閑話休題 情熱大陸 殿堂入りインタビュー イチローから学ぶ教育的にマズいこと

 二夜連続の情熱大陸で同世代のイチローが語ったことから学べることがあるのではないか?そんなことを考えながら見ていた。その後殿堂入りインタビューで「子どもも叱るし、大人も叱る」という趣旨があったときにやはりそうでなくてはいけないよねと同意した次第。彼も結果より教える、教わるということにこだわりがあるということがよくわかる。才能ももちろんだけどそれ以上に仰木監督、新井コーチとの関係にその野球人生の成功があったと思うからである。

 情熱大陸でイチローさんと松井さんが今のメジャーリーグベースボールについてイライラするところがデータでしか選手を見ないところ、データでしかゲームをコントロールしないところだということをおっしゃってた。
 それは力対力とか真っ向勝負といえば聞こえがいいのかもしれないけれど野球が人間が行う血の通った勝負であること、それ以上に作戦や戦術によって乗り越えられる面白みというものが今のスポーツから取り除かれていることに対する警鐘だと感じる。
 まさにタイパやコスパのようにとにかくデータによる効率だけを優先したデータサイエンス合戦に野球が成り下がっていることに対する「昭和」からの逆襲ではないかと解釈するのです。

「一つでは多すぎる」今の野球がエンジョイであったり、アッパースイングであったり、セイバーメトリックス・ラプソードだったり(野球の技術と結果を数値化することで客観的に選手を区分けするものだとご理解ください)といった単一の価値観にだけ囚われる様子を見るにつけ、そう感じる訳です。教育現場も同様にそうした「まじない」の類に支配されているのではないか?たとえばダッシュボードをはじめとしたデータの利活用。たとえば主体的・対話的で深い学び。たとえば一人一台端末。たとえば不登校対策。たとえば特別支援教育。

 それらがあることは構わない。教育としての手段がたくさんあってどれもいいになっているのならそれで全てが無条件に許容されるのが良いということ。

 しかし野球がエンジョイだけを声高に叫び、大谷選手だけを尊び、データだけが優先される様を見て、イチローさんは感性や基礎基本以前の準備という言葉で数字に現れない重要性をかなり強調しているように感じたんです。

 そうしたことが一つでは多すぎる、さまざまなことに目を向けてそれを許容し、受け入れていくことが必要ではないかということにつながると思います。たとえば

 給食一つとってもそうです。重要な指標は完食ではない。もちろん黙食でもない。しかしマナーも大事だし食への感謝や体を作ることも大事です。食育という言葉自体あまり好みませんけれどもこれも教育の一環であるということです。それ以前に集団で食事をするということはそれだけで家庭の食事とは違う、「一ではない」、ということなんです。
 不安を語る前に家ではちゃんと食べているのですか?何を食べているのですか?学校を、他人を、教員を、否定できるほどおうちはちゃんとしてるのですか?そういうことです。文句を言うなということではありません。集団においては許容するということが少なくとも必要だということと我慢は重なる部分はあれど同一ではないということです。

 一つの価値観、一つの指標、一つの評価基準、一つのデータ。これらはわかりやすく心地よい。
 しかしながらそれらによって否定され、捨てられるたくさんの「何か」のなかになくさない方が良いものが混じっているということに目を向けるべきなんではないだろうか?
 タイパ、コスパが捨てるもの、捨てたもののなかに先人の知恵として、不易として、ことわざや言い習わしとして、まだ使用価値や本質が残っているものがあるはずです。一旦捨てたとしてもそうしたものをまだ吟味できる余裕を所持しておくことが「高まり」につながるのではないかと思います。それは個人的にも集団的にも。

 威勢の良いことやわかりやすい掛け声だけに支配されることなく幅広く目を向けることのできない人間に向けてイチローさんは「叱り」たかったのではないかと思うんです。それは子どもであっても大人であっても問題ではない。「叱る」ことがその人のためにも、自分のためにもなることをイチローさんはよくわかっている。

 それが令和だけでは持ち得ない、昭和が持っている幅の広い価値観であるということであるし、昭和がやらかした失敗作への訂正であるとも言えるんです。

 データだけを信じて、一つのやり方だけを盲信して感性のうちにある経験や感覚や他者性には耳を傾けないことは決めつけなのではないか?
 「決めつけてはいけない」ということが決めつけなのではないか?それは30年前とある生徒が私に投げかけた疑問でもあります。たとえそれがただのイチャモンだったとしても、それは今でも私を突き動かす原動力の一つであるし、教師を続ける上での矜持の一端でもある訳です。

 昭和を全肯定することも全否定することも正しくはない。若者にはまだまだ足りない部分があるのですよ。老人には無くした部分があるのと同じように。

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