附属学校の先にある絶望的な教育の未来

これまで私が指摘してきたことのまとめ記事であると思うのだけれども

 附属学校で際立つそうした教育現場の矛盾についてはいつも書いているので今日はさておき、ここで語っておきたいのはそうした教育の先に何が創出されるかということなのである。

 前提として附属学校に声のかかる教員というのを選定している人間というのは確実に存在する。これがものすごくマズイ。こうした採用側の無能なだけの人間には異質を混ぜていく発想がまるでないからである。能力はなくても人格的に相当安全であればそれで良いと発想をする。それは教員採用試験や管理職選考試験でも自然と行われる発想である。これを前例踏襲と言わずしてなんというのかというほど見事にそうなってしまっている。特に管理職選考試験は人畜無害で「無能な」人間をテキトーに選ぶ場になってしまっていることに選ぶ方も選ばれる方も危機感を感じた方が良いのがここ10数年の状況である。口の悪い人が「お地蔵さんを選んでおけば良いのに」と言ったときは我が意を得たりと膝を打ったものである。

 附属学校に行った人間は自分がそうした人間のおメガネに叶う人間になってしまっていることを嘆いた方が良い。それがただの人事交流であったとしてもその時点でたとえ消去法であってもそういう枠に入れられたということだからです。残念ながらそうなってしまった人間が主軸になって語られる「教育」には一般性がない。少なくとも個別の「学校組織」にはない。それは私が学校において浮いてしまっていることを実感するにつけ思うことでもあります。しかしそんな私でも全国の(一応選ばれた)教職員と語り合う機会の中では一般性のないラテラルな環境から生まれてくる合致があることをここ何年かで経験することができました。しかしそれは条件がそろった上での心理的な安全性が用意された場面での非常に稀な出来事であり、フツーの学校の多様な教職員構成の中では一般的には起こり得ません。それはその場での理論的な深まりがないことにつながっていく。その多様性のなさは昨今の附属学校が語られるこうした記事のような言説と一致しています。この広がりのなさは固定的、画一的で発展性のない集団を形成し、再生産し、日本の教育実践研究をダメにしていっているのではないかという事です。

 私は自分が理論的にも、職業的にも、採用される必要はないと思っているけれど、どこかで経緯としてこうしたエッジのきいた独学の無手勝流である人間にも声がかかり研究の深まりにグリップできるチャンスがないと教育が実践としては深まっているのに、研究としては全くダメであることを見事に創出するに「日本」になってしまうということになると思います。多様性の重要性を語りながら日本の研究にはそうしたことが受け入れられる余白が全くない。老害に好かれる金太郎飴しかいない場所であるということです。そしてその金太郎飴がまた老害になり、人畜無害で「無能な」若者を採用して収奪することを繰り返していく。アカデミズムに入り込むにはそうした経路を通るしかないことが結果をさらに深刻にしているということです。それは教育実践の研究の現場においても同様です。

 例えば国語しかできない人間が偉そうに研究会を主催していても日本の教育全体には何のグリップもないわけで、それは世界的に展開することもないわけです。それが日本語でしか書かれていなかったとしても教育の深い部分について論述されていれば価値の展開もあるし、援用の仕方はいくらでもあるので研究対象としての広がりの可能性があります。
 どこかでも書いたと思うけれど日本の、とりわけ高等教育の、国語教育研究というのはそういう意味では物語的な要素しかなくて、説明文としての精度は全くないということです。それは日本語という世界的にはシェアのない言語であるという意味だけではなく、教育としてコミットする価値のない「道具としてas tool」という思考とは分離されてしまった研究手法だからということだと思います。誰あろう国語教育をそういうものにしてしまったのは、枠組みを決めてしまった国語教育研究者であったということなんですけれど。自由な広がりのある文学としての捉えを作らなくしていっているのは特に初等教育での国語教育研究に対して口出しをしてくる中高の教員やそこ出身の実務家教員、文学部くずれの教員養成系国語科大学教員たちであるということです。

 こうした研究のダメさ加減はどんどん大学を潰していくのだろうし、

中高はどんどん通信制に移行していくのだろうけれども

 そこに初等教育の凄みというのを一つのことしかできない人間の弱みが感じなければならなくなるのだろうと思います。
 壮大に話が逸れてしまったのでいずれどこかでまた論じることになるだろうけれども、それは「一つでは多すぎる」ということです。

 附属学校という選民意識がこうした教育を形作ることは致し方のないことなのだろうとは思うけれど、こうした人間が教育実践に対してコミットすることは百害あって一利なしということをわかっていなければならない。そうなることは多様性の側面からあっても良いけれどそれが全てになってはならないし、そうしたことに対する批判は彼ら彼女らの無邪気なロジックの圧以上の強さを持って対抗していかなければ、それがさも善であるかように伝わってしまいかねないということです。

 そしてさらに問題なのはこうしたところをドロップアウトしたり、卒業したりした人間がその後のキャリア形成の中でさらにそこにいる教員をダメにすることに積極的に加担していることにもあるんです。何度か出会ったことのあるスクールカウンセラーや非常勤講師や大学教員くずれにもそうした人材がいたのだけれども、それらは皆ルサンチマンの塊のように捻くれたものの見方をしてそうした枠組みや疎外感に対して露悪的とも言えるぐらい悪態をつくだけのような実践を形成しがちになります。そうした毒気に触れることだけでは一切建設的な問題解決にはなりません。ただの評論と悪口にすぎないからです。論理的でもなければ学術を生かそうとする気のない感情の発露であるだけです。

 立場が人をダメにしているということがあるようにそうした人間に影響されてしまう人間というのも同様に他者をダメにしていく、しかも本体より小粒なのに偉そうになってしまうという不思議なアノマリーが確実に存在するから困りものです。木村泰子さんの取り巻きである学校マイスターとやらがありもしないことを書き立てることや宮口さんとこの大学院生が自分の職探しのためにコグトレを売り歩く様をみると実際にそういう人間を許してはいけないということ。

 常に考えているのは自分がそうした側に立つことなく、学校教員のために役にたつ「つまらな」くて「新しくない」「愚直な精神」を語り続けられるかということです。そしてどっちに転んだとしても附属学校出身であった人間に対して、同様に自分たちで勝手に枠組みを作ってさもそれが成功しているかのように騙る公立学校出身の人間に対して、それらの圧よりも強いカウターのインフルエンスを発揮しなければならないということなんです。

 附属学校に行けばいい未来が待っている、そんなことは子どもにも保護者にも教職員にもない。確実にない。あったとしてもそれは偶然に過ぎない。少なくとも私は公立学校教員として日本中の附属学校の教員の誰一人に負けているつもりはないし、ロジックとしても同様である。そうした人間が公立学校にも多数いてそれでもうまくいかないことがある。
 附属学校の教員が自分たちだけが被害者のように振る舞ったり、エリート意識を振りまいたりすることに違和感しかありません。そうしたインフルエンスには徹底的に対抗していかなければならない。
 そういうことです。一円にもならないけれど・・・

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