初任者への仕事の与え方
そもそも与えるという時点でだいぶん不遜ですね。
私はそんなに偉くないです。(今日はこないだいただいたコメントへのアンサー的な思考の展開の言語化です。)
しかし学校管理職や指導主事はこの件に関してはもっと偉くない、初任者に対してはそう考えるべきだと私は思います。なぜならこうした人間は初任者「指導」に対して直接的な責任を負わないからです。もちろん管理においては責任を負いますが、とりわけうまくいかない理由は本人や教員に丸投げです。手柄は一人占めは自明。
実際になかなかうまくいかない初任者に対してなんとかしようとした校長を見たことがあるんです。まぁ笑えました。こいつ授業が下手なんです。下手というレベルですらない。
一つには長いこと授業をやっていないとうまくできなくなるもんです。長い休み明けにはいつも思います。「うわぁ下手になってる」と。同時に思います。「なんか違和感の中に新しい芽が出てる」と。よくミュージシャンが活動休止した後に華麗に復活するところ(最近で言うとMrs.GreenApple)に非常によく当てはまります。違和感が新しい自分を作ってくれるんですね。
管理職になる人間は、往々にして授業を台本でやりがちなので目の前のクラスの状況に合わせられないということもそう見える理由でもあります。それ以前に一度崩れたクラスルームを立て直すことがいかに難しいことか理解できていない、もしくは自分ならできると思い込んでいるという無知の極みを曝すわけです。
余計悲惨な状況になったのに、その校長はそれはクラスの子どもが、クラスづくりが悪いんだという結論を吐いたときはさすがにどうなんだろうと思いましたが・・・
そうした人間は立て直しに手を出さない方が無難です。それは教育委員会指導主事も同様です。そうした人間が学校管理職をやっている学校は教職員が休みがちです。具体的な事例もあるのですが言えない(書けない)。かといって事前の段階で何でもかんでもすぐに手を出しちゃう管理職もあまり良くない。これは以前どこかで書いたはずです。
それましたが、教育現場が初任者 つまり初心者に優しくない職場構造でないことは明らかです。マニュアル化することが善ではないことが前提であっても見て盗めというからにはそれなりの失敗が許される前提がなければ立ち行かないからです。
実際私が初任者の頃もそうしたプレッシャーにさらされたことはあったように思いますし、その後の潰れていった若手も見ていてもそうした状況が悪い方に作用したということは否めないと思います。もちろんそうではない場合もあって一概にこうした構造だけが悪いというわけでもありません。常に相談できる窓口があれば解決できるという話でもないからです。
このショーバイをしていて思うのは子どもであれ、大人であれさまざまな性格の人間がいて、本当に多種多様なものの考え方・感じ方をするということなんです。それが道徳的にさすがにないだろうと思うようなことでも平然と乗り越えてくるような自己中心性を発揮する人間が割と相当数いるんですよね。
この辺が日本に住んでいても違和感のあるところです。道徳的価値観で一致できるポイントで正義を確定できるということを言うマルクスガブリエルの哲学的な立ち位置にイマイチ納得できない理由はここです。
今の現代日本社会には、保護者の都合で虐待しておいてそれを結果的に容認するように学校側に求める保護者が一定数いるからです。つまり自分の行っている行為は虐待ではないと言い切ってしまいます。しかもその理由の部分では問う度に自分の感覚であったり、生活の困窮であったり、制度の不備であったり、学校のせいであったりと言った言い訳をループさせるわけです。そうした人間には最後に必ずお決まりの文句があって「自分は悪くない」ということなんです。誰がどのように悪かろうと、どういう状況にあろうと最後には自分だけは悪くない、これだけがその人間にとっての絶対的な道徳的価値ということになります。誰もそんなことを一回も投げかけたこともないのに・・・個人的に感じたと言われてしまえばそれまでです。
そうした個人的な感覚の人間というのは学校現場には、教員にも、子どもにも、保護者にも、地域にも、日常的に存在するんです。
それた話がずいぶん長くなってしまいましたが、人間を相手にしていく以上こうした個人的感覚についても対処する必要があるわけです。
というか昨今の学校を取り巻く状況というのはこうしたことを前提にして物事を進めていく必要があります。それが初任者に対する接し方(同時に初任者が外界と接するときも)であっても同様であるということなんだと思います。
そうした前提を認識させつつ、そうした違和感を意識させない つまりストレスフルな状況にしないで教師としての素養を見出して、引き出していくというのはなかなかに難儀な作業だと言いたいわけです。この結果が障害物があるたびにスルスルッと綺麗に逃げる技だけを身につけた責任回避型の教員の集まりになってしまったことに対し批判的なことばかり指摘してしまっていてもいささかも問題は解決しない。さりとてそうしたことがなるべく起こらないように育成を行うためにはそうしたゲンジツから目を背け続けるわけにもいかない。
何より現場はその日その時の教育活動を止めるわけにはいかないからです。それが人材育成であろうと後進指導であろうともです。こうしたアポリアを抱えたままただただ惰性の掛け声(OJTとか初任者指導担当教員配置とか研修充実とか)だけで大量採用の教員の育成を放置した都道府県というのは特に大都市圏に多くあったわけです。ここ10数年継続してきた話です。
今ここで志願者数が減少して倍率が下がっていることに危機感を抱くことは実は新しい課題設定の仕方ではないだろうと私は考えます。
今初任者にどういう仕事を与え方をするのが一番適切なのか?さまざまなアイデアはあるけれど、どれが一番いいのかは正直今の私には答えられません。
個別的な問題であるからと逃げる以前にこれまで挙げたような困難を私自身がしっかり認識してしまっているからです。それはお前考えすぎだよ、とおっしゃられる向きもあろうかと思います。しかしそれがたとえ教師なりたての素直な若者であったとしても教師集団というのはかなり厄介なナマモノであるというのが、それに対峙する私の率直な実感です。一筋縄ではいかないとても難しい一個体な訳です。
教育というのはなんであれ、かくも奥の深い不可思議な存在であるわけです。さればこその面白さもあるわけなんですが・・・残念ながらコメントへのアンサーにはなりませんでしたね。申し訳ありません。