日曜劇場 「御上先生」にインスパイヤーされそうな我が子へ伝えときたいこと
そもそもこれをかいている時点では第一話が終わっただけなのでなんとも言えないのだけれども(ドラマなんて途中で話が変わることなんてよくあるし、打ち切りもある。まして所詮ドラマであって一時期話題になったとしてもすぐに忘れられていくもんである。金八がさほど教育に影響を与えたというのは買いかぶりなんじゃないかと思う。だってドラマでしょと言えるから。それより変な知識人が垂れ流すニュースの方が余計怖いし、変に影響される子どもや保護者が出てしまうのでしょう。)、かなりインスパイヤされている我が子へ伝えたいことがあるわけです。方向性が間違っていたら恥ずかしいので直接は伝えないけれど。その辺は親としては失敗できません。これ重要です。
ドラマや映画を考察したって仕方がない。会話の中での話題の提供としては成り立つかもしれないけれど、それには結果的に大した価値はないのです。
とある大学教員が山田洋次監督と対談した時に過去に撮った映画の場面をあげて登場人物の心情と監督の意図を考察したのだけれども、その時の山田監督の答えは「そこまで考えていなかった」の一言でした。
そもそも考えてたとしても、「YES」という答えはしないでしょう。野暮です。聞いた方も恥ずかしいくらいのミーハー丸出しですけど。たとえ私ですらそんな時イエスとは言わないです。noteに書いたことに対してうまく伝わろうが伝わらまいがそんなの関係ないのです。いいように解釈してくれてもだから何?ってなもんです。ヤフコメやYouTubeのコメント欄にある賞賛の嵐や誹謗中傷を見ていても同様です。相手にするに値しない。
そうした考察・解釈が結果として(自動的に)社会を変えることはないからです。
我が子にもそれは理解してほしい。今社会ではとにかく他人を承認すること、その逆に合法的な範囲(だという身勝手な解釈の中で取り下げて訂正すれば済むと考えている雑誌や政治家、コメンテーターの振り撒く悪影響)で叩くことが蔓延しているけれども、それでは結果として何も変わらない。たとえ変わったように見えても、ただ一瞬立場が入れ替わるだけの話です。いずれ勝った側も負けに強制移動させられる。なぜか負けた側が生き延びて復活する芽もあるという不思議。これは兵庫県知事選挙で起こってしまった怪現象です。誰かが死ねば話は一旦収まる状況というのは奇怪そのものです。
そうした誹謗中傷や称賛は厳罰化で解決する問題ではなく、結局民意の高まりでしか乗り越えられないということです。非常に遠回りですが。
もし上級国民の側が既得権を守るために意固地になれば下からのテロリズムはよりその過激さを増していくに違いありません。それは歴史が証明している。これだけ情報化社会になってくると隠蔽しきれないうちに陰謀論のような非科学がそれを塗りつぶしてしまう。それを「正しいか正しくないか」だけで判断しているうちは、それが多数を占めているうちは結果の判定が必ずしも「思考された方向」には進まないのではないでしょうか?
ということで(?)「御上先生」
まず教育はそうお手軽なもんではない。そう簡単に個人を、集団を、思い通り教育できることなどない。それは学級担任していてもそのクラスルームを思い通りできることなどそうないわけです。
良い教師が関わったからといってその全員に良い未来が訪れるんでもなく、ダメな教師が関わったからといってその全員に絶望的な未来が去来するわけでもない。結局自分を助けるのは己の力でしかないのですが、それにどのぐらい他者が関われるか、その中で大人の按分がどれほどあるかは結果論でしかなく、未来のことは誰にもわからないからです。(もちろん教育システムの歯車としてだけではなく、個別の関わりの先の子どもの幸福を探究するために個人的に努力する仕事をしている教師もいることは自明であるのですが・・・是枝先生が善か悪であるかはさておき)
そして第一話を終わって最も我が子にわかってほしいことは「参加」することのために手を汚していいのかということです。もちろん汚さないことで参加できないということはあるんでしょう。それはわかります、経験上。
しかし手を汚さなければ参加できないことと手を汚しても良いことは同義にはならない。それはこれまで批判してきた教育システムのウエに属する人間の暗部です。私はそれには参画しない。そして一度汚したものは二度目には罪の意識を感じなくなってしまうのです。
それは簡単に言えば今の大学教員の不正(に近いぐらい門戸の狭い)採用・縁故(と言われてもしょうがないぐらい露骨な知り合い)採用に異を唱える大学関係者がどれほどいるかという話です。天下りなど可愛いもんです。日本の大学はその半分以上がこうした「汚れ」の上に成り立っているからです。
汚れている人間は自分が汚れていることには気がつきません。そいつの顔が汚れていることから自分が汚れているかもしれないと思うのは、汚れていない人間の方だというのは意地悪クイズの世界ばかりのことではなく実際の世界もそうなのです。
これは工藤氏のいう「学校=悪」イメージの話にもつながっていて、担任はそうではなくても文科省官僚、「教育委員会官僚」というのは結局固定的な悪であるということはそんなに間違っていないんだと思います。それはドラマの風刺としてはすごく当たっている。そしてこれらに引き摺られて学校管理職も悪であるという描写もエスプリが効いています。学校内に悪の手先がいるという指摘は実は金八というドラマの方がソフトだったということは、それ以降教師になった多くの教師が経験済みでもあることなのです。
それが御上先生のいう闇であると言ってもあながち言い過ぎではありませんし、上級国民であることへの批判であると言っても過言ではないと思います。
しかし、そこで我が子に考えてほしいのは、自己実現というのは社会的な承認の上でだけでは成り立ってはいないということなんです。ドラマとしてでも、3年A組のような絶望的な締め方ではなく、もう少し希望のあるような終わり方がないわけではないと思います。
おそらく社会問題を解決する方法というか、道筋というのはいくつかあって、ジャーナリズムや政治というのはその中でも下策に類するものだろうという個人的な予測があるんです。長く生きた経験則も含んで。もちろん結果が伴わない可能性の方が高いけれども。
私の考える教育問題へのアプローチというのはもう少し浄化作用のはたらくもんだと思います。文科省も、教育委員会も、大学も、学校管理職も、果ては同僚までも、絶望的な不可能を感じることは実際にはあります。しかし諦めるわけにはいかないし、全員が全員話のわからない人間であるわけでもない。諦めずに言い続ければ、「手を汚さずとも」変わる可能性が皆無ではないんです。そう信じたい。
負けを認めさえしなければ負けではないというのはプロレスラーの名言ですが、勝てないまでも実践して発信することを続けていればどこかで何かのタイミングに引っ掛かることがあるかもしれない。とりあえずそう信じて、あと少しそう信じて。(『End of the day』 By Mr.children)
そういうことが大事なんではないでしょうか?カッコ悪いし要領悪いけれどこれでどうだろう?我が子よ。