自由進度学習という無限ループ
誰か止めてあげないのかな?
若手の話し合いが早くもそういう子どもをどう育てるかみたいなツボにはまっている。それは教育の前提であるハズなのに。
その学習方法がどういう結果になるかは誰にも分からない。あるのは授業者の意図だけ。もはや芦屋の教員にはその合意すらないらしい。仕事時間中に集まって何をやってんだか?
一つ断っておけば、自分の授業が下手だからという理由で別の視点を模索するのは逃げでしかない。なんとかしようとする態度には敬意を表するがまずうまくなることが先じゃない。基礎基本がないがしろにされて久しいけど、ものには順があるというのは基本のキだと思う。
せめて今の目の前の子ども全員の学習にコミットできるようになってから新しいやり方に挑戦しなさいよ。
自由進度という発想自体がそもそも教育がわかっていない。自由は平等との対立にその真価を発揮する概念だからである。人文科学の世界では自明である。
であるなら環境整備ではないやり方を模索した方がよい。環境整備は平等への準備だからである。環境で教育をなんとかしようとする取り組みがこれまでなかったわけではない。
教室環境整備やオープンスペーススクールの実践はその最たるものである。しかしこれは思った程効果がなかった。それを忘れた無能な大学教員はICT用の机などという馬鹿げた妄想をやらかした。何でもやりゃいいってもんじゃない。そういうのは学生さん用にとっておいてやれよ。小学生の自由研究レベルです。
そういう知見があったことも知らなかったのかもしれない。さほど教育工学の研究者というのはモノを知らない。彼ら彼女らの授業に対する研究というのは、非常に方法論として迷走している。そもそもこうした人が助言者として登壇してなるほどと思ったことがない。
これまでも物を知らんが、時流に乗ったせいで無駄にする必要のないICT関連の機器の予算において何百億単位で無駄をしている。自分たちはケインズの真似事でもしている気なのだろうか?
草葉の陰でケインズも泣いている。こんな連中と一緒にされてはたまらんだろう。
それたが環境と教授の間柄というのは明らかになっていない。たぶん日本の教育においては私が一番真に迫っているのではないかと夢想する。手前味噌ながら。「かくれたカリキュラム」をかなり高度に理解していなければ、そしてさまざまな学際的な教育の角度がなければ、そしてエピソードまみれの30年の実践がなければうまくいきっこないからである。単純に日本に0歳時から30歳超まですべての教育方法、教育形態に携わった人間は数えるほどしかいないはずである。専門職としては。
東大生を三人育てたというのは環境ではない。その環境が整っても日本人全員が東大に行けるわけではないからである。むしろその環境から不登校になる可能性だって大いにあるわけで。まあ東大行くのが幸せかどうかなんてもはや話題にもならないくらいどうでもいいことであるのだけれど。教育環境はそんなくだらないことではないから。そもそもの日本の国力とか犯罪者の発生とかそういうことに関係してくる。
それるが今の日本人のオリンピックの見方は正しいのかということもそう。見る作法として、それに意見表明する作法として、意見表明に意見を述べる作法として、報道する姿勢としても。本来そうしたことを真っ当に語ることができる場は人文科学の持ち味のハズである。
しかし日本の知識人や言論はそういうことに対して力が発揮できていない。そんな人間が天下国家を踏まえた教育の話などできようはずがない。スポーツは教育環境の範疇だからである。文科大臣がサラッと言ってもおまゆー感に溢れる状況に何の意味もない。もう少し深い知見を持ってくれ。そういうこと。
壮大にそれたが自由を推し進めるように見せかけながら結果的には平等な今までの教育形態を引きずるならこれまで何の変わりもないということ。愛知の緒川の実践だってそういうこと。全く普通の学校とやっていることは変わらない。自由進度だけどレールは同じレールの上を走ることしか許さない。しかももっと酷いのは教師の用意したレール以外は一切認められない。一時期かますびく議論された自己責任論の発露である。
これは新しい教育として着目すべきものなのか?それは今までの学校でも教え合い学習とか習熟度学習とかという形でやっていて打ち捨てられた「なかったことにされた産物」でしかない。緒川は「雨が降るまで踊り続けた雨乞い」に過ぎない。それはそれで敬意を表すけど。
こうした形で自由進度という言葉の意味も全く考えずに新しいこと取り組んだ気分だけを共有することは教員の学びの形としては不適格だと思う。なぜならこうしたことに関わった人間が教員として「評価されるシステム」そのものに採用されるからである。
言い切ってしまえば、こうしたことに関わる人間は教育センスに欠けるということ。関わってもいいが「正しい」形で関わることができたどうかということを評価ポイントにしなければならない。上っ面だけなぞって勉強した感を出すのは小学生以下の所業である。小学生はそれでもよい。他の学習に活かせるし、そうした感覚が学習そのものに効果をもたらせるから。
重ねていうが、こうした若手を学んでいる若手として必要以上に評価することは良くない。何度も言うが「正しい」評価が必要。正直言って今回の報道で取り上げられた人間は緒川の研究主任も含めて良くない。教材の使い回しに言及しているからである。教材はワークシートも含めて極力使いまわすべきではないと思う。同じ学校の同じ学年であってもクラスによって学び方が違うからである。簡単に言えばインスタント食品は素晴らしいけれども避けられるものなら子どもには避けた方がいいよねと言う話と似ている。食べたってそれなりには育つ。それは間違いない。腹ペコよりは絶対マシ。しかしである。手間を惜しんだ結果は必ず後々響いてくる。子どもにはこの後々を考える目がない。今が良ければいいからである。そこと戦うのが教師の役割ではなかろうか?子どもの要望にだけ沿うことは毎日ソシャゲとYouTubeをしてカップラーメンとポテチを食べ、コーラを飲むようなもんである。
今子どもも保護者もこれを堂々と主張してくるのである。これは大人の側の責任の下に突っぱねなければならない話である。特に低所得者層にその傾向が顕著なのは苅谷剛彦が指摘した通りである。他の文科省の調査というのはそれの焼き直しに過ぎない。今回の学テの結果に対してもそうである。特に都市部の低所得者層というのは非常に困難である。大都市圏が学テの成績がよくないのは教育のせいはなく、都市部が抱える課題の割合の問題であることに言及しない知識人のそこが知れる。
自由進度は結局、認知能力と非認知能力の間を無限ループするだけの話である。教育に資することは多くない。自由進度が一般化すればそれは一斉授業の一形態になってしまうことがやる前からわかっているからである。いずれ打ち捨てられることがわかっていることに現場の教師は基本的に参入しない。経験則で年嵩の人間がそういうところに嗅覚が効くようになっている。ものを知らない人間のブレインストーミングとしては良いかもしれない。それは練習問題であるということ。ブレインストーミングは時間潰しの一手法である。これを使う研修講師は私はすぐに席を立つ。付き合うだけアホらしい。時間潰しのマウント取りで講師謝礼を受け取って恥はないのだろうか?
結論。こうした無駄に時間と労力を使うことが教員の労働時間を延ばしている。「子どものため」という言葉の罠をもっと真面目に考えよう。少なくとも教員間での話にこの言葉を発しないようにしなければならない。昭和的な発想なら罰金ものだが、これも息苦しい弱者道徳の社会ではそうもいかないのだろう。深く考え、対話することもなく結論だけを探求する姿勢が教育を滅ぼすのである。現場に蔓延するマニュアル主義である。
できてるつもりピカピカ教員が吐く罰金モノの言葉。
「結局どうすればいいですか?」
自分で考えなさい。