シェアハウス・ロック2407中旬投稿分

【Live】アイソメトリックス(トレーニング)0711

 まだまだ続く【Live】の記録更新である。「どこまで続く ぬかるみぞ」って軍歌があったなあ。こっちは、どこまで続くこの猛暑である。今朝起きたら、既に30℃だった。
 ここまで暑いと散歩ができない。よって、筋肉が衰える。
 そこで、それをなんとかしようと思い、中学生のころにやっていた簡易筋トレを思い出し、この一週間くらいそれをやっている。そこそこの効果があるんで、本日はそのお話を。
 筋トレといっても器具はなにひとついらない。自分の体だけあればよろしい。
 まず、一番簡単なやつから紹介する。右手でげんこつをつくる。左の手のひらでそれを受ける。右手で左の手を押し、左手で右の手を押す。思いっ切り押す。これを6秒間続ける。ただし、その間息を止めてはいけない。
 これだけである。ただし、これは初心者用。
 上級者になると、「ウォールシット(空気イス)」などというわざがある。これは、背中を壁につけ、その姿勢のまま腰を沈めていき、(空気)椅子に座った姿勢になり、股関節、膝関節を90度にして6秒。
 前述の初心者用は上半身だけだが、椅子に座って下半身を使うのもある。
 まず、椅子に座り、両膝脇を右手、左手で押さえる。右足で右手を押し、左足で左足を押す。足は開こうと力を入れ、逆に手は、足を開かせまいとする。これを6秒。
 これの逆もできる。同じ姿勢で、右手、左手を両膝の間に入れる。つまり、右手、左手で膝を割ろうとするのである。今度は、足は閉じようと力を入れ、手は開かせようと力を入れる。これを6秒。
 私は中学生のころ、突如肉体派に憧れ、エキスパンダー、鉄アレイ、腹筋運動、マラソンなどに入れ込んだ時期があったが、そのサイドメニューのような形で、この運動も取り入れたのである。
 いまでも、やれることはやれるのだが、なんという名前だかは完全に忘れている。で、「6秒間力を入れる」で検索したら、出てくる、出てくる。
 それが表題の、アイソメトリックである。
 isometricは、等大、等積、等容、等角などと辞書には出ているが、これだけではなんのことやらわからない。第一、これらは本当に日本語なのか。聞いたことも、見たこともない。
 どこやらのサイトには「等尺性筋収縮」とあった。これも初めて見る日本語である。感じはわかるけどね。
 アイソメトリックス・トレーニングは、前述でおわかりいただけたと思うが、筋肉や腱を意識すれば無限といっていいバリエーションが考えられる。それに、筋肉や腱を意識すること自体、体にいい気がする。
 たとえば、一番最初に紹介したものは、当然胸の前で手を合わせるのだが、これを背中側で手を合わせるようにすると、また別の筋肉が鍛えられる。
 ほぼ60年ぶりにやっているわけだが、効果はあるようで、腕が多少太くなってきた気がする。ただ、筋肉こそ間違いなくつくものの、筋力がつくのかどうかは、いまいちよくわからない。

