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武田綾乃『愛されなくても別に』/しっとりと感想
しょうもない人生
「しょうもない人生!」。霜降り明星の粗品が度々、漫才でツッコむこのセリフ。相方のせいやが、あまりに下らない「思い出」や「走馬灯」を思い描く場面で発せられるものだが、自分の人生にも同じような感想を抱くことが皆あるだろう。人生に関して悲観的な姿勢で生きる人物が描かれた作品を今回は取り上げたい。武田綾乃『愛されなくても別に』である。
「このままじゃアタシの人生がめちゃくちゃになる」
本作の主人公は、共に過酷な家庭環境を持つ二人の女子大生。掲題のセリフは、主人公の一人「江永雅」が親元を離れる前に抱いていた心象を打ち明けたもの。家出前の雅の状況は以下の通りだった。父親は離婚後、死亡事故を起こし行方不明。その家族だという理由で他人から中傷を受けるとともに、共に暮らす母親は、生活費を娘の雅に売春をさせて稼がせていた。あまりにもひどい生活を反映したセリフだが、ここでは「人生」というフレーズに注目したい。つらい過去や現在について思考するとき、たびたび私たちは自分の「人生」というものついても考えてしまう。「過去」や「現在」は、時間軸のある範囲でしかないが、どうしてそれらから「人生」を想像するのか。本文中から追加の例を出して、もう少し探っていく。
「笑うしかないな(…)じゃないと、私の人生の元が取れない」
このセリフは、もう一人の主人公「宮田陽彩」が発したもの。共に暮らす母親が離婚した元夫からの養育費を着服し、陽彩が受け取るはずの「学生支援機構」の奨学金にまで手を付けていたことが分かったとき、陽彩はこのように零す。大学の学費をバイトで稼がされており、そこに多大な時間と生活をつぎ込んでいた彼女は絶望する。ここでもやはり、「人生」について言及している。
幸福という幻想/ショーペンハウアー
ところで「幸せな生活とは何か」ということだが、純客観的考察というよりむしろ(ここで肝心なのは主観的判断なので)冷静にじっくり考えて、生存していない状態よりは明らかに好ましい状態、と定義するのが精いっぱいであろう。ここから私たちが幸せに生きることに執着するのは、単に死を恐れているからではなく、幸せな生活という考えそのもののためであって、またそうだからこそ、幸せな生活がずっと続いてほしいと願うのだと推論される。
さて、人生はこうした幸せな生活という考えに合致するものなのか、あるいはせめて合致する可能性はあるのかという問いに対して、読者もご存じのように、私の哲学はノーと答える。
少し長くなったが、ショーペンハウアーの『幸福について』からの引用である。ショーペンハウアーはあくまで、「幸福な人生」というイメージは幻想であると考えた。自分を却って、執着や苦悩に縛り付けてしまうかもしれない「幸福」というイメージ。『愛されなくても別に』の主人公たちも、そのような「幸福」のイメージと対立していた。
彼らは授業中であっても友達と話したり、スマホゲームをしたり、とにかく騒がしい。それになにより、そういったうるさい学生からは独特の匂いがする。ヘアワックスの香料を一緒くたに混ぜ込んだみたいな、『明るい大学生』の匂いだ。遠くから漂ってくる分には受け入れられるが、間近で嗅いでしまうと吐き気がする。
「というか、不幸な人に興味があるの」
「だって、幸せな人とは分かり合える気がしないし」
上のセリフはどれも、宮田陽彩が零したもの。「充実した生活」を送る周囲の学生たちへの視線はあくまで冷ややかである。比企谷八幡もびっくりのアンチ青春の精神。本作のテーマでもある、「定型化された幸福」を持つことのできない不幸が、この描写から垣間見える。
「愛」=「幸福」への疑問
「貴方は悩んでいるのね。誰よりも、自分が生まれた意味を考えている」
「宇宙様には分かるんですか?アタシがこの世界に生まれた理由が」
「愛されるためよ」
「アタシが欲しい救いはそれじゃない!」
「アタシは、他人に愛されなくとも幸せに生きることを許されたい。いいじゃん、愛されなくても別に。他人から愛されなければいけないなんて、そんなのは呪いみたいなもんだよ。宇宙様、アンタは間違ってる」
引用したこれらは、「宇宙様」と名乗る新興宗教の教祖との問答の中で、江永雅が投げかけた言葉である。前にも述べた通り、雅は父親と母親の双方から性的な搾取を受けていたため、「家族」というものを信用できず、心から嫌悪している。それでいて、「一人でいたくない」という孤独感も抱いていた。そんな雅の心の琴線に触れる「宇宙様」の言葉に対して、雅は感情のままにこう吠える。「アタシが欲しい救いはそれじゃない!/いいじゃん、愛されなくても別に」。
さらに、宇宙様の信者集めの姿勢を次のように批判する。「それは強者の理論でしょ。アンタみたいに、他人から愛情を搾取する人間には分かんないだろうけど」。ここでは、「愛情」という概念によって、「強者」が「弱者」を搾取する「システム」が正当化されていることが指摘される。「愛情」の名のもとに「強要させる」関係については、もう一人の主人公陽彩も苦しんでいた。
脳に根を張る常識が、私に許せと言っていた。だって、この人は家族だから。この人は私を愛しているから。この人は、この人はー愛されてたら、子供はなんでも許さなきゃいけないわけ。
