【ほんだな】多様性に潜むワナ
多様性は企業のため
少しまじめな話。
企業における多様性確保というのは、完全に戦略のひとつなんだが、これを情緒的にとらえる向きが少なからずある気がするんだ。それは大いなる勘違いなんだけれど、えてして気づかないのだと思う。
企業がおこなう多様性確保は最終的に企業のためにやっているのであって、従業員のためではない。もちろん、従業員のため「にも」なる面はあるが、それはあくまで副次効果というか、中間目標であって、最終ゴールではない。
たいていの企業には経営理念がある。『これこれを通じて社会に貢献する』みたいな。でもそれは当然ながら一朝一夕にはいかない壮大な目標なので、そこを目指して長期的に取り組んでいかなければならない。腰を据えてじっくり取り組むだけの時間が必要だ。すなわち「事業の継続性」が重要というわけ。
橋の建設みたいな有期事業であれば竣工して終わりだけれど、それ以外の無期の事業体はゴーイングコンサーン、永続的に続くことを前提にあれこれ語られる。
正直なところ経営理念が目指すゴールを実現できたら「お役御免」で解散していいと思うんだよね。たとえば個人事業で「1億円ためる」ことが目標だったら、お金が貯まった時点で事業を畳んだっていいわけだ。資産は誰かに継承すればいい。
でも、家族経営のレストランが『一家を養っていく』ことをめざして客商売しているなら、これはそうそう容易に達成できる目標じゃない。子どもたちが巣立っていって、老夫婦が亡くなって初めて「お役御免」になる。
ましてや、一定規模以上の企業が掲げる理念は、実質的にはいつまでたっても100点とはならず、はなれゆくゴールラインに向かってひたすらマラソンを続けているようなものだろう。内外環境は常に変動しているから。
と考えると、規模の差はあれど、企業は長期間にわたり理念を追い続けていくわけで、やはり事業の継続性が重要だね。つまり、企業は淘汰されないよう競合と闘いながら市場で生き残っていかなければならない。
成熟社会は多様性を欲する
多様性が騒がれ始めた背景にはいろいろあるんだろうが、ひとつには社会の成熟と情報化ではないかと思う。
一般的なライフサイクルモデルで考えれば、世の中が大きく成長している途中段階においては、画一化が有利なんだ。大量生産、大量消費。同じような価値観の人々が一致団結して、ひとりの巨人のようにふるまいながら強大な推進力を得て社会の成長にドライブをかける。
でも、いつしか自己の肥大化に限界が訪れた。成長の鈍化と同時に、人々が豊かになる過程で情報化が進み、世の中の真実があらわになっていった。
多様性というのは新しく生まれたものではなく、最初から人々の中に存在していた。マジョリティとマイノリティ、強者と弱者。もとより、マイノリティがいなかったわけでもなく、弱者がいなかったわけでもない。彼らは社会が成長する中でスポットが当たらなかったに過ぎないんだ。それが社会の成熟と情報化の進展にともなって表に出てきた、というだけ。
実際、経済が発展途上でインフラも未整備な国においては、多様性の議論なんてどれくらいされていることか。
多様性確保は事業継続の手段
ともあれ、我々の周辺社会では多様性がひとつの大きなテーマとなってきた。社会が多様化してきたということは、消費者が多様化してきたということでもある。モノ・サービスを提供する企業は「事業の継続性」を念頭に置いたとき、買い手である消費者の多様性を意識せざるを得ない。
社会が成長拡大していた時代であれば、強者である「お父ちゃん」の顔だけ見ていればよかった。すべての決裁権はそこに集中していたから。お父ちゃんの気持ちがいちばんわかるのは、おなじくお父ちゃんだろう。企業の男性社会化が進んだのは、ある意味で理にかなっていたというか、必然だったともいえる。
でも、いまはお母ちゃん、こども、多様化した消費者を理解しないと対応できない。
これは家族構成だけではなく、ジェンダーも、人種も、政治理念も、国籍も、その他さまざまなもので同じ構図が見られる。お父ちゃんを理解できるのがお父ちゃんなのであれば、多様な消費者を理解するためには多様な人材を社内に抱えておかなければならない、が道理だろう。
ここに、旧来の体制とのひずみが生じている。
投資家から見れば「この企業は多様な消費者ニーズを的確にとらえて永続していけるのだろうか」が投資判断の基準のひとつになるわけなので、画一化した人材しかいない企業は、投資家から見限られるリスクもある。
売上が減り、資金調達もできない。これでは「事業の継続性」など望むべくもない。
だからこそ、企業は社内に多様性を求める。これは、企業が自社の理念を追求するための手段のひとつとして選択した「戦略」なんだ。消費者ニーズをとらえ、市場を創造し、投資家からの信用を得て、事業を成長拡大継続していくための手段。それが社内の多様性確保。
社員の幸せは必要か
もちろん、社内の多様性を推進することで、働きやすくなる社員も大勢出ると思う。いままでマイノリティ、弱者とされスポットが当たらなかった、あるいは不当に扱われていた人の環境が改善される効果もあると思う。でも、それは副次的効果に過ぎない。そういう人々がイキイキと働けることによって職場に活力がみなぎり、みんなの個性や感性が事業に良い効果をもたらすからこそ、企業は推進している。
決して社員みんなを幸せにするためにやっているのではない。これは非常に大事な視点だと思う。