 
【Live】右手と左手の関係0712

 まだまだ【Live】は続くぜ。ロックンローラーみたいですな。
 前回の、右手、左手で思い出したことがある。
 5年ほど前、オリジナル山下洋輔トリオ(山下洋輔(p), 中村誠一(as), 森山威男(ds))の『Dancing古事記』をいただいた。1969年7月の早稲田大学での録音で、全共闘が占拠しているなかでのライブである。ジャズ喫茶などではよく聞いたが、自分で持ってはいなかったので、聞いたのは40年ぶりだった。
 驚いたのは、山下洋輔の右手と左手がバラバラに動いていたことである。ラジオ体操じゃないんだから、あたりまえだろうと思わないでいただきたい。これから、縷々ご説明申しあげる。
 まず、ピアノ譜を思い出していただきたい。5線が2段になっていて、一番左で大ガッコみたいなので括られている。上の段にはト音記号が書かれていて、下の段にはヘ音記号が書かれている。大雑把に言えば、ヘ音記号のほうを左手が担当し、ト音記号のほうは右手が担当する。ここまでは、小学校の音楽の時間で習う。
 さて、この右手、左手が担当するメロディを声部という。つまり、またまた大雑把に言うが、右手の担当する声部、左手の担当する声部がある。原則としては、それぞれが独立しているが、たまたま連携する場合もある。「たまたま」だとめったにないように思われるかもしれないけれども、そうでもない。
 問題は、連携していない場合である。そういうときには、左手の担当する声部と右手の担当する声部が独立していなければならない。つまり、それぞれの声部が要求する音の動きを実現するためには、極端に言うと、右手と左手がそれぞれに声部の要求に従って、別々に動かなければならないのである。つまり、声部が要求していないのに、右手と左手が連動してはいけないのである。ところが、右手と左手はつながっているので、これはなかなか大変なことなのだ。
 このことをコンピュータで言えば、分散処理に近い。コンピュータでマルチタスクとか言ってるけど、あれはほとんど、疑似マルチタスクである。分周で処理している。CPUが2つ以上ないと、現実には本当のマルチタスクはできない。
 右手と左手が、それぞれの声部の要求に従って動いているというのがよくわかるのは、グレン・グールドと、マルタ・アルゲリッチの演奏である。彼らは脳だか、肩だか、どこかにサブCPUがあるんだろう。もちろん、曲によってであって、そういう要求のない曲もむろんある。
 山下洋輔の場合は、メロディはあってないようなものだから、わかりにくいのだが、やはりこれができていたんで、ビックリしたわけであった。
【追記】
 正司照枝さんが亡くなった。山下洋輔トリオは私ファンだったが、かしまし娘もトリオだし、ファンだった。冥福をお祈りする。
 
 
新書の世界0713 

 私が高校生くらいのころは、新書と言えばまず岩波新書だった。だいたい60年くらい前のことだ。それ以外に、中公新書、講談社新書はあったような気がする。
 岩波新書は、だいたいおもしろくなかった。学会の大御所が、「キミたち素人にもわかるように、やさしく書いてやろう。実際は、こんなもんじゃないんだけどね」といった根性で書くものが大半で(そんな感じだった。あくまで「感じ」ね)、こんな腐った根性で書かれたものが、おもしろかろうはずがない。しかも、上から目線がチラチラしている。中公新書、講談社新書は多少はましだったが、まあ大同小異であった。
 こういった潮目が変わったのは、紀伊国屋新書からである。だがこれは、「私の視線から、変わったとわかったのは」ということである。1970年のころの創刊だった。
 これはだいたいおもしろかった。山勘で言えば、岩波、中央公論、講談社あたりに大御所の著者は抑えられていて、新進気鋭の…といった人たちを起用したのではなかったか。staticの反対語はvividだと言いたくなるようなラインアップだった。
 いまでも憶えているのは、ギリシャのことを書いてある紀伊国屋新書で、あるギリシャ人が、あらゆる芸術を「文学」と「数学」に分類し、それぞれの分野に順位をつけていたということと、(演劇などの)ストーリーには62種類しかないと書いてあって、その62種類を全部(たとえば、「神への造反」とか、「神との和解」とか)書いてあったことである。どちらも相当にヘン。これが書いてあったのは、紀伊国屋新書であることは間違いないのだが、書名も、著者名も、まったく憶えていない。一冊の本だったかもわからない。
 ちなみに「数学」の一位は「建築」であり、二位は「彫刻」である。これは間違いがない。「音楽」も「数学」に分類されており、六位くらいだったような気がする。ちなみに、「文学」の一位は「詩」だった。
 これはなんとなく、その分類と順位付けをした古代ギリシャ人(名前を思い出せない)の気持ちがわかる気がする。「構築性」とか「構造性」を採点の基準にしているのだろう。
 アリストテレスとか、プラトンとか、アルキメデスとか、まともな人もいる(でも、まともな人でもヘンなことも言ってるけど)なかで、「諸子百家」みたいな状態なんで、ひたすらヘンな人も出てくるのだろうなあ。
 このヘンな人の名前も、それが書いてあった書名も、著者名も、いまとなってはまったくわからなくなっている。長い間、これが書いてあったのは『演劇の世界史』という題名だったのではないかと思っていたのだが、これはつい最近間違っていたことがわかった。『演劇の世界史』が古本市で手に入ったので、読んでみたのである。私は、本と音楽に関しては、相当に執念深い。
 新書は、その分野の素人が「そのこと」とその周辺を知ろうとするときに、ちょうどいいサイズである。しかも、前述のように潮目が変わったあたりからは、「どう説明したらわかりやすいか」「おもしろいか」に、各著者、編集者が腐心している様子もうかがわれる。 
 私は、古本市で「これが知りたい」というのの新書を大量に買っておき、片道2時間程度電車に乗るときなどに持って出ることにしている。往復で、だいたい読めてしまう。これも、新書のいいところである。

