祖母の認知症
明治生まれの祖母がおかしくなったのは、両親が定年後、大分に帰ってきた頃からです。
それまで、一人で、家の事をこなしてきて気が張った生活をしていたのがプツンと切れたのか
家の事を何もしなくなり、ボーっとする事が増えていったのです。
80歳前でした。
1985年ごろで、まだ、今の様な介護の仕組みがなくて、ヘルパーさんもいないし、地域包括支援センターなんてありませんでした。
症状としては、よくあるパターンで、「お金が無くなった❗️」と騒ぎだしたんです。
その次に、「泥棒が入ったから警察に連絡して」と騒ぎます。
両親と「これは認知症よね」とどうするべきか毎日、相談しあっていました。
その間に家を建て替えたのですが、祖母が心配で、祖母の部屋に呼び出しベルを付けました。
2階に休む両親と私の部屋にスピーカーを付けたのです。
すると徐々に、祖母のベルを押す回数が増えていきました。
それも夜中にです。
今の、地震速報と同じで、
「ビーー、ビーー、ビーー」と夜中に我が家に響き渡る音は、心臓に悪いものでした。
祖母の部屋に向かうと
「庭に黒い服を着た人が、たくさんいて、
私の部屋に、棺桶を持ってくるの」と震えています。
両親と、「まさか、あの世から迎えが来てるんではないか?」と怖がっていました。
他の日には、まだ、生きている祖母の妹が遊びに来ているからお茶を出してと夜中にベルを鳴らして要求してきました。
あの世からの使者では無いとわかり、やっぱり認知症だと感じました。
私は、仕事があるので、毎日寝不足が続いて疲れていました。
仕方なく、内科の先生に相談すると、
「精神科」に行くように言われましたが、祖母が「精神科」なんて、行くとは思えなく(当時はまだ、「物忘れ外来」なんてありませんでした)なんだかんだ、だまして、何科かわからない様に総合病院に連れていきました。
当時は、認知症と言ったら「アルツハイマー」しか、知られていなくて直ぐに、病名が付きました。薬も処方され、少しは改善しました。
(多分、レビー小体型認知症だったと思います)
ところが、その薬が3ミリ程の小さな錠剤で、一粒飲むと効きすぎて、母が錠剤を包丁で割って祖母に与えるのですが、量が少ないと全然効かず、
そのうち母がノイローゼになってしまいました。
祖母の病状は、良くなることはなく、徐々に
トイレも間に合わなくなり、オムツをさせると
オムツをいつの間にか外してしまい、汚物を周りに撒き散らした事もありました。
また、夜中に家を飛び出して、一度は近くの溝にハマっているところ近所の人に助け出され送ってきてもらいました。
窓も開かない様に、硬く閉めていたのですが、
凄い力で出ていくものですね。
違う時には、近所の家に夜、
「息子に殺される」と助けを求めて行った事もあり、日頃、近所の人にも祖母の事を知らせていたので事なく済みました。
これって必要な事でしょうね。
現在は、難しいかも知れませんけど、、、
近所の人には助けられました。
当時は、施設が無くて、病院に入院という形式でした。
ですから、祖母の病状が重くなり、私や母では
介護できなくなってきて、入院させたのですが、三ヶ月しか入院できず(今もあるみたいですが)三ヶ月入院しては帰ってきて、また、病院を探しては(中々空きが無くて大変でした)入院してもらっていました。
もうすでに、素人が食事させるとむせる事が多くて食べさせる事が困難になっていました。
骨粗鬆症もあった為、あんなにコロコロして、ドラム缶の様だった祖母は、ガリガリに痩せて、82歳の時、お正月に一時退院した時、車に乗せて帰る時も、車のちょっとの振動でも「痛い、痛い」と痛がっていました。
その正月、祖母の仲の良かった妹が癌だというので2人を会わせてあげました。
「認知症」の祖母はその時は、しっかりしていて大叔母と仲良く会話を楽しみました。
その年の2月に祖母が、4月に大叔母が旅立ちました。
その後、今度は母の「認知症」に向き合う事になるなんて思ってもみませんでした。
どんどん、寿命が延び、「認知症」も増えてくるのでしょう。
私も、いずれはなるかも知れません。
子供達には、迷惑かけたく無いなぁとは、思っているのですが、、、、
今日は、「敬老の日」
もうすぐ、私も祝ってもらう歳になるなぁと
思いました。
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