東国独立を夢見た平将門と、関東人の潜在意識 ~将門塚、皇居、神田明神に行ってみた~
将門塚をめぐる
東京、地価40億円の一等地、大手町のオフィス街のど真ん中に「将門塚」はある。かの、平将門の首を祀ったもので、別名「首塚」とも呼ばれる。
ある夏の日の休日、私はこの将門塚を訪れるべく、地下鉄を乗り継いで大手町駅までやってきた。C5番出口から地上に出る。オフィス街の休みということもあってか、人気がまったくなかった。地上に出ると、風が吹きつけてくるとともに、アスファルトからはむわっとした熱気が立ち籠ってきた。
将門塚はなんとも不自然な場所にあった。将門塚を囲んでいるのは三井物産と三井不動産が共同事業として新設されたビル群だ。このビルとビルの間の敷地に平将門の墓石があるのだ。
どうしてこんなところに将門の首が祀られているかというと、平将門を供養するためである。935年から940年にかけて関東で反乱が起きる。桓武天皇のひ孫である将門が、一族との争いをきっかけに朝廷に反抗したのだ。将門は、時の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇」を名乗ったことにより、朝敵となった(平将門の乱)。
しかし即位して間もなく、藤原秀郷らに討ち取られてしまう。朝廷に反旗を翻し、脅かした存在として、将門は平安京で晒し首にされるのだが、将門の首は強烈な無念の思いから故郷をめざして空を飛んでいった。その首は武蔵国・豊島郡柴崎村、すなわち現在の千代田区内に落ちたのだといわれている。村人たちは将門の怨念を鎮めるべくその首を埋めて首塚を築いた。
大正時代に入り、近代化が進む中で、この将門塚にも開発の手が入り、撤去が試みられるのだが、開発や工事に関わっていた人間、時の大蔵大臣らが次々と不審な死を遂げる。この怪奇な出来事から、首塚を荒らしたからに違いないと噂が立ち、首塚は復元され再び祀られる。それから二十年後の戦後まもなく、GHQの関連施設の工事の際、再び首塚の撤去を試みるのだが、重機が横転し運転手が死亡、GHQの計画は白紙に戻ってしまう。
この平将門の怨念説はあまりにも有名だ。ネット上でもいろいろ出てくるので、ここでは深入りはしない。この将門の怨念を題材とした有名な小説に、荒俣宏の『帝都物語』がある。同作は映画にもなっている。
皇居東御苑をめぐる
皮肉というべきか、将門の執念が引き寄せたのか、この将門塚の目と鼻の先に皇居がある。皇居はもともとは徳川将軍家の江戸城である。将門の目からすれば、天皇が東国の方にやってきたということになろう。将門塚をお参りした私は、その皇居に行くべく、内堀通りに出て大手門に向かう。
一般人にも解放されている皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備されたものである。大手門の入り口は、多くの見学者で賑わっていた。外国人観光客も多い。
かつての江戸城跡を目にした私は、激動の幕末時代に思いを馳せる。今はこうして閑静な観光地となってはいるが、この江戸城はおよそ260年間にわたっての徳川幕府の中枢だったわけである。徳川家はこの江戸城を本拠に全国を治めてきたわけだが、江戸末期、アメリカやイギリスなど西洋列強が日本に押し寄せ、開国を迫られる中、お粗末な対応により人々の不安や不満が募る。各地で倒幕や、天皇を中心とした国を作ろうという動きが起き、幕府の権威が揺らぎ始める。
その後、幕府では新しい時代に対応できないと、薩摩藩や長州藩といった倒幕派が江戸幕府との激しい争いを繰り広げ、倒幕派が最終的に幕府を追い詰め、幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談により、江戸城は新政府軍に差し出される。新政府軍は江戸を総攻撃することを決めていたのだが、江戸を火の海にしてはならないという勝海舟の思いと判断により、江戸城が無血開城となったのはよく知られている。
朝廷は京都にある。明治維新により、京都の人々は当然京都に政治権力が戻ってくると信じていたことだろう。だが、新時代の首都をどこにするかは、新政府においてもすぐには決まらず、さまざまな議論がなされたのだという。新政府の中心人物である大久保利通は、商業都市として栄えていて、京都にも近い大阪への遷都を提案している。京都と江戸の両方を首都とすべしという「東西両都論」も真剣に議論されたようだ。
