話す方の障がい観と聞く方の障碍観のズレ

 しょうがいの見方が しょうがい児童の教育において非常に齟齬を生み出しています。
 その非対称性というのは非常に厄介なんです。あまり語られないことですが。
 表記の仕方一つとっても非常に問題の所在を見えにくくします。障害を障がいとしたり、障碍としたりすることです。私はもうめんどくさいので、しょうがいとしています。

 これは30年以上前教育学部に障害児教育という学科が存在したことから言われ続けたことです。私は当時学生であった頃から呼び方をどうしようと話す方の気持ちを探るなど不可能であると主張していました。学生であってもそうした議論は活発に行われていたわけです。コンプラも何もありませんからかなり突っ込んだ議論が自由にできていました。

 中身としては障害児教育はどういう視点で行うべきかという議論などが行われていたわけです。そこで若気の至りで使っていた言葉が「住み分け」です。障害児に関わる教育は区別や区分ではなく、住み分けを行った方が良いではないかという趣旨だったと記憶しています。
 今ならインクルーシブやインクルージョンなどのグループにボロクソに叩かれそうな主張ですが、そもそもそのころは世界でもそうした議論すら萌芽の段階でした。しかし、たしかその議論でも障害児教育プロパーの人間からは個性重視という当時の流行り文句と共に住み分けすら区別にすぎないという突撃を食らったような気がします。そのときの彼ら彼女らが語る美辞麗句が私の一定のしょうがい観を決定づけたのではないかと後から考えて思います。
 綺麗な言葉で語る人間が綺麗な人間であるとは限らないからです。それは議論であっても同様です。
 今の特別支援教育は議論ではない「実践」ですら、そうした困難に満ち溢れています。
 仕方がないのでこの間はそれを対応する人間のマインドセットでなんとかしてみてはいかがでしょうと提案してみました。

 これを書いた後に、偶然読み始めた書籍「おやじはニーチェ」新潮社の内容が今考えていることに非常に近いなあと思いながら、その着想から今日の話を書いてみようと思いました。

 これは認知症のお話なのですが、実はしょうがいは認知症のお話にも考え方が重なる部分が大きいなあと感心しました。

 そもそも特別支援教育の現場における教える側にとってのしょうがいの合意自体がなかなか難しい。
 同じ主体に対する教育を行っているにも関わらず、その主体の掴みが同じということは現状あり得ていない。残念ながら同じではないんです。

(それを教育の特質と言うのなら認識の問題が教育の効果を決定づけることになるということだ。もしかしたらこれはなかなか新しい視点かもしれない。というすごく心の声が漏れ出てしまった。)

 これまでも子どもを多面的に見ることの重要性は語られてきたがそれが合意として在ることはあまり必要とされてこなかったように思う。
 しかしこれからは違う。今の働き方改革や令和の日本型学校教育関連通知、施策による「学校の分解」は徐々に現場を侵食してきているからです。
 特別支援教育で言うならば、小学校と中高の明確な違いがそれに当たるのではないかと思います。それは子どもを教科で分解してみることに対する可否ではないか?そう思います。これは今の教育システムで中高が明確に指導内容を教える側によって区分していることとして差し支えない。この人は地理、この人は生徒指導、この人は進路というように。
 しかしこれが効率がよく、教育的かどうか?ということには疑問しかありません。たぶん中高のセンセーにとっては当たり前なんでしょうが、それは自立や自律、知識や技能が子どもの側に伴って前提での話です。その子は社会はできるけど数学はできない。でもとてもいい子で問題は起こさない。それで多面的に捉えて教育を与えているといえるのか?ということです。もちろん干渉しすぎは良くない、自己調整力を活かして自立をサポートするべきだという話もよくわかります。それが日本の当然となったことも理解できなくはない。いや世界のスタンダードなんだろうと思います。

 しかしその時間軸による区切りはしょうがいを持った子や今の困難を伴った子どもを教育するのに適切であるのか?かなり遠回りしましたがそうした学校がつくる区切りに対する基本的な疑問がしょうがい児童の教育にはあります。
 これまでは明確にこれらは学校自体が分けられていたんですが、特別支援教育になるとそうはいかない。いかないのにそうせざるを得ない。それがしょうがいを取り巻く現場の「今」なのではないのか?そういうことです。

 なのにしょうがいについての合意は取れません。症状や特性の理解ではありません。どう導いていくか?とか集団内でどういう位置付けにするか?という未来の話です。

 戻りますが、ユートピアの話ばかりをしていても現実はうまくいきません。しかし現実の話ばかりをしていてもそれはそれでシンドいだけです。そうしたことも教育現場においては「今と未来」をつなぐことと同時に繋いでいかなければなりません。そこに例えば呼び名や制度上のことでいがみ合っている暇はありません。とにかく繋いでいくしかないからです。
 それが困難に向かっていくための行動様式だと思うからです。

 しかしながら、今のしょうがい観は話す方と聞く方でいつでもズレている様に感じます。それが現場においては非常にもどかしいわけです。さりとてそれが誰かに引きずられて一見合意している様に見える状態も危険だという困難があります。

 いつもの結論で恐縮ですが、やはりコンプラやタブーを乗り越えて話し込むことに集団としてのしょうがい観が生まれてくるのではないかと思います。それは結論がどうであれ、かなりの強度を持って成果にコミットできる教育が行えるのではないか?ということです。「チーム」というのはどれだけの無駄を共有できる集団であるかということがその基底にあると思います。無理した一致やエゴやイデオロギーで集合して目標を共有しているかの様に見えるだけの集まりではいずれどこかの段階で形骸化していくことは確実だからです。

 理想に流されながら障碍観を聞くだけの人間も、現実にもがきながらしょうがい感を話すだけの人間も実は同じことに陥っているのではないのかなぁと思った次第です。タブーかもしれないけど病気ではなく、認知症に近いしょうがいとどう付き合いながら認知症のように社会と折り合いをつけられる取り組みが存在するのかどうかをきちんと探していくということも考えられるのはないか?それが話すだけ、聞くだけとは違うしょうがいとの関わりのなのではないかな?と考えてみました。

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