠不変の存在などありはしない。
すべての形あるものは、いつか壊れ、その形を変えて流れ去っていく。
その変化は、無作為に起こるのか?
いや、万物共通の何らかのルールがあるはずだ。
そのルールのことをロゴス ( 法則 ) と定義した。
パルメニデス「 万物不変説 」
存在が変化するわけがない、存在とは決して変化しない何かである。
これまでの哲学者は、存在を感覚で捉えてきた。
パルメニデスは、感覚ではなく論理で存在の問題に取り組んだ。
存在するものは存在する。
存在しないものは存在しない。
存在しているものが、存在しなくなることはない。
有は決して無にならない。
論理的には、リンゴはいくら小さく切り刻んでも、リンゴはなくならない。
感覚的には、リンゴが粉々になれば、目の前からリンゴがなくなる。
論理が導いた結論は、万人が納得できる共通の結果であり、感覚に由来した主張よりも、信用できる。
デモクリトス「 原子論 」
デモクリトスの原子論
① リンゴを延々と分割し続けていけば「 最後には、それ以上絶対分割できない粒、究極の存在に辿り着くはずだ 」と考えた。
② 究極の存在に「 原子 」という名前を付けた。
③「 原子が空間を飛び回り、他の原子と結合したり、分離したりすることで世界ができあがっている 」という原子論を唱えた。
原子 ( 存在 ) は、決して変化しないが、その原子が、一定の法則に従って結合したり分離したりすることで、万物が変化するように見える。
ヘラクレイトスの主張もパルメニデスの主張も、両方を矛盾なく取り込むことができる。
この世界のすべては原子という物質で構成されているのだから「 人間が死ぬ 」ということは、肉体を構成している原子がバラバラになることであり、死後の世界はない。唯物的世界観の提唱者である。
バークリー「 主観的観念論 」
「 存在する 」とは知覚されることである。
リンゴが存在するのは、確固たる物質としてそこにあるから存在するのではなく、精神が知覚しているから存在しているのだ。
フッサール「 現象学 」
フッサール ( 1859 - 1938 )
この世界は、別世界の脳が見ている夢なのかもしれない。
でも、そんなことは証明不可能だから、考えるだけ無駄である。
私たちは「 自分の認識を構成している外側の世界が、ホントウは、どんな姿をしているのか 」を決して知ることはできない。
「 私たちは3次元空間の世界で生きている 」というのは思い込みに過ぎない。
人間がどんな世界観や科学理論を作り出しても、結局は、すべて脳内で生じたことである。
脳内:主観的な意識体験の中のことなので、脳の外側がどうなっていても関係ない。
「 科学理論がホントウに正しいかどうか?」
「 脳の外側の客観的な世界とその理論がホントウに整合しているかどうか?」
よりも
「 なぜそういう科学理論が脳の内側に生じたのか?」
という起源の方を問いかけるべきだ。
例えば「 この世界は3次元空間である 」という科学理論の真偽について、客観的な観点からその真偽は問えない。「 客観だ 」「 存在だ 」と思い込んでいるこの世界自体が、そもそも夢かもしれないからだ。しかし、この世界が夢であっても「 なぜ、夢の中で、私は、3次元空間の宇宙に生きているという科学理論を正しいと確信するに至ったのだろう?」という問いには、答えを出すことができる。
あらゆる確信は、すべて主観的な意識体験から始まっている。
主観的な意識体験に基づいて「 この世界が3次元空間である 」という確信を得ている。
「 客観的世界、物理的な世界が実在する 」という前提を思い込みと断じて、すべてを1から考え直そうとした。私たちの主観的な意識の上に起こるあらゆる体験を現象と定義した。この現象 ( 意識体験 ) から、どのような思い込み ( 人間の判断 ) が作られているか捉え直そうと提案し、現象学という学問を創設した。
ハイデガー「 存在論 」
ハイデガー ( 1889 - 1976 )
哲学は、今まで、人や物事の有り様を問いかけてきたが、もっと大事な問いがある。
それは、「 そもそも『 存在する 』とはどういうことか?」である。
哲学は
「 リンゴはホントウに存在するのか?」