【Live】後期高齢者0714

 市役所から、「東京都国民健康保険高齢受給者証」というものが送られてきた。交付年月日(=発効期日)が令和6年8月1日となっている。ところが、有効期限が令和6年8月16日になっている。どう見ても、そうなっている。これはおかしい。どう考えてもおかしい。有効期間が16日間になってしまう。
 で、「受給者証」の裏に書いてあった番号に電話して、聞いてみた。そうしたら、おかしいのは私だった。
 すなわち、8月17日が私の誕生日であり、その日、私は75歳になるのである。つまり、めでたく後期高齢者の仲間入りをするわけで、そのときまでには「後期高齢者受給者証」が届くという。
「東京都国民健康保険高齢受給者証」が届いた封筒には、何枚か紙が入っていて、もしかしたらそこのどこやらに、このことは書いてあったのかもしれない。でも、そんなものを細かく読む人などまずいないだろう。書くんだったら、一枚別紙にし、「お誕生日以前に後期高齢者受給者証が届きます」と大書すべきだ。
 それ以前に、「東京都国民健康保険高齢受給者証」を届けるとき、一緒に「後期高齢者受給者証」を届けたらどうなんだろう。これなら一度の手間で済む。
 あるいは、「東京都国民健康保険高齢受給者証」に、「誕生日以降は後期高齢者受給者証となります」と一言入れておけばいい。これならさらに手間いらずである。
 どうしてこんなまだるっこしいことをやるのかの答えは、私にはひとつしか思い浮かばない。「後期高齢者受給者証」と、「高齢受給者証」とは担当が違うということぐらいである。
 でもねえ。これも行政改革の初めの初めくらいには相当するだろうに。また、多少気の利いた民間企業なら、QC運動とかでとっくに改革されているだろう。
 国や、地方公共団体も、少しはスリム経営にシフトしたほうがいいんじゃないだろうか。
 1980年くらいだったろうか。ギリシャという国家自体が破綻したことがあった。国家が破綻したらどうなるのか興味があったので、しばらく新聞を注意して読んでいたのだが、あまり後追いの記事は掲載されなかったような気がする。ただ、5人にひとりが公務員、もしくはそれに準ずる職業に従事し、それが破綻の引き金になったという記事は読んだ。国民4人で、ひとりを養うことになってしまう。そら、破綻するわ。
 八王子市と東京都は、サイフが微妙に違うのだろうけど、昔、東京都の予算が新聞に出ていたので、それを平均年収で割ってみたことがあった。やはり80年前後、東京都の予算は、欧州の小さめの国の国家予算に相当すると言われ出したころだった。結果は60万弱だった。つまり、当時の東京都では、それだけの人が税金で食べていたことになる。もちろん、これは相当に粗い数字で、しかも、水道局の下請けの下請けといった人たちまでもが含まれた数字である。もちろん、この人たちが税金で食っていたというつもりはない。のべで60万人ということである。
 今回の都知事選の関連で、東京都では現職が立候補して落選したことは一度もないという記事を読んだ。前述の割り算の結果で、これはなんとなく納得できる感じがする。つまり、現職に食わせてもらっている人が(のべ)60万人いるから、(のべ)60万が基礎票というわけである。現職が強いわけだ。

