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私たちの世界は「弱肉強食」の原理で動いているのだろうか?

 自然界は弱肉強食である。食物連鎖の頂点に君臨するものが、進化した生命体、人間であり、この熾烈な競争社会をその知性によりサバイブしてきた。ずっとそう思い込んでいた。学校でもそのように習ったのかは、記憶が定かではない。だが、確実に、脳に刷り込まれている。いろんなところで、耳にし、目にしてきたのだろう。

 稀代の読書家であり、文筆家の吉川浩満氏による『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』の序章でも、著者は以下のように言う。

進化論は、まずなによりも生物の世界を説明する科学理論である。だが、私たちはそうした枠をはるかに飛び越えて、あらゆる物事を進化論の言葉で語る。実際、身のまわりは進化論の言葉であふれている。「進化」という言葉を見たり聞いたりしない日はないし、「適応」「遺伝子」「DNA」といった言葉もおなじみのものだ・・・私たちは進化論の考え方をなんとなく理解しているように感じる。たとえば、「ダメなものは淘汰されるのさ」とか、あるいは「刻々と変化するビジネス環境に適応できるか」とか、「激動に揺れる東アジアにおける日本の生存戦略とは」とか、「企業のDNA」や「進化する天才」といった言い方を、私たちはところどころに理解できる。

『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』(吉川浩満著)朝日出版社より

 進化論といえば、チャールズ・ダーウィンが提唱したもので、以来、さまざまな生物の由来と変化のメカニズムが明らかにされることになった科学理論である。

 しかし、進化論は、今やこの科学理論という枠組みを超えて、「この世界そのものを理解するための基本的な物の見方、思考の枠組み、世界像、世界観と呼べるようなもの」になっていると著者は言う。

「勝ち組/負け組」「ガラパゴス化」」「強者/弱者」といった言葉や価値観も、まさに、「環境への適応に成功して生き延びる者/失敗して死に絶える者」という進化論的な文脈に置かれ、流布している。最近では「肉食系/草食系」なんて言葉もある。

 しかし、そもそも進化論について、私たちは何かを知った気になっているだけで、大きな誤解があるのではないだろうか、と著者は問う。

 そして、世の中に流布している、私たちが何気なく使用している進化論とは、半分が正解であり、半分が誤解であり、その誤解がむしろ、なぜ、「常識」として広がってしまっているのか。そこを紐解いていくことに本書の主題は貫かれている。

 ダーウィンが『種の起源』において、自然淘汰の概念を提唱したのは、学校の教科書でも習うことであろう。

 だが、この自然淘汰における「適者生存」という考え方に対しての誤解があるのだと著者は言う。

 まずは、自然淘汰の正しい理解について。

自然淘汰説を正しく理解するとはどのようなことか。それは適者生存という言葉にあるとおり、生き延びて子孫を残す者を、まさしく適者として理解するということだ。生存するのは、強者(強いもの)でも優者(優れたもの)でもなく、あくまで適者(適応したももの)であると理解するのである。
※強調筆者

『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』より

 では、誤解に満ちた私たちの社会での「常識」はどうだろうか。

私たちは多くの場合、生き延びて子孫を残すべき存在を、強者とか優者としてイメージしている。強いものが弱いものを食い物にするとか(弱肉強食)、優れたものが劣ったものを駆逐する(優勝劣敗)といったイメージだ。だが、こうしたイメージは、あくまで人間が自然や野生といった概念に対して抱く印象や願望の反映にすぎない。私たちがふだん抱いている進化論のイメージは、大部分がこうした印象や願望、あるいは失望を投影したものだ。

『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』より

 そもそも、ダーウィンは自然淘汰(自然選択ともいう)は唱えたが、「適者生存」を考案したわけではない、と著者は言う。

「適者生存」の概念を生み出したのは、ダーウィンの同時代人のイギリスの思想家、ハーバード・スペンサーである。

ダーウィンは有名な『種の起源』において、生き物たちがみせる驚くべき精密さと多様性を「自然淘汰」(natural selection)の原理を用いて説明した。生き物は環境の変化からさまざまな影響を受ける。ある個体が新しい環境と相性のよい能力や機能をもっている場合、その個体は生き延びるだろう。逆にソリが合わなかった場合には死んでしまうだろう。生物の精密さや多様性は、そうした「生存闘争における有利なレース」が積み重ねられた結果である。これに「適者生存」(survival of the fittest)というキャッチフレーズ、あるいはスローガンを与えたのがスペンサーであった。

