「人生の折り返し」とはなんだろうか?
「人生の折り返し点」とよく言われる。
人によって人生の長さは違うだろうから、100歳まで生きれば、折り返し点は50歳、90歳までであれば45歳が、折り返し点ということになる。
だが、これは人生というものを直線的なものと見なし、スタート地点とゴール地点、すなわち人間の生と死の点を、ちょうど半分になるように中間地点を折り返し、綺麗にぴったりと重ねることをイメージしているものと思う。
当然、人生など予測不可能だ。人間、いつ死ぬかなど誰にもわからない。いつ死ぬかわからないので、折り返し地点を意識しながら人生を過ごす、ということはほとんどないのではないかと思う。ただ、その歳になってみて、実際に私なんかは45歳を過ぎたので46歳になった今、ああ、もう折り返しかといった具合に、感慨にふけるくらいである。
だが、ちょっと待てよと、ひねくれ者の私なんかはここで立ち止まってしまう。45歳が折り返しということを私は何の意識もせず受け入れてしまっているが、どうして自分が90歳まで生きることを前提としているのか。来年、再来年は、自分がどうなっているのかなどわかったものではない。数分後でさえ、どうなるかなど、「絶対」はないはずなのだ。もし私が47歳で死ぬようなことがあるならば、折り返し点は、23.5歳≒24歳ということになる。ただ、それもどこかおかしな話である。
人生の前半、後半、という形で捉えることも、90歳から100歳くらいまで生きることを前提にした考え方である。人間の平均寿命からも、だいたい今はそれくらいまでは生きれるよね、生きたいよね、という願望込みのビジョンではあろうが、私はそもそも、そのようなビューにおける折り返し点、つまり中間点を「中年」と捉えることもあまり好きではない。
なぜなら、私は中年になった今こそが、むしろ人生これから、というスタート地点に立っている気がし、やりたいこと、知りたいことが溢れているからだ。しかし、そんなことは20代の時、30代の時から変わっていない。私にとって大事な時間観は、たえず新しい瞬間、新しい自分、新しい知識、新しい経験に立ち会える「今」という時間である。
昨晩、テレビで『躍るさんま御殿』を見ていたら、ピザ屋を経営しているおばあちゃん集団が出演していて、みな80歳以上の高齢なのだが、そのうちの一人の方が、70代80代がいちばん楽しい、いちばん青春している、というようなことを言っていた。なんて素敵な考え方だろうと思った。こういう考え方がある方だからこそ、ずっと元気で活躍されているのだと思う。
ところで「人生の折り返し」という言葉には、その言葉の通り、布や紙を折り曲げる動作に由来するのだろう。「折る」ことは、日本文化において特別な意味を持つと思われる。
たとえば、折り紙では一つの紙を折ることで新しい形を生み出し、茶道では布を折る所作が礼儀作法の一部となる。また、日本人は昔から人にものを贈る時に、感謝の気持ちを込めて、和紙などでものを包み手渡すことを習慣としている。その包み方は「折形」と呼ばれ、お祝い事やお礼の際、おもてなしなどの際によって、様々な折形がある。
私はいぜんにも、この紙で包む日本人の所作に、伝統的な日本文化とその精神についてを考察してみた(下記・関連記事)が、「折る」という所作もまた、日本人独自の概念が込められたものだ。
この「折る」という行為、もともとは宗教的な意味合いがあるようだ。日本では、伊勢の皇大神宮で行われた「形代(かたしろ)折り」が、最古とされる。「おむすび」もそうだが、庶民的な広がりを見せるものは、たいていまずは宮廷などで生まれ、その後、一般層にも広がっていくという傾向がみられる。「折り紙」が庶民に広がるのも、この「形代折り」のあとである。「遊戯折り、つまり今普通に折り紙というものは、紙が貴重品で、一般に手のとどかないときには、江戸時代までの記録で、ほとんど見られない」のだそうだ。(参照※1)
紙を「折る」という行為には、物を包むためという実用的な側面もあるが、「折形」というように、「形」、「形式」へのこだわりが凝縮されているように思われる。それは、折り目をつけることで、別の形をつくる、生み出すといったような、「変化」を象徴する力なのだとみなせるかもしれない。
また、「返す」という行動は、「白紙に返す」という言葉にもあるように、再出発あるいはリセットを意味する言葉でもあり、「折り返し」という表現に、転機や再挑戦のニュアンスがこめられている理由は、ここにあるといえる。
「人生を折り返す」とは、転機や再挑戦といった、人生の再出発、あるいは再構築という意味合いがあることは、誰もが同意するであろう。多くの人にとって、「人生の折り返し点」は中年期やキャリアの中盤にあたると考えられている。この時期には、過去の積み重ねを振り返ると同時に、残りの時間をどう活用するかを模索するものとして捉えられている。
この「振り返りと再構築」の動作こそ、折り返しという言葉の動的な本質を表しているのではないか。ただ、私はこの再出発を、直線的な時間における「中間地点」としては捉えたくないと思うわけだ。スピノザ主義者である私にとっては、時間とは直線的なものではない。
もしかしたらこれは、仏教思想などにも通じるものと思うが、スピノザにおいては、時間を直線的に捉えることは人間の表象でしかなく、それは有限なる個物の持続的な時間とされる。そうではなく、この世界には「永遠」=今ここという現実だけがあるだけだ。
このビューから見ると、「折り返し」とは単なる時間の「中間地点」ではなく、「今この瞬間」を新しいスタートとして捉える、意識の転換そのものなのだとも言える。
つまり、「折り返し」はいつあってもよいし、何度重ねてもよいのだ。その形が綺麗ぴったりに重なりあわなくても、単純なものでなくてもよいではないか。
時間を永遠=今こことして捉えたうえでの「折り返し」とは、幾重にも折り重ねられた「花」を表現したような、複雑な折り紙を想起させる。あるいはドゥルーズやライプニッツのような、<襞>のある時間、空間の捉え方でもよいかもしれない。
その襞の数や重なりが多いほど、人生の深み、奥行きが生み出されるはずである。
だから、こうとも言えるだろう。「人生は常に折り返し」。好きなだけ、いつでも、何度でも折り返せるのが人生ではないだろうか。私は、人生の中間地点という考え方よりも、こちらの感覚を好む。
<参照文献>
※1 論文『折り紙と折る文化』北岡一道
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