探求学習を取り入れ、AIによる評価をする結末

 企業が金儲けをめざして研究するのは良いと思う。勝手にどうぞ。カイゼンにはさまざまな方向性があると思うが、学校組織のカイゼンにはつながらない。探求学習そのものが学校の活動のなかのほんの一側面にすぎないからだ。

 調味料は主食ではない。
 働き方改革のなにをどういじっても仕事量が減らないと同じです。では、といって無理矢理減らすと行政改革のように信頼感とサービスの質が急激に下がってしまいます。こうしたように耳障りの良い文言に合わせて制度設計するなどということもやってはいけません。
 たとえば木造建築が子どもの体のためにも、安全のためにも良いからといってもそれは広がりはしなかったし、学習という本筋からズレたことをしても学校としての価値は上がりはしないからである。同じことを万博でやってるから笑えます。

 数理の力はよくわかっているつもりだけど、所詮参考書にしかすぎない。数理は実学においては教科書にはなり得ないということです。もちろんどんぶり勘定をカイゼンするために世界の産業界でセールスマン問題などが有効な役割を果たしたことは承知していたとしてもそれは単純にコストカットと効率化にしか貢献していないからです。
 本質を高めることにはつながらない。残念ながら日本の中小企業ではこうした数理の基礎すら導入されていません。それはあまりに細々とした実業の場合、数理では劇的に効率化できないという難点があるからです。それなら凡事徹底した方が良い。数理では難解さもふくめてコストに見合った成果が期待できません。それは学校教育においても採用できる視点でもあります。だからAIだというのは今の財界の夢想そのものです。それ以前に実践という言葉が示す通り、データに基づいて「何を」「どう」やるのかが重要だからです。これはデータ、AIが決める話ではありません。
 こうしたことについて筋のよくない大学教員が先導するなら、なおさらうまくいきっこありません。広がるわけがない。導入実績をうたっていますが、数字が不自然です。全国小中学校2万校を母数としたとしても何だかおかしい数字の組み合わせになっています。都道府県数と学校数で採用の割合が合っていません。これでは秒でデータを意図的にいじっているのではないかと疑ってしまえます。しかもここには繋がりの強い高校が入っていることは容易に想像できます。生き残りに必死な高校教育とそうでない小中では目新しいだけの探求へのコミットには差があります。
 そして今の中等教育は評価の事しか考えていません。形成評価が再注目されるようになったこと自体が教育評価研究の貧弱さを物語っているし、それで自分たちの価値を証明するしかほかに方法が思いつかないのです。その余裕もない。

  
 こうした評価を、心理職では見立てとかいったりしますが、教育実践に単純に援用するのが難しいのは、教育実践には「あえて」という手法があるからです。
 たとえば「真似っこ」(模倣)できない子どもというのは絶望的に学習効果が低くならざるを得ません。そういう子どもに対して教育者は視覚提示を使いたがるのが世の常ですが、私はあえて言語化で押します。いつもではないですが押すときがある。それはその方が将来的にはよいであろうという多角的な判断があるからです。それはどんぶり勘定といわれてしまえば返す言葉もありませんが筋違いです。
 こうした筋違いは過去に「這い回る経験主義」という大学教員によるレベルの低い指摘ですでに具現化しています。研究者による実践への指摘にはこうした過ちが非常に多く混ざっています。昨今の不登校に対する指摘などには笑うくらい多いです。一つ一つ反論してたら一年先までハナシのネタに困らない感じです。その低レベルに税金が投入されているのかと思うとアホらしいですが、この低レベルは巧妙に高レベルの研究を隠れ蓑にしています。それは高レベルの研究者による同族に対しての甘やかしもあるのですが。
 それたけれどそうして結果を見越して選択的にオーソドックスではない方を選ぶことが教育実践の中にはあります。
 選択的に無視すること、選択的に叱ること、選択的に教材や発問を易化(難化)させること、その選択的には普段は選ばないような手法をとって効果を最大限を越えさせていくというマジックのような取り組みです。そもそも教育活動というのはその活動の全てが直接的な効果に即時的につながることを指しません。その時は役に立たなくても後ほど効果を発揮したりすることやしなかったりすることが入り混じっていることで実践となっているからです。逆に全部の思惑が全て作動したらそれはそれで恐ろしいことが起こります。どうせ全部が有効にはたらくわけではないのだから、こうしたことを混ぜていくことで濃淡を聞かせることで教育効果が上がることも期待できるというものです。
 こうした教員が持つ選択性のマジックはこうした評価による可視化では表には出てきません。あるのに見えない、もしくは下手くそな可視化しかできない、そういうものなんです。きちんとその場に応じた適切な言語化ができないし、その時点で周囲の状況や将来的な予測との隙間を可視化することもできない。何ならこのAIはそうした隙間をバグとして補正してしまいかねません。それぐらい数理モデルではこうしたラテラルシンキングは異物として扱われてきた経緯があります。評価の問題は個別を一括りにして見えにくくするところです。それは効率化というメリットのためにそうなっているのだけれども、評価においてはそればかり目を向けると「見ているけどなんも見えていない」というただの無駄を発動することになりかねないわけです。一体的にそういうパッケージングにしたのがこの「探究力測定」だということです。

 そうであるならこの手法の行き先はこれまでの教育実践が作り上げた手法に叶うはずもありません。助けにもならないし、まして教育実践を底上げすることなど夢のまた夢です。

 教育における「評価」と「可視化」にはそうした一律が無理な部分が確実に存在することを理解する方が良いのではないでしょうか?

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