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30年日本史00603【鎌倉前期】法然と浄土宗 一念か多念か

 建永2(1207)年2月。後鳥羽上皇の命により、法然や親鸞(しんらん:1173~1263)といった浄土宗の僧たちが流罪となりました。この事件を「承元の法難」といいます。「承元」と改元されたのはこの年の10月なので、本来は「建永の法難」と呼ぶべきなのですが、「承元の法難」の名で知られている事件です。
 ここで、法然と親鸞の生涯について紹介しておきましょう。
 法然は、長承2(1133)年4月7日、美作国久米(岡山県久米南町)に産まれました。
 天養2(1145)年に比叡山延暦寺で修行を始め、承安5(1175)年に
「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる」
との自説を唱え始め、多くの門徒を得るようになりました。法然自身が「浄土宗」という名を名乗ったわけではありませんが、その教えはその後「浄土宗」と位置付けられ、法然はその開祖とされています。有名な弟子としては、後に浄土真宗の開祖となる親鸞のほか、熊谷直実、九条兼実、宇都宮頼綱などがいます。
 法然の教えの特徴として、厳格な戒律を設けず柔軟であること、また多様な考えを許容することが挙げられます。
 例えば徒然草第39段には、
「念仏中に眠くなることが多いのですが、どうすればよいでしょう」
と相談した弟子に対して、法然が
「念仏は起きているときに唱えればよい(眠いときは寝ればよい)」
と答えたとのエピソードがあります。
 また、当時の浄土信者たちが悩んだ「一念か多念か」という問題がありました。念仏は一回だけしっかりと唱えるのがよいのか、何度も繰り返し唱えるのがよいのかという問題です。
 法然自身は「一念で往生できる」と言いつつ多念も薦め、どちらかに偏ってはいけないと主張しました。一貫性を持つことよりも、多様な考えを許容することに重点を置いているものと思われます。
 ちなみにこの時代以降、「南無阿弥陀仏」をいかに多く唱えるかが競われるようになり、鎌倉時代末期の善阿(ぜんあ)は疫病退散を祈願するため七日間で百万回の念仏を唱え、その地が「百万遍」と名付けられるようになりました。百万遍(京都市左京区)は現在、京都大学のある場所として知られています。
 こうした柔軟さが、厳格な戒律を設けている既存の宗派の僧たちには受け入れがたかったのでしょう。法然の教えは民衆から多くの支持を得る一方で、延暦寺・興福寺などからはひどく忌避されるようになっていきます。

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