フィンランド教育の失敗とは?あるYouTubeより〜北欧という括りから見て
本読んでいるより、YouTubeを見ている方が勉強になると感じることがあるけれどそれこそ感覚の問題であって実際の学力になっているかは事後の作業次第なのではないか?と思わされてしまいました。
勝手に引用するのもどうかと思うので、ググってください。
内容ではなく、私の事後の作業として書きます。
非常に興味深くそして説得力のある資料によって話が進めれているのでサラッと見ることができました。
非常によくできたYouTubeで何度かコスりたいので、今回は特に北欧という文化圏に的を絞って事後の作業を行なってみます。
2000年代初頭だった記憶していますが、仕事でスウェーデンとノルウェーの行政視察を行ったことがあります。パブリックなものではなかったのですがまがいなりもリサーチャーとして参加していたので、一応の個人的な分析を行いました。その時フィンランドに行ったかどうかは全く記憶にないぐらいのもんなんですが、今でもいくつか記憶に残っていることはあります。
一つはやってみなはれ精神と行政のゆるさ、そして住民運動による意思決定です。偉い並べたてたなあと思うかもしれませんがこれは全て同じことなんですよね。特にスカンジナヴィア三国というのは人いない、産業ない、資源さしてない、カネない、国土は広いのに使える土地がない、とにかくないない尽くしの国家です。その当時おそらくそこの役人さんは代表的な企業としてボルボとノキアを挙げていましたが当時のような栄華は見る影もないと思います。
YouTubeでも何度も指摘されていますが、その時点の教育の効果がいつの時点で最高潮に達するのかというのは非常に計りにくいというのが教育の課題です。昨今株価の急落が言われていますが、これも何が理由であるかは非常に疑問です。植田ショックと言っている人、訳知り顔で説明している人は信用しない方がいい。つまり教育、経済、文学など人文科学がこぞって抱える問題そのものだということです。
だとしてもそれがどういう意味を持つのかを論じること自体に意味がないとは言いませんがね。ここはそんなに簡単に結論づけることは良くないということです。もちろん投資はタイミング命なのでそんな悠長なことを言ってはいられないのですが。青汁王子にしても結果論に過ぎません。本当のことを言っているかどうかはさておき。
その時のスウェーデンのお役所の担当者や民間・地域の施設管理者が口を揃えて言っていたのは1980年から90年ごろの大不況から脱却するためには子ども、いわゆる教育に投資するしかないのだが、カネがないから行政主導では無理だったという話です。これを聞いて強烈に浮かんだのが明治維新の日本の教育制度だったんです。無い無い尽くしの状況下でも住民の熱意で制度設計した事例は日本の閑谷学校や開智学校の例を出すまでもなく非常によく似ていると感じたわけです。
非常に意思決定の自由度の高さを感じ、同時に行政のいい加減さを感じました。同時に現代の日本社会との置かれた条件の違いに愕然としてわけです。当時持続可能社会を口にしていたのは左翼系の言論だけでした。その論拠が北欧型、まさにノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークあたりの制度設計と諸々の統計結果であったわけです。しかし実際に見て日本社会に援用できる部分はほとんどないと感じました。完全なフラットなノンポリを自称していたので立場を抜きにしてそう感じたわけです。
単純に一つ挙げても土地の問題があります。何にしたってほとんどかなり安い値段でそれも恐ろしく広く使えます。建築方法も自由であまり制約がありません。公共もしくはそれに準ずる施設でさまざまな面で制約の多い日本とは大きく違います。というか重なるところがない。
こうした条件の結果、カネがないから各々に任せざるを得ない。任せられていい加減にやってみてもその時点での不具合は分かりにくい。どうしてもダメならすぐに別の方法を話し合えばOK。となってしまっていたわけです。地方分権が先進的だったわけではなくそうならざるを得なかったということを感じていました。
二つ目は異様な物価の高さです。北欧の高福祉はすでに非常に有名でしたし、移民問題についてもそれなりの知識があったのですのが、現在のインフレ状況でもない中で、デフレ国家民が訪れて驚いたのは財務省が小踊りしそうなほどの一般市民に向けての広く深い課税方法だったんです。確かコーラ500mlが日本円で五百円近くした記憶があります。もちろん我慢でした。本体価格はさほどでもないのに税金は異様に高いためにこうしたことが起こります。それは基本貯蓄の概念なくそして家族の感覚が希薄ならざるを得ない国家というものを肌で感じた瞬間でした。国家が衣食住以外のほぼ全ての世話をするということはこういうことなのか?こうした状況を生み出すのか?高負担高福祉という非常に単純な制度設計を礼賛する左寄りの人たちに若干イラッとしたのも事実です。しかしこうした制度だからこそ不正を働く人間も通常より少ないのかなとも考えられましたけれど・・・
非常に重大なことはこうした要因(もっとさまざまあるのですが)に伴う子どもに対する取り組みが生み出したのは、耳障りの良い言葉を並べ立てることによって大人の側の責任を放棄するという作業だったということなんです。
今なら生徒主導型という名付けになると思うのですが、どの施設で子どもを見ても「どうしたいか」を問うことだけしかしない、あとは見ているだけという大人しかいないわけです。あまりにも日本との違いに困惑して後ほど辿々しい英語で教師や保育士、塾の先生、介護士、保護士的な人がどこにいたのかと聞くと驚くことにすみっコでりんごを齧ったり、日光浴をしていたりした人たちがそうした仕事中の人であったということなんですよね。
結局文化的な、社会的な違いは比較研究においてはある特定の結果しか見ないという点において非常に大きな弱点になります。分かりやすいというストロングポイントはあれどです。それを補うべくフィールドワークという手法が一時期流行りましたが学問的な手法としては格が上にはなりませんでした。引用スタイル至上主義では学問も先細るとは思うのですが・・・
まあそれはさておき、こうした比較研究から学べることは一つ。『上位の』真似っこするなということです。違いを規定する下部構造というのは非常にカオスな状態です。それは地球の反対側の国との違いとでも、隣の学校とでの違いでもさほど変わりません。
これは国際比較研究をした後に、学校の教員になって隣の学校に転勤して中核に担えば誰にでもわかることです。今日本全国が秋田県の教育手法を技術化してマネようとしていますが詮無いことであるのはこれまでのイギリス型制度設計、プロイセン型制度設計、アメリカ型制度設計、北欧型制度設計、明石市型制度設計、ふるさと納税制度設計などあるモノサシ『上位』を完コピすることによる失敗事例からよくわかることです。もちろんロールモデルは必要ですがそれ以前に自分を、所属する組織文化を分析すること抜きにして(この分析に対する真摯な姿勢こそが今の日本に最も欠けていることだと思うのですが)こうした未来への制度設計や現在の業務遂行の成功確率は極端に下がると言わざるを得ません。というか明後日の方向に向かって走ることになるのが教育や福祉だということです。
いつもいうことですが大都市圏が秋田のマネっこをするということは今より状況を悪くします。それは日本が北欧をマネっこすることによく似ているからです。非常に単純にみて秋田と大都市圏の人口比率と北欧と日本の人口比率はよく似ているからです。
もう一つの仮説としては実は教師の能力についても、そして生活経験の比率についても実は大都市や日本の方が高い可能性として共通がありそうだということです。
それこそ2000年前にアリストテレスが指摘した形相と質料を取り違えた行為であると言わざるを得ないということなんでしょう。もう少し勉強したほうが良くないですかね、ということを考え直させてくれるYouTubeでした。