そうした中、日本郵政制度の父と呼ばれる前島密(ひそか)が江戸遷都論を主張した。首都を京都、大阪にするとなると、大規模な都市開発が必要になってしまう。江戸を首都にすれば、幕府の建物をそのまま利用できる。戊辰戦争により、深刻な財政不足に陥っていた新政府は、都市開発をする余裕もなかったため、前島密の主張を採用する。その際に、天皇の住まいは、これまで最高権力者が住んでいた江戸城にすればよいと考えた。こうして、無血開城から数か月後、江戸は「東京」になり、天皇も入城することとなる(参照※1)。
神田明神をめぐる
さて、東京に皇居が初めて定められてから、明治天皇がよく参拝されていたのが「神田明神」であるということはご存じだろうか。明治天皇が東京の神社で親しく参拝したのは、靖國神社と神田明神のみであったようだ。皇居をあとにした私は、次に神田明神に向かうべく、丸ノ内線に乗り、御茶ノ水駅で降りた。
この神田明神は、「江戸の守り神」として知られ、徳川家康も参拝者として深く信仰していた。1600年の関ヶ原の戦いの際には、この神田明神で祈祷を行っている。そして徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利したのだ。それ以降、徳川将軍家は、信仰する神田明神の規模を広げ、1616年には、江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の場所に鎮座し、江戸幕府によって社殿が造営される。神社は「江戸総鎮守」とも呼ばれ、庶民からも親しまれる神社となった(参照※2)。
神田明神は、社伝によると、730年に大己貴命(おおなむちのみこと)の子孫、真神田臣により創建さたとのことである。大己貴命とは、出雲の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名である。神田明神は三柱を祭神として祀っており、それが、⑴大己貴命(おおなむちのみこと)、⑵少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして⑶平将門命(たいらのまさかどのみこと)なのである。
⑴はだいこく様と呼び親しまれ、出雲大社の祭神である大国主命、出雲に国をつくった国づくりの神オオクニヌシのことである。天平2年(730年)から鎮座しており、もっとも社格の高い一之宮である。⑵はえびす様と呼ばれている商売繁盛の神なのだが、奉祀は1874年(明治7年)。わりと最近なのである。そして⑶のまさかど様は、延慶2年(1309年)に奉祀されている。⑵より⑶の平将門の方が先なのである。これについては後述する。
そもそも出雲系統の神田明神になぜ平将門が祀られているのだろうか、という疑問がわく。神田明神の社伝(参照※3)によると、神田明神はもともと将門塚がある今の千代田区大手町の場所に創建されていたのだ。で、その後、この将門塚周辺で天変地異が頻発していたため、将門の祟りを人々が恐れたことにより、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門の霊を慰め、延慶2年(1309)に神田明神に奉祀したことが始まりのようだ。将門の怨念説はこの頃に生まれていたのである。そしてのちに、徳川家により神社だけが今の場所に遷座したということだ。
将門は朝廷に逆らった存在ではあったが、地元である東国では英雄だったわけである。武士の先駆けでもあることから、時の支配者で、武人であった家康は将門にシンパシーを感じていたはずである。だからこそ、神田明神を信仰し、「江戸総鎮守」として神田明神を拡張させたのだが、さすがの家康も、将門の首塚に触れるわけにはいかなかったか、将門の首塚だけは、今の場所、大手町に残されている。
一方、新政府においては、平将門は国賊である。1874年(明治7年)、明治天皇が参拝する神社に、逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきことだとされ、平将門は祭神から外される。その代わりに、少彦名命、⑵のえびす様が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。少彦名命の奉祀が、平将門より後なのはこれが理由である。平将門の神霊は他の場所に遷されるのだが、1984年には神田明神に復帰している。
出雲と関東の関係?