 
【Live】ガレキの街に立つ少年0715

 ここ数日、心なしか涼しい日が続いている。「心なしか」と書いたが、それは文章を書くときの単なる拍子であって、明らかに涼しい。まず、二、三日、クーラーをつけずに夜寝られるようになっている。昼間はさすがにつけるが、それでも、午前中はつけずに済むこともある。温度計を見ると、30℃をきっていることも、多々ある。
 梅雨寒という言葉があるが、多少はそれになっているのだろうか。
 昨日、我らがシェアハウスの近所でトンボを見た。だいたい東京近辺では、トンボは8月の中頃から見かける。子どものころから、そうだったような気がする。だから、ちょっと早い。特にアキアカネは、8月ごろには山にいて、9月くらいに里に降りてくる。ここが、やや山(標高60mくらいだろうと思う)だからなのだろうか。
 それにしても、ちょっと早いような気がする。でも、見たのは一匹だけだった。
 ああ、そうだ。トンボは一匹、二匹でいいのだろうか。というのは、『規則より思いやりが大事な場所で』(カルロ・ロヴェッリ著、富永星訳)で、チョウを「一頭」と書いてあるのを見たのである。富永さんがイタリア語から訳したか、英語版を訳したのかはわからないが、どちらにしても数助詞はないはずだから、これは富永さんの「しわざ」である。
 その段階では、誤植か、私の気の迷いか、なにか私の頭のなかでヘンなことが起こりつつあるのかと、たいして気にもしないでやりすごしたのだが、それから数週間して、『週刊文春』の「パンタレイ パングロス」(福岡伸一のコラム)でも、チョウを一頭と書いてあるのを見たのである。
 福岡伸一さんは、分子生物学者だが、昆虫少年あがりでもあり、じゃあ、チョウは一頭、二頭と数えるのかなと思いはじめたところなのである。もしそうだとしたら、この歳まで知らなかったことになる。まだ、ちゃんとは調べていないけど。
 で、トンボもそうなのかしらと、ちょっと疑問に思ったわけだ。
『シェアハウス・ロック0630』で、
 
 発泡スチロールの臨時水槽には(メダカの子が)200匹程度いて、どうしたものかと言ったが、この臨時水槽の連中は全滅した。

と書いた。
 臨時水槽2のほうは、水が汚れていたので替え、一昨日、ホテイアオイの処理のために覗いたところ、なんと、一匹だけだが泳いでいるヤツがいた。ガザ地区だか、ウクライナの街区だかを国連軍のジープで走っていて、ガレキのなかに立っている少年を見つけたら、たぶん、こんな気持ちになるのだろう。
 臨時水槽1のほうは、水も替えていないのだが、そこでも二匹発見し、臨時水槽2のほうでもう一匹昨日発見したので、全部で四匹が、いま臨時水槽で泳いでいる。
 もちろん、陶製の水槽(大、中)にいる連中も元気である。
【追記】
 今朝も臨時水槽1で、一匹発見!
 

【Live】ガサツな世間の風0716

 我がシェアハウスのおじさんは、歩くときに杖をついている。
 これは、シェアハウスで私ら三人が共同生活に入る直前からである。シェアハウスに移ったのが9月、その年の7月に、おじさん、おばさん、その友人連中は函館に行った。いわゆる、専門家が言うところの「旅打ち」というものである。
 この言葉は、阿佐田哲也さん、伊集院静さんの本などによく出てくる言葉だが、かたぎの使う言葉ではない。我々素人は、これを「賭博旅行」という。
 この連中は、かつて福岡への旅打ちのとき、競馬で芽が出ず、競輪に行くも芽が出ず、さらに競艇にまで行った。かたぎではない。さらに、飛行場の待ち時間に雀荘に繰り出し、賭け麻雀までやったという。私は、こういう連中を罰する法律がないのを不思議に思う。
 で、共同生活に入る直前の7月の函館「旅打ち」で、おじさんは腰の調子が悪くなり、車椅子で競馬場に行った。このおじさんの雄姿を、私は写真では見ている。罰する法律はなくとも、神の怒りには触れたのだろう。
 それ以降、おじさんは杖をついているが、去年、おととしくらいには、「安心料」として杖を携行していた。その程度には回復していたわけである。それが、ここのところ、また悪くなっている。
 数日前の夕食時、おじさんの腰の話になった。おばさんは、即、専門医に診てもらえと言う。いままでそういう話になったことはあっても、おじさんの答えは、だいたい「まあ、そのうち」というものだったが、本日か明日、別件で新宿の大病院に行くことになっているので、「そのときに、整形外科で診てもらう」というふうに変わった。
 まあ、おじさん、弱気になっているのかもしれないな。
 そう言えば、夕食時その話の前に、シェアハウス生活に入る前、おじさんがうつっぽくなったときの話をし出した。おばさんはその話を聞いていたようだったが、私は初めてだった。なんでも、そのころ、ひとりで家にいると(おじさん、おばさん、私は、近所ではあるが、それぞれひとり暮らしだった)、居ても立っても居られなくなり、衝動的に家を出て、どっかに行くことすらあったという。まあ、そこそこ深刻な状態だと思う。もっと深刻になると、どよーんとした感じで、暗いところにひとりでいたりするのだろう。こうなったら、ポイント・オブ・ノーリターンを越えた感じがする。
 で、おじさんは「いまは、二階にいるので、心強い」と言い、「いるので」のときにおばさんと、私を指さしたのである。私も員数に入っているのを初めて知った。
 私は、ひとり暮らしのときにはなんともなかったが、母親の介護をして母親の家にいた時期、この「心強い」を、ヘルパーさんたちに感じた。スーパーヘルパーとか、そういう人たちでもなく、ごく普通のおばさんたちなのだが、そのおばさんたちが出入りするので、だいぶ救われている気がしたものだ。
 当時、私は、「世間のガサツな風を運んでくる」というふうにおばさんたちの存在を言語化していたのだが、この「ガサツな風」がけっこう大事なことなのかもしれないな。
 
