6割の私大が定員割れを起こし、東大が授業料年当たり10万値上げして62万にする話

 大学の断末魔が聞こえるようである。
こないだ見たガイアの夜明けは大学同士の医局が争って市民病院が困る話だった。もちろんテレビ局の意図や現経営陣とは別の見方もあることも承知の上でこれらの出来事は繋いでみたいと思います。

 大学には二側面が存在する典型のような気がする。もちろん何にでも二項対立、二律背反があり、反実仮想によって思考するのが学問の一手法であるというのはある意味の皮肉な結果なのだろうかとも思う。自分たちの最も得意なやり方で以て自分たちのことを見れていないということである。

 経営と現場の対立、学部間の対立、教育と研究の対立、市場と建前の対立、天下国家とゲンジツの対立、こうしたことは少なくとも解決されているとは言い難い。個々の人間がマネジメントしていることがあったとしてもそれは全体にとっては全く関係のない話である。

 個人的には集団内で対立しないことで課題を解決していく手法に興味がある。しかしそのことは集団内で対話しないことを意味しない。対話とは対立である。そして多様性も対立である。そして何より自由というのは対立である。対立を処理することを業務として時間としてきちんと価値づけ位置付けていくことができる集団のみが対話を口にできる集団であるのではないか?ということなんです。
 本筋と外れて自分に領域に引っ張っていって恐縮であるが、今の学校現場は主体的対話的と言っているが全くこうしたことを深く考えもしていなければコストとして計上していない。そもそも教育にはそうしたコスト感覚が全くない。労働をコストとして換算する習慣がないから給特法みたいな変な法律が存在するのである。そうした習慣は戦後の福祉や教育においてよくよくあったことは承知している。というか私の専門分野の話である。児童福祉法24条など保育に欠ける子がいても事情があれば自治体は保育を用意しなくてもいいとはっきり書いてある。今なら保育料も無償化され、待機児童も解消され、株式会社も値段なりの保育を提供できる土壌まで整っているので事情って何?ということになると思いますが、「保育所落ちた、日本死ね」の頃ほんの10年前までは自治体は福祉サービスにおいて平然と市民を選別していたのです。それを業務にしていたのです。しかも税金を納めない福祉制度受給世帯の方が保育サービスにおいて一般の人より優遇するという意味不明なことをしていたわけです。詳しく調べたわけではないですが、無償化にした方が福祉予算の総量は若干増えたかもしれませんが、スケールメリットから受益者一人当たりの支給額はずいぶん下がったのではないかと思われますし、市民の不公平感も減ったのではないかと思います。日本のような所得制限型の福祉政策は極端に所得を下げるために国民の行動を誘導するという側面が存在します。ずいぶん長い愚痴になってしまいましたが、これは大学経営の発想にもつながるのではないかと思います。つまり大学のコストを大学受益者だけのコストとして換算することに対しての違和感ということにもなります。
 つまりコスト論という議論をよりコストがかからない政策へと誘導するロジックから、正当なコストを換算するロジックへと変更できないかということです。この「正当」を測るモノサシが非常に困難であることは十分に承知しています。しかしこの対立は対話するに足る、対立としての価値のある業務ではないかと思うわけです。

 少し話を戻して対話の中身について先に考えておきます。時間と労力を労働上の価値として認めた対話というのは受容や共感ともイメージが違います。
 さりとてそれは熟議とも違う。対話とは基本的に話す価値のある人間を見極めた上で選別された後の熟議だからです。話す価値のない人間との対話ほど時間の無駄はないからです。これを「排除の理論」として切って捨てた元総理大臣がいましたが彼は今の総理大臣と同様に何もしませんでした。少なくとも何もしていないようにしか見えない。実行するということがどこかで切って捨てることが必要であることは自明のことです。
 でもそんなんマイノリティにとって悲しすぎる。では・・・ということでこうした対話スタイルとセットで必要なことが別の対話グループを作る自由とその対話結果同士を評価するオーディエンスの価値ということになるのだろうと思うのです。

