指導を減らせば登校が増える。それでいいのかな?

 学校に来るということはどういうことなのか?不登校を語る上で欠かすことのできない視点であると思う。という書き出しで始まったの書き物をリライトしてみようと思う。というのも現在いくつかの学びの多様化学校が開校しているのだけれど全く賛同できない。それはもはや学校ではないからである。少なくとも日本型学校教育としては機能しない。もちろんすでにこの枠組みから離脱している学校があることは承知している。誤解なきように言っておけばそれは良い悪いの話では無い。「違う」と言っているだけの話である。
 申し訳ないけれどこれを読んで学校礼讃と思われると困るのではっきり申し上げておく。個人的には学校が嫌いである。もちろん先生も嫌いである。あえてそれをやっているのである。これまで自分は先生として好かれようとしたことは一度もない。結果好かれたことはあっても。それはマニュアル本にすら書いてあること。そうした底浅い話ではなく、個別の教師のマインドセットの話ではなく、国家の学校システムとしての話をしている。
 国家の学校としての役割は、少なくと果たされなければならない。それが不登校者や特別支援教育対象者に『だけ』(ここ重要)焦点化されて設計されることには違和感しかないということである。そうした政策があることは良いと思うし、積極的に学びたい。しかしそれだけではその対象者ではない子どもは置き去りにされてOKなのか?という単純な話なのである。

 よく人権優先主義者やしょうがい者優先主義者の中の極端なロジックの中に『過度な公正』の概念がある。つまりマイノリティが若干でも都合が悪ければマジョリティは我慢して当然だという例え話である。

 この公正の話や福祉における1個のリンゴの例え話はよく使われる。
 なるほどと思うかもしれないが、残念ながら実際にはこれは日本社会では実現しない話である。いや世界中で通用しないかもしれない。なぜならこれらの話にはコストや安全の前提が除外されているからである。箱から落ちて死んだらどうすんの?「1個のリンゴを5人で等分するのが教育の考え方、4個調達して5人に一個ずつ与えるのが福祉の考え方」その金は誰が出すの?そうしたことは全く考えない。そんな杜撰な話では実現不可能なのです。教育では実現できても福祉で実現できない諸政策の理由はそこにあります。

 いつも通り遠回りしましたが、本題。
 こないだのnoteでも書いたけれどもこの「登校率8割」を果たして登校と呼んでいいのか?
 そもそも今の公立学校ではこれまでとは比べ物にならないくらいの「配慮」がなされています。それが負担で学校で働くことを諦める人間が山ほどいるように・・・それに対してもっとやれ!と無責任に声かけをする人間は果たしてその責任を取る気があるのでしょうか? 

→”学校は来るもんだ!勉強はやるもんだ!ということに対する懐疑は、事後にしかわからないやってみた結果による効能そのものをやる前から打ち捨てるという行動の矛盾を平然と受け入れる蓋然性を非常に高めていると考えます。”
 これは前回私が書いたnoteですがこうした心持ちの教員たちを差し置いて良くもまあ学びの多様化学校などと言えたもんだと閉口します。日本中の教職員の中でまだまだ私は努力の足りない方だと自認していますけれども・・・正直こういうことをする教育委員会・文科省、そしてこれを報道するマスコミのその立ち居振る舞い自体を疑います。厭いもなければ労いもない。ただただ批判の対象でしかない。

 公立学校で一生懸命頑張っている子どもは置き去りです。公立学校に信頼を寄せる保護者も置き去りです。こうした学校にコストを割くということは、公立学校のコストを削ることだからです。実際に特別支援教育や学びの多様化学校が導入される前あたりから学校予算が削られ、保護者負担費が増大するという自体は徐々に進んでいます。それは直接的に連動しているとは言えないとは思いますが、もともと公教育費は公平性の概念が希薄です。それは給特法もそうですし、校舎がボロボロの学校とピカピカの学校というのは同じ市区町村内でも平然と放置され、継続されている問題です。学校配当予算でも全校生徒数によってきちんと区別されている状況です。
→”ありがたいことに日本はこれに対してまだまだ信頼感の方が強いです。初等教育の場合は全体的に学校にお任せにする方がおトクであるという発想がはたらいています。これについては、月並みながら学校側としてはやはり責任の重さを痛感するわけです。なんとかしてお子様の変貌した姿を保護者にお見せしなければならないという使命感に駆られます。”
 実はこの区別を乗り越えて公平性に担保しているのは現場の教員の個人的な努力だけなんです。果たしてそれに頼っていていいのか?だからみんな耐えきれなくなって辞めていくんです。辞めたくないのに。

→ ”今の学校が主体的対話的で深い学びを学校に求めている。つまり学校は子どもにそうした学びの構えを求めざるを得ない。これを学習の要望を引き下げるという話とは真逆に行っていると考えます。
(中略)
 こうした股裂状態を容認している社会や政治そのものが学校を困難な状態にしてしまっているのではないか。そうした状態の放置が日本社会の形成に教育の悪い後味を残しているのではないかというのが私の登校に関する仮説であるということです。
(中略)本質的な、そして公的な、平等な発想として初等教育には寄与しないと思います。どんな子どもも一律に登校できる学校を作ることがしょうがい児に限ったことではないインクルーシブだと考えるからです。そういう意味では学習指導要領の拘束性を高めることはより子どもを学校から遠ざける効果を高めると思いますし、学校や教職員が学習の要望を高めるような取り組みに走ることは学校が自然に持つ魅力を減じていくことだと考えます。
 通級指導や学びの多様化学校のように登校を個別化するのではなく、登校自体が一般化していてどの子どもも同じようなマインドセットで通えるようになるフラットなラインを学校の基礎とするようにしなければならないのではないでしょうか?それが登校のハードルの高さとして適切なのではないかと思います。”

 だいぶ長い参照になってしまいましたが、大事なことなのでお許しください。必要な指導を最低限にしながらその最低限はフラットにしなければならないと思います。というかフラットであることに意味があるのではないかと考えます。私の究極の教育実践状態というのが本来成り立つはずのない「平等でありながら自由である状態」です。それを公立学校で実現することこそが登校と指導が両立する状態であるのではないかと思うわけです。
 日本型学校教育は人格の完成を目指しています。自己実現だけを目指すなら今の日本型学校教育の成果はなかったのではないかと思います。それは個別を重視する着地点として明確にアメリカ型かつ中国・韓国型だと考えるからです。田中耕太郎のいう道徳的自由を持った教育をまがいなりにも実践したからこそ宗教の縛りがなくとも、独裁国家の縛りがなくとも日本型道徳が今も機能しているのだと思います。
 もし今の個別の登校スタイルが定着して社会的に一般化してしまえば子どもや保護者による公立学校に対する支持が失われ、学校教育を取り巻く環境がさらに悪化し、学校で働くことに対するモチベーションがさらに落ちていくという悪循環に陥ってしまうでしょう。そうなればさらに国力も落ち、生活保護・就労支援などの福祉予算だけが増大し、人材育成にための予算もない日本になってしまうことは既定路線になってしまいます。

果たしてそれでいいのかな?(不登校や学びの多様化学校の良い悪いではなく・・・)

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