「終活とは?」
今日は、休みで妻と娘がいるので家の中が賑やかで、そんなことに気を奪われているせいか、いつものペースでここ「note」を書けない。
「書くということ」は「孤独」な作業である。
一人にならないと気が散って書こうとすることまで、忘れてしまう。
なかなか、一人っきりになり、ぼんやりとする時間を作ることは難しい。
ここ「note」ブログは、創作を含めて、日記でも書くごとくどんなに忙しくても書いて行こうと思う。
わたしの書く記事に「読者」がいるとは思えない。
わざと人から嫌われる「記事」を書くからだ。
心に「鬼」がいないと「作家」にはなれないし、何も書くことはできないと有名な作家先生から言われた。
作家先生という言葉は妙だ。作家の先生だろうか。
わたしの妻は、何でも先生を付けて呼ぶことを好む。
歯科医は、歯の先生、脚が悪く杖の代わりに傘を」使っている知人のエンジニアを傘の先生、絵の先生、まーじゃんの先生、カラオケの先生、という具合だ。
我が家では、みな位がある。わたしの父は、太政大臣、妻は、大納言、わたしが、中納言、娘が少納言、弟が近衛兵と呼ばれている。
なぜか、医師なのに弟が一番低いくらいだ。
医大が私立の五流医科大で、しかも、億という多額の寄付金を支払い、お金ちゃんで入学したせいだろう。
弟は、クリニックを経営し患者を診察しているが、どこの大学を出たか、患者さんが知ったらみな飛び散るように消えていくだろう、そしてクリニックは閉院となると本気で思っている。
最近、家族に「終活」をした方が良いと言われる。
確かに残りの生命の時間は短い。
若い頃は、死のことなど考えず、無限にいつまでも死なずに生きているつもりでいた。それが、後、ほんの数十年となってしまった。
死ぬことは怖い。経験できないからだ。
全く未知の世界だ。
わたしは、医師の父から子供の頃教わったように土になると考えている。
人間にはライフサイクルがあり、さらに生き物にも始めと終わりがあるのだから仕方がない。
家族の言うわたしの「終活」とは、「遺言状」「形見を整理する」「お葬式の参列者」「式の規模を決める」ということではないのだ。
つまり、玄関から溢れんばかりに積み重なっている書籍を捨てて欲しいということなのだ。
本一冊一冊には、それぞれ秘めた思いがあり、「断捨離」と同じにはできない。その辺りが妻にはわかっていない。
妻は、コロナで家にいることが多かった時、衣類の断捨離をした。要らない洋服を思い切って処分したのである。
しかし、その後に、「あなた、わたし衣類の断捨離をしたので新しいお洋服を買わせてもらいますから」と来た。何のための「断捨離」かわからない。
そもそも、「終活」と「断捨離」は違う。
一体、「終活」=「断捨離をすること」と誰が決めたのであろうか?
軽薄なマスメディアであろう。
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