 今の大学改革の議論というのは、文科省を中心とした審議会でしか行われていない。あったとしても少なくともオーディエンスにはその声は届いていない。なので判断材料がない。私大についての議論は潰すか、救済するかの二択しかない。国立大学法人の議論はいかにコストカットするかもしくは収入をアップするかに行き着く。
 そして挙句はどうやって学生を集めるかという話になる。学生数だけで大学の価値を測るならそうでしょう。そうならざるを得ないでしょう。学生=カネだからです。これは経営の問題なのですが、私からすれば経営学部があるのに経営できない大学なんて意味がわかりません。企業経営の仕方を学生にごちゃごちゃいう前に自分の大学なんとかしろよということです。(実はそれは教育学部のある大学にも全く同じことを思います。多分前に書いた気がする)大学教員ももう少し真剣に大学経営に自分ごととして関与すべきです。大学は働き場所ではなく学際的な研究対象だと思います。まず大学経営の問題は自分たちの大学でなんとかすべきです。
 しかし大学の価値はそれだけではない。その意味はわかります。けどその話は経営が上手くいった先の話です。非成長産業である大学は単年度黒字、安定配当が使命の企業と同じ括りにあるべきです。
 それが達成された先に大学にはコストでは測れない価値があるという話になるべきです。この順序が逆転して論理展開した結果がこの様です。資本主義社会である以上、大学とてこの枠組みからは逃れ得なかったということなんでしょう。
 ちなみに一般的に大学には企業でいう内部留保が貯まっています。大学の歴史に比例して。これをランニングコストに回している大学は危ないと思って差し支えない。それは小学生でもわかることです。しかし相当数の大学がこれに手を染めているはずです。
 大学産業は栄枯盛衰諸行無常です。いい時もあれば悪い時もある。そのことを考えず、そのことを言い訳にして、自転車操業に走るのはダメでしょ。挙句それすらダメになってきたら自治体に救済してくれ、公立化してくれなんてあり得ません。近大の調子がいいようですが、日大、立命が通った盛衰の道です。今、大和大学が同じようなことをしていますがそのやり方は少なくとも使用価値とは合致しないのではないかということです。

 外れましたが、学びのインフラとか知の殿堂とか社会貢献とか・・・まずこの夢想から脱却する必要があるというのが本題です。
 学生数にしても授業料にしても行き着く先はカネの話です。定員を充足するためにオープンキャンパスや宣伝広告、高校訪問を行うというのはこれから先はおそらく非常にコスパ、タイパの悪い作業になります。
 いつも思うのですがYouTube見ているような人間が大学のCM見てここの大学行こか。とはならないはずです。しかもそんな学生をとっても研究活動に役立つとはとても思えません。あまり詳しく知らないのですが大和大学や畿央大学(なぜか奈良っぽいという共通点を感じます)と言ったところはおそらく研究を捨てて人材育成に全振りすることでなんとか生き残っていこうとしているのではないかと思われます。これは私が昔関わった小さな短期大学や専門学校でも行われていた手法です。これで生き残っている学校というのはとにかく少数集中コスパ重視です。
 本来東大、京大を目指して開学したはずなのに大和大学の謳い文句が東の早慶、西の大和を目指すになってきたのもそうした変遷があったのかなという気もします。相当穿った見方ですが。そういう意味では早慶というのは私学経営の中でも異彩を放っているのでしょう。経営手法としての独自性では他の追随を許さない。その分奇妙な人間や社会的に不適格な人間が教員や学生をしていて世間を賑わすこともありますが・・・

 また外れましたが、大学があって良かったという実感を地域に持ってもらえるような感覚がこれからは少し違ったものになるのではないか?それは一番最初に語ったガイアの夜明けの大津市民病院の再生手法の一端につながるわけです。
 相当壮大な伏線回収です。いや回り道が過ぎただけか?大津市民病院は大学の医局制度の争いつまり対立です。対立はコストとしても時間としてもしょうがない。しかしそこで相手におもねった解決手法はないという点については激しく同意します。相手大学側の医局の都合は排除するしかないということです。それが対立の本質だからです。その火種を残したままでの問題解決などあり得ない。だがここで重要になるのはオーディエンスの評価です。大津市民というオーディエンスに評価されるような実践がなされることを探求しようとしたのが院長の選択だったわけです。おそらく結果がどうなるかなど誰にもわからない。けれどもやる。そういうことです。