 
動物に言語はあるのか10717

 言葉(そのもの)と、その言葉の表す意味(中身)とは、どういう関係があるのだろうか。私が信奉する言語学の「流派」では、恣意的な関係しかないということになっている。
 では、言語とはなんなのか。これは問題が大きすぎる。初期マルクスだったら、「無意識から疎外されたものが言語である」などと言いそうな気がする。いくらマルクスにそう言われても、これではちょっとよくわからない。
 だから、もう少し答えられそうな問題の立て方をしてみる。言語を使うのは人間だけなのか。ここで、「なにを言語と言うのか」などと考えたら、三体問題のようになってしまうので、強引に、「動物が口から出す音」=「言語」とし、さらに強引に、それが「なにごとかを表すもの」としておく。
『週刊文春』(24.07.4)の「阿川和佐子のこの人に会いたい」のゲストは、鈴木俊貴さん(動物言語学者)だった。
 まず、鳥の鳴き声は囀りと地鳴きに分けられる。「ホーホケキョ」は囀りで、これは基本的にオスしか鳴かない。求愛用である。これは、「用途」がある。だから、言語かもしれない。でも、とりあえず「フェロモン」みたいなものとしておく。「恋は思案の外」と言う。「言語」が「思案」であることにはおおよそ異議があるまい。。
 それ以外の地鳴きのほうを、「言語に近い」ものと考える。とりあえずそうしておく。鳥では通常、これは三パターンくらいだという。「風呂」「飯」「寝る」である。これは冗談だ。いまどきこんなこと言ったら大変である。これも冗談だ。
 鈴木さんによると、シジュウカラはこの地鳴きが複雑で、録音したら200パターン以上あったという。
 上空をタカが通り過ぎたときは「ヒヒヒ」と鳴き、ヘビが来たときは「ジャージャー」と鳴くという。
 ホントかよ、とまず思うが、スピーカーで「ジャージャー」を流し、反応を観察したら、シジュウカラはヘビがいそうなところを探したという。でも、これだと「ジャージャー」=「探せ」の可能性も排除できないので、木の枝に紐をつけて動かし(つまり、疑似ヘビ)、「ジャージャー」ありなしで実験したところ、「ジャージャー」ありで有意に反応したという。
 つまり、「ジャージャー」=「ヘビ(単語)」ということになる。これは、分節化といい、実は非常に高尚な操作である。
 分節化以前を言えば、たとえば「グワッ!」「ブォッ!」などであり、これは人間が発してイヌ、ネコに通じる可能性はある。通じはして、イヌもネコも人間と一緒に逃げてくれるかもしれないけれども、意味は通じていない。というか、まだ意味には至っていない。通じるとしても、「なんかこうウオッ!」というところまでがせいぜいである。
 ところが、鈴木さんによれば、前述の「ヒヒヒ」は、スズメ、リスには通じるという。またまた、ホントかよであるが、もしホントだとしたら、私が少年時代愛読した「ドリトル先生もの」とほとんど地続きの世界が展開しそうな気はする。
 鈴木さんは、現在、東京大学先端科学技術准教授である。今後を、注目したい。鈴木さんの研究の先に、言語学自体がもっと先に進める可能性すらあるので楽しみである。

