うーん。小学校7時登校という施策は教育としてアリなんだろうか?アンケート結果を発表してまで引きずるようなことなのか?
アンケート結果が恣意的に使用できるのはどの事例においても例外はない。多分私がやってもそれなりに恣意的になってしまうこと自体は否めない。アンケート作成の段階でそうした回答イメージを埋め込むことはそんなに難しいことではないからです。それが意図的であれ、そうでない場合であれ。
よく事情を知らないのでここからはフェルミ推定です。
そろそろ日本でもフェルミ推定で算数・社会・理科の授業をすることも増えてくるかもしれません。欧米ではかなり一般的なんだそうです。
ちなみに
とのこと。
まず事業登録者791人というのが事業として適正であるかという疑問があります。多分世帯数なんでしょうが800世帯が大体2校分だと換算すると全39校分の2校ということで大体5%超が対象者ということになるでしょうか?しかもその中でアンケートに回答したのが30%であるということなんですが、ここに重みをつけたいところです。この30%はこの政策に対して非常に積極的に意見を持っている筋であるということになります。つまり小学校に子どもを通わせている世帯の3%ぐらいのこの意見には肯定的にせよ否定的にせよかなり偏った考えが表出しているのではないかということです。
アンケート集計を生業にしていたとき、一番ストレスだったのは自由記述の集計だったんです。ここには不満とか鬱積が渦巻いています。ここに書けばその要求は通って然るべきという怨霊のような情念がこもっているんですね。特に教育関係のアンケートには、元来の教育言説が持つ聖性が聞こえよがしに漏れ出てくることになります。予算的にも自治体の行政手法的にも平等や公正の観点からもそれはあり得ないだろうということが堂々と主張される文章で埋め尽くされるわけです。
formsでアンケート作成、集計ができるなんていい時代になったなぁと思う今日この頃です。今でも学校評価アンケートの自由記述欄を見るのは嫌いなんですがね。自由記述自体の回答が偏りすぎていてまともな意見が一つとしてない。世の中からアンケートなくなればいいのにと思います。
さてこうして考えた結果、参考になりそうなこの事業の評価についてはいくつかの選考事例があります。それが
ということなんです。
労働の観点から見れば、行政の政策が企業の労働時間に合わせることに妥当性が薄いというのはわかる気がします。主張のように企業もそれがあるのならきちんと出社しなさいということになるからです。
それ以前に女性だけに子どもの世話を押し付けるのは家庭としていかがなものかと思うわけです。しかしそれは各々の家庭の事情であるし、父親と母親では子育てにどのくらいの思い入れがあるかという話もあります。必ずしもそこの想いが合致していないと家族として成立しないというのは明らかに違うと思います。押し付けるのと委ねるのは違うというのが家族の論理であるということなのだと思います。
このように小一の壁という話には、労働論、家族論が入り混じっています。しかし私が問いたいのはやはり教育としての観点です。そもそもこの話の入り口には保育所(古い言い方ですがこの部分が重要です)の話が絡んでいます。それは教育において特段取り上げられる必要のある問題なのか?ということです。実はこれは小1プロブレムや中1ギャップにも言えることです。こうした問題設定自体が教育上新たな問題を生み出しているという私の仮説があるからです。これは先般私が書いたnoteの結論とも関連があります。
中一ギャップは確実にココロプランに影響を与えましたし、全国に公立小中一貫校を増やすことに貢献しました。今ではカネをかけないタイプの小中一貫教育で現場の業務を増やす意味合いでカリキュラムマネジメントという言葉が使われるようになっています。今解説されているカリキュラムマネジメントマニュアル本でこのことに触れていない本は何にもわかっていないことになります。
小一プロブレムの一般化は、小一の不登校を増やしたように思います。これは肌感覚で恐縮ですが小一で不登校傾性がついてしまうとその後の学校生活そのものがなんらかの形でうまくいかなくなってしまうことが多いです。それがかなり単純な母子分離の話であってもです。つまり問題行動の正当化を促す行為はそのものが大きな後悔につながるということです。こうした言説が罪深いのは責任を取ることがない、未来に悪影響が出るので取り返しがつかない、家族という塊を丸ごと不幸にする、という点です。
結論として。この程度の成果のために7100万円が福祉の予算ではなく、教育の予算として使われることには望ましいことではありません。全体的で教育的な効果がまるでないからです。それどころかそれが子どもの分離を生み出しているのではないかとまで考えます。実は同じことが子ども食堂という事業でも起こっているのではないかと考えています。家庭の事情で子どもを分割することは好ましくないと考えるからです。
この政策は社会実験としては面白い試みであったのかもしれないけれども、行政の通知表として批判的な主体に精緻に分析させてきちんと総括してみるのなら豊中市の40万市民が行政への信頼を取り戻すには活かせるかもしれません。
行政というのは、耳目を集めるために一握りの人間に対してサービスを提供するという主体ではないということを今一度考える必要があるのかもしれません。それが教育の営みの一部であるのなら尚更です。初等教育というのは公正、平等を旨とするというのが日本型学校教育の歴史そのものであるからです。どんなにアンケートをいじってみてもこの取り組みにはその事実に抵抗できるほどのイノベーションを見出すことはできません。
まだまだ行政担当者にはこうした先見性を持った新規事業の立ち上げという能力は足りていないのでしょうね。そもそも一般企業でも難しいですから。無理する必要はないのではないでしょうか?