誤解を生まないよう書いておくが、社員を幸せにするという取り組みは非常に大切だ。社員を大事にしない企業には、成長も拡大も継続もないと思う。ただし、企業にとっての最終ゴールはあくまで「経営理念の追求」であって、そのためには事業の継続が必要。そして、成熟した社会においては、継続のために多様な消費者を理解する必要があり、理解するためには社内にも多様な価値観を抱えておく必要がある、ということ。そのために、多様な従業員それぞれが力を発揮できないとダメだし、そのためにはみんながモチベーションをあげられるように会社としても取り組んでいくべきだと思う。
そういう意味で、社員の幸せは必要だと思う。これは間違いない。
ただし、社員の幸せがゴールではない。社員が幸せになればそれでいい、ということでもない。社員の幸せの先に、理念追及があるということ。社員の幸せは必要条件ではあるが、それ自体がゴールではないんだ。なぜこんなことをしつこく書くかというと、次のような事例が実際に起こっているからだ。
Equity(エクイティ)の浸透
先に、企業が社内に多様性を求めるのは生き残り戦略だと書いたが、いまウチの会社でも人的資本経営の流れで「女性管理職比率の向上」が議論になっている。おれは推進側の部門に所属しているんだが、決まって出てくるのが「昇進だけが人生じゃない」「性別に関係なく能力のある人を登用すべき」「女性管理職が少ないのは、本人が望んでいないからでは?」のような上司からのご意見。
まあそういう側面も一定あるでしょう。この人たちに差別意識があるとも思わないし、ある程度は理性的に思考されたうえの発言だとも思う。でもその背後に見え隠れするのは、情緒的な「過度な女性優遇はおかしい、問題の本質とずれている、性別差をなくすのであれば男女とも同等に扱うべき、だから女性管理職比率のみを取り上げてことさら議論すること自体に違和感を感じる」という御宣託(おれの考えすぎかしら?)。
いや、おっしゃることは理解できるんだが、そこじゃないんだよな。べつに「女性がかわいそうだから」とか「処遇を改善してあげよう」だとか、そういうことじゃない(それこそ、上から目線な気もするけど)。若干、人権侵害とか性差別とか、そこらへんとごっちゃにしている空気を感じる。
女性管理職比率の話が出てきた背景は、社内の多様性確保なんだ。これまで男性中心社会が継続してきたという背景があるから「女性差別」のような議論が付随してきがちだけれど、それは別の課題であって、本来はもっとドライな議論。経営層や管理職、もちろん現場でも、性別の偏りによる画一化を緩和して、多様な消費者・顧客への対応力を上げていかないと、事業継続が困難になりますよ、というだけのこと。それだけ。
昇進を望まない女性もいるかもしれないし、社内の女性のマネジメント教育もまだ不十分かもしれない。だったら管理職の魅力を伝えるとか、マインドセットするとか、あるじゃない? 能力開発が追い付いていなかったら、上司が育成すればいいじゃない(それがあなたたちの仕事でしょ?)。
この人たちは悪気はないのだと思うけれど、ひとつ大きな勘違いをしている。それは「社員を幸せにすること」を最大の判断基準においてしまっていること。
「管理職になることでその女性は幸せなのだろうか」
「それは女性社員にとって本当に良い施策なのだろうか」
一見すると非常に理性的で、視座の高い問いではあるのだが、男女管理職比率が偏っていることそのもの、その数値的事実こそが問題であって、これを解消しないことには始まらないんだ。
数字の偏りをなくして平準化し、消費者にあわせて企業側もいろいろな価値観のひきだしがある状態を実現する。それこそが達成すべき課題であり、求める姿。上司は現状を変えるための方策を考えなければならない。
そもそも論を否定するつもりはないが、そういう疑問を持つのであれば、問題提起でとどまらずに、女性が幸せになるような管理職像を描いて見せて、女性が「やってよかった」と思えるような問題解消法も考案してくれよ。
そもそも論の末に「女性管理職 不要論」を唱えるのは構わないけれど、「その代わり、これこれこういう方法で多様化する消費者ニーズに対応していこうと思います」がないと、経営理念の追求という最終ゴールを共有する仲間としては、ちょいと心細いよね。
社員の幸せを願う気持ちは大切だし、組織内の人間関係を円滑にしたり、信頼関係の醸成には不可欠だけれど、多様性の議論の本質はそこじゃない。企業が生き残るための手段が「多様性を確保すること」そのものなんだ。
もちろん、多様性を必要としていない企業もある。偏りを個性にしている企業もある。それはそれでいい。
ただ、ひとついえるのは、マジョリティの心の中には、何十年ものあいだ積みかさねてきた無意識の慣性がはたらいているということ。多様性を確保するためには、これに抗う必要がある。ところが、おなじ情緒的な慣性が、実は推進派に属しているマイノリティのなかにもあるんだ。この状況が感情的な対立を生み、相互不信につながり、両者の協創をいっそう困難にしている気がする。
少なくともオレの職場はそんな感じです。この土壌を改善するには、社内の世代が入れ替わるのを待つ以外ないのかもしれない🥴。
これは何かしらの文章に触れたことをきっかけに、頭に思い浮かんだことをつらつらと書き連ねたものです。
原本と文中の内容は一切関係ありません(いや、少しはあるかも)。
書評でもありません(これはホント😆)。
本稿は下記の藤本さんの記事に着想を得て記載いたしました。
ありがとうございます!😄