動物に言語はあるのか20718

 なんだかねえ、おっさん週刊誌で言語関連の記事がまた出たんだよ。おっさん連中が、突如言語に関心が出て来たのかねえ。そんなこと、ないよなあ。
 本日の話は、『週刊新潮』(24.7.11)の「全知全脳」(池谷裕二)にあったものだ。
 ニューキャッスル大学のバーテンショー博士らが15年前に発表した論文に、「名前を付けられたウシは乳の出がよくなる」というものがあるという。約3%よくなるという。「なんだ、3%かよ」と言わないでね。統計的には、これは有意な違いである。
 だけど、これは、名前で呼ばれたウシが喜んで、いっぱい牛乳を出したというよりも、一頭一頭に名前をつけるほど可愛がる飼育者のほうに、この有意な原因があると思われる。つまり、そうやって可愛がる飼育者に飼われているウシのほうがいい環境にあるはずで、牛乳もたくさん出すだろうよということである。これは、池谷さんも指摘されている。
 では、動物に名前をつけても、彼らにはわからないのか。
 そうでもないみたいである。たとえば、バンドウイルカやオナガインコは、相手の特徴的な鳴き声を真似ることでお互いを認識することが知られている。
 池谷さんは、これを「呼称」と呼び、「集団内において個体を識別する機能を持っているという点で『名前』に似てい」るとおっしゃるが、これは違うと思う。バンドウイルカやオナガインコには、自己意識があるとしか言えないと思う。
つまり、自己意識があるから、「自分の声」が聞こえたときに反応すると考えたほうが近いと思う。私ら人間で言えば、例えば、自分がいま黒い服を着ていることを知っている(これが自己意識)と、「そこの黒い人」と呼ばれたら、「えっ、オレ」ということになる。
 このあと、池谷さんは、(少なくとも私には)よくわからないことを言っている。

 たとえば、私の名前は「池谷裕二」ですが、「いけがやゆうじ」という音列は、私自身の声色や体型など、私が持つ固有の特徴を一切反映していません。

 ここは、言葉と意味(中身)の関係(=恣意性)をおっしゃっているのだろう。
 私の(頼りない)頭では、ここで池谷さんは名前の恣意性を言い、後に言うゾウのケースで、ゾウが恣意的であるはずの名前を呼び、他(子ども)のゾウが有意に反応したと続けていると読める。
 バンドウイルカやオナガインコは、「特徴的な鳴き声を真似ることでお互いを認識する」(ここまでは間違いない)が、「ゾウの声は、ある特定の個体の鳴き真似をしているわけでは」ないが、「特定の個体に向けて発せられていることがわか」ったそうである。
 そして、「録音した鳴き声をスピーカーで再生してゾウに聞かせたところ、自分の『名前』が流れたとき」により反応を示したという。
 これは、私には、「名前」ではなく、「声」に反応したのだと思われる。人間の赤ちゃんだって、母親が呼ぶ自分の名前ではなく、母親の声にまず反応しているはずである。
 ただ、池谷さんも、

