主体的な対話的活動を内包した授業を見た個人的な感想

 主体的な対話を内包した授業を自分でやりたくなったということでミドルな立場の人間が授業を見せてくれた。何の脈絡もなく。どういう意味でどういう提案をしたいのか?何を目指しているのか?を説明してくれると非常に助かるのだけれどもそれはなかった。
 別にそれはどうでもいいのだけれども、そうなったのは私の責任かもしれないとも思った。何度かnoteにも書いたのだけれども、今年随分時間をかけて「主体的な対話のある」授業を作ったわけです。しかし結果は何も残らなかった。現状では何も残っていません。もしかしたら見せてくれたこの授業はその成果なのかもしれませんが・・・かなり丁寧に意図を説明したし、どういう観点を持ってほしいかも語りかけました。しかしレスポンスのかけらもなかったんです。結局校内研修というのはそうした「なかったことになる」だけの側面しかありませんでした。

 それが悪いというわけではなく、そういうもんなんです。逆のそれで盛り上がったから「いいよね」という評価もおかしいと思うのです。元来学校はこうしたよくわからない自己評価を元にして校内研修を「続ける」ことを選択してしまった。個人的にはこうした学習に存在価値はないと思います。少なくとも大人の場合は。これは文章による伝達で良い。それ以上の情報は必要もなければ時間をかけたり、集まったりする必要すらない。
 職員室では会議と対話がごちゃ混ぜで扱われている。決定事項を会議にかける必要はないし、未決定事項を会議にかける必要もない。でもそれが行われている。伝達は伝達であって必要な時に「すぐに」取り出せる情報として収納されておけばよいだけ。でもなぜか会議で連絡される。そんな必要のない「集まり」の中で確認される。確認しないと守れない程度の決まり事なら廃止すればいいのに。優先順位が決められていない中で意見を言いたい目立ちたがり屋が発言するだけの非常に無駄な「集まり」が仕事として設定される。人が何十人も時間を合わせて集まることがいかに無駄な労力であるかがわかっていないのです。いまだに職員会議が学校の最高の意思決定機関だと勘違いしている教員が多いことも原因です。

 随分それたけれど、職員会議も校内研修も「これまで通り」で進めるならそれは伝達事項のすぎない。時間をかけて大人数を拘束してまでやることではない。そういうことです。伝達事項でないと言い張るのならそうではない校内研修や職員会議を作るための(せめて)努力だけはしなければならないでしょうということです。
 それは新しい仕事を作るということではなくて、時間配分を変えることを学校中の合意の中で作っていくということなのです。

 そして内容的にもメタ的にも主体的であることは、(一体であるのだけれども)大きく別物であることをはっきりさせておいた方が良いのかもしれません。それが親切であると思います。

 そんなわけでいきなり授業公開をするから見にいける学級担任というのはそんなの多くはいません。
 それだけで主体的な活動をできる学級経営(=自習)をしていることの証明でもあります。それを補うことのできる専科がいる学級でもなければ、専科教員でもない場合は。授業時間中にそこに参画できるだけでもその学校がそうした余白を持った学校であるかどうかを測ることができます。そうした学習集団形成ができているかということです。それは道徳的な実践(学習する他者への配慮が監視者のいない環境で発動できるかという問題。子どもに子どもを注意させる学習集団はこれができていないわけです。そんなこと一般社会でやったらどうなるか想像してみたらわかるしょ、ということです。)や特別支援教育の行き届き(対象児童にベタ付きしないといけなかったり、別教材を提供しないといけなかったりするように日常をデザインしているようでは自習などままなりません)も関係してきます。
 まあそうした取り組みをした授業者本人はそこまで考えていなかったのでしょうけれども。学級担任ではないので授業ができないのに偉そうなことを言うのが気が引けたのかもしれない。それはさておきそういうことをやってみようという気持ちが嬉しいもんです、とりあえず多謝。