「 存在しているリンゴの正体はいったい何か?」
と問いかけてきたが
「 そもそも『 リンゴが存在する 』とはどういうことか?」
という根本的な問題がある。
存在とは人間の中で生じるものである。
ハッキリしていることは、存在とは言葉であることだ。
その存在という言葉を使って「 存在とは何か?」と問いかけているのは人間である。
「 存在とは何か?」という言葉の意味は「 人間にとって存在するとはどういうことか?」という問題に還元される。
ソシュール「 記号論 」
ソシュール ( 1857-1913 )
・言語とは、差異のシステムである。
・言語とは、「 何かと何かを区別するためにある 」という新しい言語観を示した。
単純に
「 赤い何か 」をリンゴとして認識したいから「 リンゴという名前 」を付けたのではない。
「 赤い何か 」を「 他の存在と区別 」したいから「 リンゴという名前 」を付けた。
という捉え方をした。
石は、大きくても小さくても石である。
私たちは石同士の違いに対して区別する価値を見出していない。
区別する価値がないから、区別する必要がない。
-
赤い果物と、だいだい色の果物がある。
その2つは区別する価値がある。
区別する必要があり、それぞれのモノを指し示すための言語、リンゴとミカンがある。
リンゴやミカンといった言語は、単純にモノがあるから、それに対応する言語が発生したのではなく、区別する価値があるから、その区別に対応する言語が発生した。言語とは「 存在をどのように区別したいか 」という価値観に由来して発生するものであり、その価値観の違いこそが、言語体系の違いを生み出している。
日本語では
蝶と蛾を区別して別々の言葉で表現しており、蝶と蛾を全く違う存在として捉えている。
フランス語では
papillonというひとつの言葉で表現しており、コレを区別していない。
-
日本語では
姉や妹も区別している。
英語では
sisterというひとつの言葉で区別せず表現している。
英語圏の人々にとって、年上か年下かということは問題ではなく、
日本人にとっては年上か年下かという情報は重要なのだ。
区別の体系 = 価値の体系が、言語の体系として、見に見える形で表現されている。言語とは差異のシステムということの本質である。
私たちは、子どもの頃からの教育として「 そのように区切って認識しましょう 」と刷り込まれているから「 それ以外の区切り方をしよう 」と思わないだけで、別の区切り方をする人間や生物がいたっていい。
リンゴという存在は、リンゴという物質があるから、存在しているのではなく「 リンゴをリンゴとして区別する価値観があって初めて、そこに存在するのだ 」と言える。その価値観を持っていない者には、リンゴはどこにも存在していない。リンゴという区別をする者がいて初めてリンゴは存在する。
リンゴという区別する者が、この宇宙から完全に消え去ってしまったとしたら、どうなるだろう?
私たちは「 自分や誰かが死んでも世界は何も変わらず、そのまま続いていく 」という強い思い込みを持っている。だから、目の前のリンゴは、自分が死のうが、誰が死のうが、「 相変わらず、リンゴとして存在し続けているはずだ 」と考えている。それは、リンゴを区別する存在が、まだ残っているから、そうであるに過ぎない。赤くて丸い有機物に価値を見出し区別している種がすべて滅んでしまったとしたら、もはやそこにはリンゴは存在しない。
人類が滅んでしまったら、私たちが世界と呼んでいるこの世界は、存在しなくなる。
世界は、存在しない。
① 自分にとって、1番大切な価値のある何かが存在しても、もし、自分が死んだら、その存在は、もはや存在しない。
② 自分が見ている世界とは、自分特有の価値で切り出された世界であり、その世界に存在するものはすべて、自分特有の価値で切り出された存在である。
③ 自分がいない世界は、自分が考えているような世界として決して存在しないし、継続もしない。
存在とは、存在に価値を見出す存在がいて、初めて存在する。
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