 もちろん、この事実だけで「ゾウは名前で互いに呼び合っている」と断定できるわけではありません。

と留保をつけている。
 前回、今回と、動物と言語というとてもおもしろい話が、たまたま近接して発行されたおっさん週刊誌に出ていたので報告した。

『言語の本質』(今井むつみ/秋田喜美)0719

 この本は、前回、前々回のようなお話のだいぶ「先」のことについての本である。動物は出てこない。せいぜい、出てくるのは赤ちゃんである。
 当初、図書館で借り、付箋をつけながら読んでいた。図書館は付箋を禁止しているが、なーに、こっちは素人じゃない。文字を印刷していないところにしか付箋は貼らない。
 で、残すところ60ページぐらいまで進んだところで、タイムアップになってしまった。めずらしく他のことで忙しく、本を読む時間があまりとれなかったのである。待ちの人がいるので、連続しては借りられない。しかたないので、買うことにした。逆に言えば、この本はそれだけおもしろい本である。
 鹿島茂さんはこの本に対し、「オノマトペから出発して、言語の起源に漸近線的に接近した知的刺激に満ちた一冊」と言っている。「漸近線的に接近」てえのがいいねえ。高野秀行さんは「本書はむちゃくちゃ面白いうえ、びっくりするほどわかりやすい。複雑なことを単純化しているのではなく、ひたすら明晰なのだ」と言っている。これもいい。
 そのうちに、この本の紹介、書評をしようと思っているが、今回はその予告編である。
 オノマトペが豊富な言語というのは、実はあまりない。たとえば英語などでは、オノマトペ語源らしき言葉が、動詞になってしまう。だから、日本語で「くすくす」「ゲラゲラ」「ニヤニヤ」など副詞的に使われるオノマトペは、英語ではそれぞれ動詞と一体化してしまう。これは事実ではあるが、なぜかはわからない。
 ところが、こういった不可解なことが、脳内の活動と関連して起こることを、比較的最近に読んだ。だから、前述のことは、脳内の活動の結果なのかもしれない。
 そのことを説明する前提として、まず、とんでもない例を挙げる。がまんしてね。
 皆さんは、たとえばアメリカの映画を見ていて、人の名前が頻出するのに閉口したことはないだろうか。とにかく、やたら人の名前が出てくる。日本人としては、「あれ、ステファニーってのは、こいつの妹だったっけ」などと、記憶をまさぐることになる。これが多くなると、最悪、ストーリーすら追えなくなる。つまり、彼らは人の名前をおぼえるのが得意で、私らは不得手だ。
 彼らは、会話のなかにやたら相手の名前を出す。「もう学校は終わったのかい、トム?」みたいなことだ。これは、一種の親愛の表現であるそうだ。パーティで初めて会った10人を相手に、平気でこれをやる。通常の日本人は、これが苦手だ。
 前述の「比較的最近に読んだ」内容は、彼らがこれをやるときに使う脳の部分を、日本人は漢字を扱うときに使ってしまっているというのである。つまり、漢字かな混じり文をしゃべっているときに相当程度使いきっちゃっているんで、日本人は、相手の名前をおぼえるのが苦手だということだった。ホントかよと思うかもしれないけど、でも、そう書いてあったことはホントである。本当にホントかどうかは、私なんかにはわからない。
 言語はおもしろいが、そのおもしろさのひとつは、言語を考えはじめたらいろんなところに波及していくというところがあることである。いまお話ししたようなことは、ほんの一例だ。

 
【Live】マグロが安くなる?0720

 クロマグロが、少しは安くなるかもしれない。太平洋クロマグロの資源管理を話し合う国際会議で、30キロ以上の大型魚の漁獲枠を1・5倍に拡大する合意がなされたのである。10年前に絶滅危惧種に指定されたものの、翌年の漁獲規制導入の影響で資源量が大幅に増えたためだ。
 世界のマグロの5分の1は、日本人の胃袋に入るという。ここまでは、7月18日『毎日新聞』「余禄」による。
 その三千万分の1をはるかに超える量が、おじさん、おばさん、私の胃袋に収まる。おじさん、おばさんは異常と言っていいくらいマグロが好きなのである。
 もうそろそろシェアハウス生活になって8年になるが、こういう生活になってビックリしたのは、おじさんが一日テレビを見ていること、おばさんがほぼ一日寝ていることである。なにもすることがないときには、ほぼ寝ている。少なくとも横になっている。
 こういう生活に入る前に、私も12年間ひとり暮らしをしていたから、ひとつやふたつ、私にも奇怪な生活習慣はあるはずである。だが、いまさら直す気もないので、おじさんにもおばさんにも聞くことはしないでいる。
 そのほかにもビックリしたことはいろいろあるが、マグロをひたすら食うというのはビックリランキングの5番目くらいである。
 おばさんは食うものをはじめいろいろなことにうるさいが、マグロにもうるさい。「メバチはちょっと」「キハダはどうも」などと世迷い事を言っている。
 私は、マグロが嫌いではないが、好きでもない。前述のひとり暮らし期間に、誰かと外食するときなどには食べたが、自分の家で、自分の意思でマグロを食べたことは、おそらく二、三回ではないだろうか。
 マグロは言うまでもなく魚で、例のr-K戦略とやらで、卵をたくさん産む。タラやアジやイワシほどではなくとも、たぶんそれは間違いないはずで、上述の「翌年の漁獲規制導入で資源量が大幅に増えた」ことが、これを証明している。
 おばさんは、コロナ前には近所のスーパーのマグロ解体ショウでは、ショウの途中から列に並び、一万円分くらい買いあさり、それを冷凍しておいて順次食卓に出すということをやっていた。コロナで解体ショウができなくなってからも、売り出し時には同じことをやっていた。
 ところで、近畿大学だったと思うが、マグロの完全養殖に成功し、完全養殖マグロも店頭に並ぶようになってきた。これと組み合わせて、稚魚の放流などをすれば、さらに漁獲高は上がるものと思われる。
 世界中の日本食ブーム(というか、すしブームかな)や、中国人がマグロの味をおぼえた様子もあり、世界規模でのマグロの消費量は上がっていると思われるが、まだまだなんとかなりそうではあるようだ。

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