運動会「指揮」が負担なら運動会をやめればいいのでは?
個人的な意見でまことに申し訳ないが、体育が好きな教員が好きではない。体育が嫌いなわけではない。体育が好きな子どもが嫌いなわけはない。体育が一番大事だと思っていてそれを他人に押し付ける体育研究熱心教員が嫌いなんです。体育をやる人とこのグループとは明確に違う。イメージ的には角刈りのムキムキ50台の男性だ。これはおそらく「体育」だけではなく己の教科ムラを偉いと思う人間に共通する(周りが抱く)感覚なのだろうと思う。
運動会を「指揮」することに価値を見出そうとする人間にはそこに共通する感覚が漏れ出すのだろうと思う。そういう人間の身勝手さには辟易する。
フォローになるかどうかビミョーだが、ここ最近私は体育の授業をするのが楽しい。たぶん指導自体に余裕が出てきたからもあると思うのだがそれだけでない。というのも体育こそ子ども個別の教科ではなく、集団としての要素が強いという風に思い始めたからだ。それは同じ動きをするべきと意味ではなく、到達点がバラバラで良いという意味で。
到達点が違うから一緒にやった方が楽しいんじゃないかと思うわけです。そのための綿毛方式であり、そこから生まれる平等という実践の中に「子どもの楽しさをみてとれること」があるからです。そこにはこの技ができなければならないとか何メートル泳げなければならないとか、何秒で走れなければならないという規定がない。純粋にどうやってその授業を楽しむかということに注力し切ってしまっても学習指導要領には抵触しないし、先の人生においても「教授では及ばないこと」が子どもの成長発達の障害物にはならない(方が圧倒的に多いと考える)からです。
逆説的に言えば体育の授業などにはその程度の価値しかないと考えるわけです。(これは誤解される物言いだなぁ)しかしそれこそが私からすれば教育の最大の価値だと考えます。
さればこその「体育は楽しい」です。
おそらく運動会「指揮」は私のこの感覚とは逆行する仕事です。
・勝ち負けをきちんと公正に規定する。
・時間通りに齟齬なく運営する。
・保護者との断絶のもとに「授業」を維持する。
・見栄えの良い形づくり(体育としても生徒指導としても)をして子どもを管理する。
・これらの要素のもとに親に安心感を与えるために教職員をきちんと管理する。
今の時代そんなもんが必要なのかなぁ?ということです。コロナでの運動会未開催を経てそうした「教育的価値」にはエビデンスどころか存在価値がないんじゃないかということは当時よく言われたことです。同時にコロナ以前の取り組みを再び行うことがコロナを克服することだというような真逆の意見もあります。(この間取り上げた木村泰子さんらのいう運動会は憧れを見る場所という意見もここに属すると思います。)
どちらでもいいのですが、単純にもし「指揮」が負担だというのなら辞めてしまっても現場は全く困らないのではないかということです。そうした統括することに価値を見出すこと自体が運動会の価値を低下させているのではないかというのは私が強く考えることです。
指揮・統括するというのは決め事をするということです。もちろん決まり事は学校が組織である以上当然必要であると考えます。しかしながらそれはみんなが幸せ(安全・安心・平等・公正)になる決まり事であるかどうかということが考慮されているのかが前提として決められていてのことです。配慮のない決め事になってしまっているのが運動会の現場なのではないか?という疑問が私にはあります。教育現場でありがちな「〇〇のための〇〇」が漏れ出している。この場合は管理を管理者にとって円滑にするのための管理、指揮を指揮者が円滑にするための指揮という運用が起こって、結果みんなにとってそれが負担になっているんじゃないの?ということです。
負担だから辞めてしまうことに異を唱えたことが何度もある立場としては、そこの唱えるための線引きには言及しなければならないなぁと思いますが、今のところ「なんとなく」運動会の指揮・統括は負担ならば辞めてしまえばいいんじゃないの?ということです。
もう少し突っ込んだことを言えば、そういう決め事をいくら作っても今の学校現場の成員は、それは教員も保護者も子どもも、決定的に守れない・守れない人間が一定数います。それには事情があることは斟酌できるにせよ、正直に守る人間が我慢を続ける構造というのを正常と考えること、そういう構造を提供する側にいることには違和感しか感じません。
そんなことするくらいになら守れる人間も守れない人間も気持ちよく過ごせるような形に運動会の方がスタイルを変えるということが健全だと考えるわけです。なぜ前例踏襲を否定する人がみんなが我慢しなければならない運動会に引きずり戻そうとするのか理解できない。そういうことです。そんなに「旧来の運動会の価値」は高いのでしょうか?