家を出て行った陽彩を捕まえて、母親は「戻ってきて」と懇願する。しかし、陽彩は戻らなかった。学費を稼がされ、奨学金に手を付けられ、日々の家事を全て投げられることに耐えられなくなった陽彩は「嫌だ!」と拒絶する。「ひどい娘」と自覚しながらも、陽彩は「愛情」、「家族」という呪縛から逃走した。
祈り、或いはエゴ
これまで、「幸福な人生」という概念の虚構性と、「愛情」という言葉で隠される「搾取システム」について考えてきた。今から話を進めたいのは、「幸福とは言えない自分の人生」を、「縛り縛られてしまう愛情」への依存なしにどのように生きていくか、という視点についてだ。(所謂)「幸福な生活」と、(搾取的な装置になってしまった)「愛情」の二つとは異なる形で、どのように生きることができるのか。それに必要なのは、「他者」への「祈り」と作中で表現されるものではないだろうか。
第一の論点、それは、自分以外に、自身の行動の動機となる「他人」の存在である。
人間ってさ、そもそも自分の為だけに頑張り続けることが出来ない生き物なんだと思うんだよね。こう、脳の仕組み的に。だから多分、自分の為だけに生き続けるのは、すごく疲れる。
陽彩のこの言葉によって示される、「他人のために頑張る」という生き方。
これが陽彩の口から出てくることは一見、不思議ですらある。今までさんざん母親に搾取されてきた彼女だが、「他人の為に生きる」ということを否定しないのだ。人から虐げられ搾取されてきた人物は往々にして個人主義や自由をもとめる。(あなたが私に言ったとおり私たちはもう…人のために生きるのはやめよう。私たちはこれから私たちのために生きようよ!)。だが、陽彩の場合はそれらとはまた違った感覚を持っている。これには、「他人」(作中では江永雅)と「彼女」を結びつける、彼女側からのアプローチがポイントとなっていた。第二の論点、「祈り」である。
「怒らないの?」
「何が」
「悪いことしたから。アタシのこと、嫌っていいよ」
「江永は私に嫌われたいの?」
「嫌われるなら早い方がいい。アタシの知らないところで、勝手にアタシを嫌わないで欲しい。宮田がアタシを見限る理由は、アタシがアタシの手で作りたい」
死を選ぶ自由だなんて、どの口が言ったんだ。私は私が死ぬのは許せるが、江永が死ぬのは許せない。他人を縛りたがる人間を私は一番嫌っていたはずなのに、それでも私は江永に生きていて欲しいと思ってしまう。
これは私のエゴだ。だが、私はそのエゴを捨てるつもりはない。
江永の、宮田に「嫌われたくない」という裏返しの言葉に現れるもの、自分以上に死ぬのが許せない、という宮田から江永への思い、それらが指し示すのは、「愛を一方的に吸収する搾取関係」や「相手を縛る愛」を乗り越えた先の何か、「祈り」と表現される感情だった。根底に、「愛」に似た何かを持ちつつも、その苦しみを知るからこそ超えられる何かがあるのかもしれない。そしてこの「祈り」は、今現在の「幸福とは言えない人生」を生き抜くお守りになっているのではないだろうか。
だけど私は傷みを隠さない江永の髪が結構好きだったりする
私達にとって、オリンピックより今日の生活の方がよっぽど重要だ。今日を生き抜くことが出来なければ、未来を夢見ることすらできない。
もしも怪我をしたら。もしも病気になったら。もしも、私が働けなくなったら。悪い可能性を、私は無理やりに頭から追い払う。そんなものは今考えても仕方がない。(…)くだらないやりとりだ。無駄の極みのような、この世界には不必要な会話。だけど私が今日を生き延びるには、この無駄な会話が必要だった。
傷だらけの過去を凝視し続けるには、人生はあまりに長すぎる
「透明な自動ドアを抜けて、私達は帰路につく。鼻から息を吸い込むと、まっさらな夜の匂いがひたひたと肺に満ちていった。鼓膜を揺さぶる夜風の声に、私は耳を傾ける。世界に響き渡る二人分の足音が、私が孤独でないことを密かに教えてくれていた」
記事冒頭で、「今現在」の困窮から自分の人生全体を悲観してしまう傾向について疑問を出しつつ、本稿の本文では、そうならざるを得ない主人公たちに着目してきた。では、そのような悲観や絶望から逃れるには、どうしたら良いのか。それについて最後に考えてみたい。
この物語は、彼女らが互いへの「祈り」を通して、「未来」は見えずとも「今」を生きていくことができる姿を提示した。この「祈り」は、「希望」のようにはっきりと未来を志向するものではない。だが、「希望」や、ひいては「幸福」と同じように、幻のような不確かさを持っている。現実的な力や効果はないかもしれない、しかし、だからこそ、いつでもゆるやかに世界へつながることができる、そんな意識の流れではないだろうか。
今回記事ではほとんど触れられなかったが、この作品は、「陽彩」が様々な感覚として受けとる鮮明な世界観や身体描写が、瑞々しく散りばめられていた。そんな彼女の「世界を見る目」は、江永雅の美しさを見出したし、物語ラストでは世界との一体感をもたらした。そんな、身に降りかかる出来事とは別の次元で体験される「鮮やかな世界」もまた、「祈り」と並び、現実をやり過ごしていくアイテムなのかもしれない。そんな感受性を持ちたいなあ、と思いながら記事を終えることにする。