教育における主体性の正体 #5 教師の働きかけとは?
だいぶこの話が長くなりそうなので、前段に結論への意図を書いておきます。自分が行き先を見失いそうですから。
現時点の学校教育で明確に評価の対象となっている主体性は現状の「やる気」という見方でよいのか?
そして主体性を高めることが学習効果と成員平等に連動するためにはどうなる必要があるのか?という2つの視点から突き詰めてみようということです。というわけで、
教師としての働きかけと権力
ここで問題になるのは教師の働きかけは全て権力的な範疇の中に入ってしまうのかということです。
学校現場にもさまざまな種類の権力が存在することは前回述べたとおりですが、差し当たって教師の働きかけに限定することで随分話は単純になります。
宮台は組織が権力にまみれた場合、生産性は高まらないと言いますが、では日本型学校教育の現場でこんなにも生産性が高まっている理由は一体なんなんでしょうか?
私の見立てでは、教育のクラスルームにおける単純な質だけでいうなら30年前より今、20年前より今、10年前より今です。
特に私を含めた「並」の教員の生産性、それはつまり指導力に当たるとして見ても、かなり高まっているということを感じます。教師のよる教育的な関わりは常にアップデートされているということです。
これにはさまざまな要因がありますが、これほどブラックだ人が足りないと言われながらもただの個別の自己変革だけで質を維持するだけでなく、向上させているのはある意味驚異的だと思います。
もしかしたら教育というシステムはある一定のラインを越えるとそういう作用が勝手に働いてしまうシステムなのではないかと錯覚するほどです。(いや、たぶんそういうところがあります。)
さて本題に戻って教師の働きかけを権力として見るかという話なのですが、主体性の可視化としての権力を見る場合だけにとどまらず、日本型学校教育システムを見る場合ある意味大きな前提となる視点があります。それは教える側にとって権力は必ずしも必須条件ではないということです。教える側は権力を土台にして、権力を前提として、常に権力行使者として存在しているわけではないということなんです。このことをはっきり言語化している大学教員を寡聞にして聞いたことがありません。権力はそういう個別な事情を言語化する概念ではないと言われればそれまでですが、教えられる側から忖度する作用があったとしても、それが教員にとっての事実であるならばこのことはしっかり言語化しておくべきでした。そうすれば昨今の「不適切」という意味不明の概念設定による無用な混乱は回避できていたはずです。それほどきちんとモノを言うことは重要です。
権力の行使者に話を戻せば、例えば子どもが学校に行くのは教師に権力があるからではありません。ここでは子どもが学校に行く要因には確実に個別性が存在しています。学校関係の権力によって登校している場合もありますし、それこそ主体性によって登校している場合もあります。宮台の言うように二者間の単純な権力関係ではなく、少し複雑な選好が伴うもの(行った方がいいことがあるみたいな話)とか保護者の権力や子どもの忖度、家庭の事情、友だち関係の権力や作用もあるでしょう。それと同様に意図する、しないに関わらず教える側は権力だのみの教育活動をクラスルーム内で展開していないということです。
特に昨今のコンプラ全盛、権利や不適切によるマウントという弱者道徳が幅を効かせる社会では権力を丸出しにして行動することにかなりの危険性が伴うことは、それこそ子どもにだってわかります。
しかし権力が全く不要で、クラスルームで作用していないかといえば、そうではない。確実にどの場所にもあって、静かに作用しています。在るか無いかを問うより教育的に効果的かそうでないかを問う話になるのだということです。
しかしここで難しいのは、権力が見えない人間による亡きモノにする恫喝と権力を正確に理解できない人間による妄言です。実は権力を可視化するときに一番の抵抗勢力はこ奴らになります。こ奴らはやり過ぎて教育活動の延長で犯罪行為を起こした挙げ句自分の行為を教育的に意味のあるものであるかのように強弁します。
もう一つは教育的価値観のモノサシについての話です。これはさらにややこしい面を抱えているので、さしあたってここも主体性への関わりのあたりに限定してみたいと思います。
主体性への補助線と言えば良いのでしょうか?
働きかけが権力的な作用と決定的に結びつくかどうかはその働きかけの主体がなんらかの権力もしくは権力と感じているものに対して被評価者として自分を献上する用意があるかどうかにかかってくると思います。マインドセットと言ってしまえばそれまでですが、やはりそこには先に述べたような権力に対する正確な理解と寛容の眼差しが必要だということなんだと思います。少なくともそうした権力を感知する力が主体性を見る新たな角度だとして話を進めていきます。