寄り添うのとおもねるのは決定的にちがう 学校編
ひさびさに言われてしまいました。
学校に来れないことをどうしたらよいか?という話し合いをしてました。もうどうしようもなく学びから逃走していることに対しての手だてを考えているときのこと。
ポロっと、というかほぼ確信的に「先生のお力で学校が楽しくて来たいと思える学びをつくってください。」と軽々しく(そう見えた)言われたんです。
久々におっと思いました。そもそもそれは自明。そしてすでにクラス人数分の成果も出ている。さらにそれをカスタマイズしろとおっしゃる、それも非常に個人的な部分にまでその効果の範囲を広げてまで。それを命令にて。
これは別にそう言った人だけの考えではなくて、今の日本人は、文科省も含めて教員に対してこう考えているということです。仔細は書けないけど、ニュアンスで我慢してください。怒ってます、珍しく。珍しくもないかな?
何度も言うけれど日本の教員はやれることはやっている。人によっては非常に過度に。それに対して軽々しくそういうことを言うから、やりたくないとかやめたいとかいう話になるわけです。正直やってられない。
もしこれを企業にたとえるなら1万円のコストがかかっている商品を五千円で販売しているようなもんです。たとえ満足があっても商売として成り立たない。それが日本の教育の凸凹の正体です。それがショーバイではないことはわかっている。経済効率ではないこともわかっている。しかしそこに十分な予算が投入されているかどうかの検証が個別になされたことはこれまでの日本の教育の歴史上ないんです。ざっくりとは行われてたふりが過去にあったとしても。凸凹は内部で起こっている、内部で個別に調整されている、不平等に。平等なのは給料だけ、それ以外は全てが凸凹している、個人的な事情で、(教育委員会制度の)権力の配分で。真の平等は難しいので仕方がない、しかも教育はフタを開けてみないとわからない。しかし起こったことや過度な攻撃、プレッシャーに対するウエからのサポートはない、ウエはウエで私腹や影響力の増大に忙しいから。
そこから考えねばならないことが働き方改革やウェルビーイングであるはずなのにそれすら労働組合や大学教員の勢力拡大の道具にされてしまっている始末。
これではそうした「おもねりなさい、おもねられるだけ、とにかく」という強制にはあながう術はありません。しかも立場が弱ければ弱いほどいかんともしがたくなる構造なのです、サイクルなのです。今学校にはこういう構造やサイクルがかなりの数用意されてしまっている。当然のごとく教員のなかでも自分だけでも生き残るためにやむを得ずサイクル維持に荷担している大勢が存在するわけです。悪気なく。
それを子どもに寄り添っていると勘違いさせられている、勘違いを強要されている、勘違いが正しいと論理立てている筋がいる、そういう構図です。私は少なくともそういうロジックを垂れ流す人間が許せない。
さきほど私に、おもねられるだけおもねって、(つまり土下座してとかお茶菓子用意してでも)学校に来ていただいてくださいというハナシが平然となんの忖度もなくできる人間ということなのでしょう。保護者と子どもに配慮してさえすればよいという職場が労働者を確保できるわけがない。今の状況はそれを端的に示しています。
そんな人間のいうことが労働として成立してはならない。それは言論の自由にも当たらない。日本の教育のためにならないということをはっきりさせておかねばならないということです。そんなことをクチに出す人間がいても私個人はなんとかなるということではない。それがあとに続く若手のためにならない、これから日本の教育に参加する子どもや保護者のためにならない、そういうことです。
受験とか英語とかプログラミングとか以前に教育ということに参画するための最低限の「努力と我慢」ということなんです。それをしないことを公言する人間が多すぎる。多くは求めていないことが前提であるのにそうしたことを認めることが合理的配慮であるかのように言ったり、不登校を解消できるかのように言ったりするナカの人間(教師や保護者、大学教員、文科省)というのは厄介です。内なる敵というのはこういうことを言うのでしょう。
しかしこうしたことというのは言い換えれば、合理的配慮で生まれてくるものでも、不登校対策で芽生えてくることはない。ないと断言しても良いレベルです。天は自ら助くる者を助く、よく言ったものです。本来助けが必要な人間とそうでなく自助が必要な人間がごちゃ混ぜになっている。それは日本人が食べてもない国産偽装問題で返金に殺到したことからもよくわかる。峻別とかそういう話でもないレベルで主観的に分ければ良いだけの話です。
となると視点としては主体性ではないか?主体性は誰かが用意してくれるもんではない。本人がたとえ0.1でも出さないことには、0を他人がなんとかすることはできないんです。それをなんとかするには体罰を励行しているということになってしまいます。ならざるを得ない。それがそれをクチにする人間の無体であることぐらいはせめて自覚してほしいということです。
はっきり言っておきます。
教育において寄り添うのとおもねるのは、天と地ほど違うということです。教育においては働かない奴ほど口では偉そうなことを言うというのはあるあるです。
やりもしないことを偉そうに論じるな。そういうことです。