 最近ここまで歳をとってくると授業は見るもんではなく、感じるもんであるとなってくる。死期が近づいているからだろうけれどもそう時間は無駄にできない。メモを取っても意味がない。自分の脳の連結性を信じて感じていくことでその授業から何かを生み出さなければいくら授業を見てもその先に届かせる意味がないのである。その昔東大の佐藤学さんが私ほど授業を見ている人間はいないと言っていたのを聞いてそんなわけないやろと思い、なおかつ自分が何時間授業しているか、見ているかを計算して圧勝していることから自分もたくさん生み出していかなければならないと思ったところでのスタートですけれど。

 それで感じたこと。この授業は完全投げ込みです。子どもと関わりも薄くはないけどそう濃くもない。学習内容も単元とは関係ない。子どもがほっといても意欲的になりそうな学習内容を選んではいました。簡単に言えばGAFAの就職試験みたいな感じでYouTubeに上がりそうなネタです。そりゃ主体的な対話にするのは全く難しくはない。良い悪いもなくそういう建て付けです。自分のクラスではないのでそのくらいのハンディはいいでしょう。
 結論から言えば主体性の発揮も、対話の質も、中途半端だったという評価です。非常に盛り上がりはあったし、教師のワザも多数見せていただきました。でも教師のワザなんてもんはオリジナリティであることに意味があるのであってどっかで見たことがあるものを、知っている、やっていることを見てもそれにそれほどの感動はありません。そうしたことを分類することすらせずにばら撒いているのが教育のワザ本だからです。申し訳ないけれどそうしたのに意味があるはずがない。真似を推奨することはその場しのぎをしているだけだから。その場しのぎがわるいのでなく、それを教育だと思わせてしまうことが悪い。だからオリジナリティであることを、少なくともそうした努力だけでもすることで(たとえ失敗の連続であっても)教育活動としてもらいたいんです。そうした土壌を整える努力を老人が請け負ってこそでしょうけれど。

 そこから個人的に考えたことというのは、主体的で対話的になる授業というのは学習内容や教授方法にできることはそう多くないのではないかということです。多分この授業の質は非常に高かったこととこれまで脳みそをたくさん使って主体的とは何か?対話とは何か?を考えてきたことが非常にマッチした結果だと思います。脳が知識と経験とを理論で繋ぎ合わせて言語化できた瞬間だったような気がします。
 つまり、どの子どもも主体性を発揮するために必要なこと、どの子どもも対話をするために必要なこと、というのは授業の内容ではなく、学習集団の質によって主体的対話的の発現として見えているのではないかという至極当たり前の結論だったんです。しかしそれは直線的に発生した思いつきではなく、かなり大きな遠回りをした結果の産物であったということです。これはどれだけ主体的で対話的な授業を目指すかという目標設定ではなく、学習集団としての高まりがあれば、主体的で対話的な個人的な動きをある一定の活動量を伴って行える「場の設定」がなされるということになります。それはこの授業が魅力的な内容でかつ、自主学習の要素を含んでおり、意見を交流して協働する取り組みであったにも関わらず(私から見て)全体の高まりがなく、個人的な学力上の満足が多くなかったように感じられたことがあります。
 それは学習集団として非常にわがままで、個人主義で、他者への眼差しの感じられない授業であったことから弾き出した結論であります。それが悪いとか学習集団として未成熟であることへのディスりとかいうことではなく、主体性を学校という場で設定するということがそういうことなんだろうということに気づいたということです。

 学習集団としての成熟なしに主体性や対話を授業に持ち込むためには見栄えのために授業準備や学習内容のキャラクターやICTを使うという学習者におもねった興味の存在を提示しなければ成り立たないということです。逆に言えばそうした工夫や教材の新しさや楽しさがなくとも集団としての高まりがあればそれが何歳の集団であっても主体的な協働の結果として対話が生まれざるを得ないということです。

 今回のご提案の授業は授業には無理やりそうしている主体的・対話的で深い学びなのか?それとも自然と主体的・対話的で深い学びになっているのか?がわかるもんだということを教えていただいたということになります。
 これから学級担任は「自然」とそうなる学習集団を作ることを業務とする主体として、学校管理職はそうしたことをサポートするために凸凹のないマンパワー配分をすることを「学校」づくりとして具現化する主体にしていく取り組みが必要だということだと思います。

 何はともあれそういう機会を与えてくれた刺激には感謝の意を示しておこうと思います。ありがとうございました。

 

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