『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』より

 どうやら、私たちの誤解には、このスペンサーという人物が関わっているのではないか? という匂いがしてくる。

 ここの真偽については、ぜひ本書で確かめてほしい。

 もう一つ、本書で著者が与えている視点で重要な問いかけがある。

 この世界における生物の長い長い歴史において、種は、およそ99.9%が絶滅しているのだという。つまり、現在のこの世界において存在する生命は、0.1%の生き残った種なわけだが、99.9%の絶滅種は、

「遺伝子(実力)が悪かったから絶滅したのか、それとも運が悪かったからなのだろうか」

という問いである。

 この問いについても、著者は絶滅の三つのシナリオを示すことで、遺伝子なのか、運なのか、という問いの答えに迫ろうとする。

 しかし、このあたりは、実にシンプルに答えを得ることもできる。

 自然界をたんに実力の世界=強者が生き延びる世界で捉えようとすると、たちまちのうちに、この地球上を支配していたはずの恐竜がなぜ滅び、食物連鎖の底辺の方にいた弱小生物である哺乳類が生き延び、繁栄することになったのか、ということに対する説明には躓いてしまうことであろう。

 やはり、そこには外的要因=運的な要素が大きくかかわっており、その外的要因においてもたらされた「不条理」なまでの環境の変化において、恐竜は適応できず、絶滅する運命を辿ったが、哺乳類は、逆にその「不条理」な変化に、たまたま適応することができたからということである。

 ここについては、フィジカルの強い弱い、知性の有無が問われるところではない。知略があって、哺乳類はこの変化に適応したのだとは、とても言い難い。

 また、本書の内容ではないが、ある魚の種は、外敵から逃げて、逃げて、逃げて、辿り着いた大海の片隅、河川の方へと逃げきることのできた彼らの一部が、海では生き残れないからと、陸で生きることを選び、爬虫類として進化していったという話もある。(このような話は他にいくらでもあるだろう)


 つまり、闘争における、強い弱いという原理だけで、生物の「進化」が促されるわけではない、ということだ。

「強いものが弱いものを食い物にするとか、優れたものが劣ったものを駆逐するといったイメージ」は、著者が言うように、人間が「適者生存」の原理を都合よく変化させ、自分たち人間が生きる社会に、いつの間にかその理屈や願望を投影させているにすぎないのだ、ということは、私も同意できる。

 そして、その進化論の誤解された「イメージ」が、あまりにも当たり前のように流布され、広告のキャッチコピーや啓発本、メディアでのメッセージ、会社や受験などのスローガンで頻繁に使われすぎているため、むしろそちらの誤解の方が、つまり世界=弱肉強食の世界という考え方の方が「常識」へとすり替わってしまい、むしろそれに異を唱えることの方が「変わった考え」「現実を直視できない」といったような扱いをされてしまうのではないかと思う。

 とはいえ、「遺伝子(実力)が悪かったから絶滅したのか、それとも運が悪かったからなのだろうか」という問いに関していえば、単純に、どちらが正しくて、間違っている、という二者択一の問題でもないであろう。

 世界は「運」でもあるが、同時に遺伝子(実力)の差異による問題も大いにあるだろう。

 ただし、スピノザ主義者である私は、この「運」を、けっして偶然の要素、という風には捉えない。偶然とは、あくまで人間にとっての未知、予測不可能性ゆえに、偶然と呼んでいるだけであって、すべての出来事の発生には必然的な原因がある。

 ダーウィンもまた、直接的にスピノザを語ることはないのだが、その思想は極めてスピノザ的である。ダーウィンは、はじめて「神」という超越的なデザイナー(制作者)なしに、被造物=生物の多様的な進化を、この自然の中において「内在的」に派生する原理であるということを説明したのである。

 このあたりは、以下の書に詳しい。

ダーウィンの危険な思想

スピノザの自然主義プログラム:自由意志も目的論もない力の形而上学

まとめ

「私たちの世界は弱肉強食の世界なのか」という問いに対しては、私は疑ってかかるようにしている。それらは、資本主義経済社会において、あるいは政治の原理において、「今」は勝者である者が、都合よく投射した理論にすぎないであろう。

 生命の種の歴史を見ても、栄枯盛衰の言葉が示すように、その立場はきわめて一時的であり、相対的なものである。その理論のみで、他の者たちへの支配を正当化するには、あまりに脆弱なのである。

 とはいえ、これは何も人間社会における支配-被支配の関係性だけを言っているわけではない。われわれは、われわれ自身が、この地球上における「覇者」のようにして振舞ってきた。

 強者の理論の適用とその推進が、われわれ自身の首を絞めているであろうことは、今日の地球規模で起きている状況を見れば、ここで私が指摘するまでもなく、明らかなことであろう。

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