 今生き残りたい大学は、オーディエンスに向けてとにかく使用価値の高い社会貢献を打ち出していく必要があるのではないかということです。それを以て大学教員の4つの仕事のうちの一つである社会貢献としていくということです。つまり社会貢献と大学価値の一体化です。
 これまでの社会貢献は一部を除いて大学価値の向上には一切と言って良いほど貢献していません。ただ自分の実入がないから社会貢献であると言い張っているだけです。特に教育現場はこうした生半可知識人による被害をもろに受けてきました。それが市民の幸せとは逆行している社会貢献ということです。
 他にも学生発の試みが何の役にも立たなかったり、マネタイズできなかったり、大学発のスタートアップが不正をして潰れたりするというようなことが散見しています。
 大学にとってのオーディエンスは学生だけではなく、大学が存在する地域の住民もです。小中学校高校と違って大学はほとんど全てがそれは存在する市区町村とは縁もゆかりもない学生と教職員によって構成されています。その市区町村に資することなしにオーディエンスの満足は存在し得ません。これまでは賃貸物件を持っているオーナーや飲食店経営者が大学の存在によって恩恵に浴していたのですがこれからは広く「開かれた大学」である必要があるのだろうということです。大学が持っているのは、一つは学術的な空間としてキャンパス、そして単純に学生のマンパワー、そして教員の知ということぐらいしかありません。こうしたことを融合して少なくとも地域住民にとって地域にこの大学があって良かったなぁ、助かったぁと思わせる施策を打っていくことに時間と労力を割くことを考えた方が良くないですか?ということです。

 おそらく東京大学はそうしたことを考える気がない。さればこその学費値上げです。とにかく研究をして世界と戦うということに全振りすることにしようとする決意の表れということなんでしょう。しかしミネルバ大学やMIT、スタンフォードを見ても今の大学ヴィジョンの潮流はそこではない気がします。もし値上げをしてそれに見合う大学価値向上を示すことができなければもしかしたら日本トップ大学の看板すらもおろさなければならなくなる可能性すら出てくるのではないかと思います。
 非成長産業にとってそのトップ企業はかなりのアドバンテージを有しているものです。今回の自民党総裁選を見ても半分が東京大学出身です。しかしこれがもし関東学院に負けることになれば・・・ということです。まあすでに政治の世界ではすでに東大は成蹊や小卒に負けてはいるんですけどね。
 そうは言っても今の教育の情勢は苛烈なんですけどね。文科省の掛け声は学力でも政治の世界でも勝ち抜ける主体的対話的で深い学びを個別最適で協働できる人間を育てろと言っています。そんなになんでもできるようにはならんだろと思うんですが。

 大学制度という教育の終着点がどこへ向かうのかは教育制度の入り口に携わっている人間からすると非常に興味深い話なんです。ただこの値上げは単なる値上げに終わらないのではないのかな・・・という気がしています。これだけ教育熱の冷めやらぬ日本ではたった10万値上げされたくらいで東大を諦めて安い大学へとはならないはずです。
 しかし私大の6割が定員割れしている現状と重ねて考えると(触れていませんがその6割がどれくらい凸凹と定員割れしているかも見ましたが個人的には結構悲惨な状況だという認識です。そもそも大学経営における採算ラインというのは公表されていません。)その10万で何ができるのかということを日本トップとしては全大学を束ねる存在から問われることになるわけです。単純に試算すれば30億円以下/年あたりです。日本全国の大学経営からすれば微々たる額のような気もします。でも東京大学だけの運営費として見るなら3%ぐらいにはなるのかな・・それで何ができるかです。

 果たして東京大学がこの先、大学内で、文科省と、国民と、どういった対話をしていくのか?東京大学が日本の大学を、定員割れしている私大を救うことができるのか?オーディエンスに語りかけることがあるのか?とっても興味があります。
 いつもの大学教員批判ではなく、シュリンクでもない視点で大学経営のサバイブを考えてみました。なぜならこれは果たしてカネを払ってまで我が子を大学に行かせるべきかどうかという子育て世代にとっては一生モノの頭の痛い問題であるわけなんですよね。フツーに子育て頑張っていればBFもあるぐらいの日本の大学には行ける学力になっちゃうからです。

 果たして大学が対話する価値のある相手であるのか?
 我が子を預けるに値する相手であるのか?
そうでないなら潰れて選択肢に上がらないでくれた方が国民は幸せです、ということなんです。

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