では、ここからが次の疑問なのだが、明治天皇はなぜゆえに神田明神を参拝する必要があったのだろうか。平将門を外したということをふまえると、考えられるのは一つ、一之宮であるオオクニヌシの存在ではないだろうか。天皇家が東国に入居するとなって、「国譲りの神」とされるオオクニヌシをやり過ごすことはできなかったのではなかっただろうか。
ここで出雲と大和朝廷の関係がクロスするのだが、記紀神話では、大和は出雲から地上の政権を譲ってもらい、そのかわりに天上世界を出雲に任せて、王家がその後大切に出雲の神々を祀っていくとなっている。その中で、オオクニヌシとは、国造りの神でもあり、国譲りの神ともされているのだが、その国譲りとは、本当に平和的なものであったのか、字義通りに受け止めてよいものかは、議論が分かれるところである。
実際に、私もこのあたりの古代史に関心があって、出雲と大和の関係を調べるためにさまざまな文献をあさってはいるのだが、調べれば調べるほど複雑であり、なにぶん、記録された資料がない時代にまで遡った話でもあるため、さまざまな説が飛び交い、推測の域を出ない話も多く、論説も定まって
いない。果たして真相はどうなのだろうか。
このあたりは歴史のミステリーではあるが、ミステリーはミステリーにとどめておいたほうがよいのだろうか。ただ、注意しなければいけないのは、私たちが「歴史」と呼んでいるものは、あくまで書かれたもの、言葉になっているものである。それも、時の支配者、勝者によって書かれたものが「正史」となるだけである。
正史とは正しい歴史ではなく、あくまで「時の政府によってつくられた正式な歴史である(高島俊男)」。書かれなかった歴史、言葉にならなかった歴史は無限にあるのだということは忘れてはならないであろう。だからこそ、声にならない声、言葉にならない言葉として、文学といった領域があるのだと私は考えている。そういう意味で、「出雲」とは、文学的関心の対象でもあるのだ。
その前提で話を進めると、出雲国は大和に敗れて国の支配権を譲るのだが、大和の支配に屈せず、列島各地に散った出雲族がいたのだという。その一部が、東北に移住したり、海をわたって、武蔵国にやってきた。その水路の入り口が、今の東京で、そこから、関東平野を突き進んでいったという話である(※4)。これらもさまざまな諸説が唱えられているのだが、関東の歴史を研究するうえでは、神社の分布、そこに祀られている祭神、社伝などからひも解こうとする試みが多い。
2400年以上の歴史を持つ、埼玉県大宮の武蔵一宮氷川神社は、祭神が須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)と、出雲三柱と呼ばれる神々である。氷川神社名の社は大宮を中心に、埼玉県および東京都下、神奈川県下におよびその数は280数社を数えるのだそうだ。ここから、かつて大宮は、「王の宮」であり、スサノオが関東一帯を統治していた王朝があったのだという話もある(参照※5)。
あるいは、私の祖母の故郷でもある、千葉の房総地域、夷隅郡「御宿」という地。この一帯は古事記が書かれた頃より、伊甚(いじみの)国と呼ばれている。この地は出雲の人間がかつてここにやってきて、そう名付けたとされている話もある。驚くべきことに、島根県の出雲市にも「伊甚神社」があるという。出雲の伊甚神社の緯度は35.39°。一方、夷隅郡いすみ市にも、出雲大社という神社があり、その緯度は35.28°と、ほとんど同じ緯度に位置するということだ。また、この地の大多喜城の城主であった本多忠朝も、本多「出雲守」忠朝を名乗っている。これは、何を意味しているのだろうか。
実際に私は、御宿町の役所に、このことを問い合わせてみたことがある。夷隅郡と出雲は関係があるのかと。だが、役所の答えは「わからない」であった。資料がないから、解答のしようがないのだという。
関東と出雲の関係を結びつける話は、さまざまな説が唱えられているため、全てを鵜呑みにすることはできない。だが、私自身が関東人であるということから、私の出自が何であるか、関東人のアイデンティティとは何か、知っておきたいという欲求はある。関東は出雲とどのような関係があったのだろうか。その出雲は、大和とどういう関係にあったか。これは、私に限ったことではなく、東の人間にある潜在意識ではないだろうか。
古代の関東の歴史は、じつはわかっていないことが多い。大和からすれば、異国そのものであった東国。今、その東国をめぐっての歴史研究が進んではいるものの、わが国はいぜん記紀が中心としてある。エビデンス主義が支配的な歴史の確定もどうかとは思うが、証拠がない限り、どうしようもない。推測だけなら、いくらでも歴史は語れてしまうのだから。
たが、先にも述べたように、書かれなかった歴史とは、無限のごとくある。あまり文献に頼りすぎず、自分の想像力や直感というものも大切にしたい。関東各地にある神社巡りをすることをきっかけとして、東国の歴史をひも解いていくということも、今はまた、面白い。今回は、平将門がそのきっかけであったということだ。
<参考情報・文献>
※1『江戸城はいつから天皇の住まいである皇居になったの?』
※2『【神田明神】の歴史やご利益は?江戸の守り神とも称されるパワースポットに迫る』
※3『江戸総鎮守神田明神』ホームページ
※4『「平将門の夢」を夢見て 東国の独立』(高文堂出版社)蜂矢敬啓
※5『スサノヲの正体』(河出書房新社)戸矢学