アンコンシャス・バイアス?より当たり前の教育の方に価値を。

 ICTにしても、STEAM教育にしても、金融教育にしても。それは「特設道徳」にしても、SDGsにしても、LGBTQにしたってそうです。なんだか知らない間に教育の中に侵食してきたsomething new。出前授業でも、社会人先生でも、実業でも、なんでも良いのだけれども脇役は脇役らしくしておけば良いのではないか?
 こうした消えていくこと確定のことに目を向けること自体がどうなんだろう?イチロー選手や大谷選手など教育に導入してフワちゃんのようになってしまったらどうするつもりなのだろう?せめてお亡くなりになってから使用するという明治より伝わる知恵を活かしたらどうなのだろう?
 凡事徹底を忘れたスパイスだらけの、薬味だらけの料理に何の意味があるのでしょうか?
 さらには

アンコンシャス・バイアス。これって家父長制や社会的性差の言い換えではないのか?それもかなりレベルの低い。
正直食傷気味です。何でもかんでも新しく発見したみたいにいうけれど、これまでの知見が全く生かされていない代物ではないかと思うのです。そうしたものが学校にただただ意味もなく流れ込んでくる。学校はさほど暇ではない。やらねばならないことが山積みだ。それがしんどいから外部委託みたいなことをやっているといずれ自分の首を絞めることになってしまいますよ。
せめてやるなら無償でやってほしい。学校には無駄な予算が溢れている。カネがないカネがないと言いながら必要なところには回さないくせにこうしたどーでもよいことにお金を割くわけです。全く朝日新聞はよ、と思わざるを得ません。というかマスコミというのはこうした目新しさだけに食いついてさえいれば耳目を集められるという発想をそろそろやめて骨太な文字文化へ回帰すべきなんではないかと思う。カルさだけを求めてもどうせ読者視聴者はついてこないのだから、そっちへシフトすることで熱狂的なファンを作って行った方が良いのではないだろうか?SNSでバトルするぐらいの媒体があっても良いのではないかと思う。

 それたけれど、そうしたただのブレインストーミングみたいなくだらないことに時間を割くのはどうだろう?知るということでは意味がなくもないと思うけれど。でもこんな短時間な取り組みでは根付かないし、生活に活きたりはしない。

 さて本題なのだけれども、最近の子どもは探す力が落ちているのではないかと思う。もう少し正確に言えば探す経験が不足しているのではないか?
 過去に辞書引き学習が流行ったことがあった。軽ーく取り入れたら相棒に「今時辞書引く意味があるのか?このGoogle全盛の世の中に」みたいなことを言われたので反論するのも馬鹿らしいので「そうだね」と笑っておきました。そもそもその若い教師はGoogleの何をわかっているのか?そこに引っかかってはいたのだけれども老害になるのもメンドーなので黙っておいた。世の中タダほど高いものはないのだよという捨て台詞を残して。その後もちまちま辞書引き学習をしていたのだけれどもついに相棒はそれをやらずに1年を終えた。次の年、お別れして別学年の担任になったのだけれども、その元相棒を見て唖然としたんです。辞書引き学習全開なのです。しかも学級通信のタイトルは辞書で引いたであろう難しめの言葉になっていたんですね。おいおい羨ましかったんかい!やりたかったんかい!すぐに訂正しないプライドの高さときちんとそして徹底的に訂正する変わり身の速さに驚きを隠せませんでしたが。でもそのとき思ったんですね。辞書引きが良いか悪いかはさておき、調べることをきちんと教えておくことが学習集団としても高まりがあることに相棒は気づいたんだねということに。
 ただこの話にはそうした綿毛方式の「美しさ」だけではない教育問題も紛れています。必ずしもそうしたことが感染するわけではありません。絶対に受け入れない頑なさというのも存在しますし、そもそもそうしたことに目を向けることができない教員というのもいます。金曜日を待ち続けて仕事をする、とにかく大過なく1週間をやり過ごすことだけに注力する。そうした若手たちです。それが悪いということではなく、間違いなくそうした層が存在するということがあるんです。そうしたことに対する対策ということは前に考えたことがあるので、そちらで。

 職場としての学校はこうした人とも仲間として一緒にやっていかなければならない。それを批判しても何も前に進まない。その人たちにも個別の生活があり、私一人でなんでもできるわけではないからです。しかし、だからこその「出前」「外部」ということにはならないのです。そうした要素は内側のそうした層だけで十分です。別に新しくサポーターみたいな役職を作って無理やり雇ってくれなくても今いるそうした層でお腹いっぱいです。これ以上そんな層が増えてしまえば回る仕事も回らなくなってしまいます。よりモノをわかっている人間だけに負担が集中するだけです。
 「仕事は(存在する)時間の分だけ膨張する」というのはナントカの法則だそうです。これに教育現場のアノマリーを付け加えればできた仕事を他人に押し付けたり、やらずに放置したりする人間が多数だということです。
 そうしたことを避けるためには教育の当たり前を凡事として徹底する人たちを教師としていくことだけだと思います。

 子どもというのはいつの時代も学び方を知らないまま学び続けます。言葉の意味を知らないままに喋り続けます。本人たちは知っているつもりなのです。わかっているつもりなのです。そのつもりというのが、言い換えれば自己肯定感になります。この当たり前を、教育にとっては対抗すべき相手を、口に出してどうのこうの言うことの愚かしさはそろそろ大人の共通認識になっても良いと思います。
 アンコンシャス・バイアスについても同様です。新しく生まれたこの言葉もいずれ「なかったこと」になっていく。eスポーツのように。(これは元々あった遊びやその観戦に戻っていくだけのことなんでしょうけれども)こうした一時の気の迷いに惑わされずにきちんと教育の本筋を探して提示する。面白みも何もないそうした教育実践を求めることが子どもに、子ども集団の隅々に、学び方を染み込ませていくということなのです。
 こうした主食の大事さを放っておいて、小銭稼ぎの起業家に日銭を稼がせる意味がよくわかりません。それは教育委員会や学校管理職の評価ポイントになるというなら、まずその評価の仕方を改めることから始めるのが良いでしょうということです。なぜこんなくだらないことに、外部の都合で、偉い人の都合で、しかもカネの話が絡んで、お付き合いをしなければいけないのかということです。

 教育の仕事を教員の当たり前の仕事としてフツーにして、普通の範囲に押し留めていく。それにスパイスを加えることは良いけれど、スパイスが主食になっては食事が貧しくなったちゃうよねという、至極当たり前のことを教育にまつわる了解に、その上での合意に、持っていってはどうだろうというだけの話でした。

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