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オオサンショウウオに沼った展-京都水族館企画展示-(2023/11/26)

1.初めに

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。IWAOです。2023/11/26に、京都水族館へと行ってきました。今回の目的は、オオサンショウウオに関する特別展「オオサンショウウオに沼った展」を見ることになります。オオサンショウウオとは、何者であるのか?その意外な一面をしることのできる展示であったと感じました。


2.構成

 オオサンショウウオとは、何者かについて紹介していきますが、まずは、「生物的」な側面から紹介していきます。その次に、今回の企画展示について紹介していきます。この企画展の内容は、2章の構成となります。私が、個人で調べたことも載せるので、オリジナリティの強いブログになります。よろしくお願いします。

3.オオサンショウウオとは何者か(生物面から)

 オオサンショウウオは、学名を「Andrias japonicus」と言い、オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属に分類される両生類で、日本国内だけでなく、世界最大級の両生類です。京都水族館では、体長150センチ、体重33キロの個体が、最大個体として、展示されています。オオサンショウウオの生息地は、川の中流から山間部の谷川、いわゆる「清流」と言われる所です。また、日本全体で見た場合、西日本、特に、岐阜県より西の近畿や中国地方で多く見られ、四国と九州の一部の水系にも住んでいます。つまり、日本各地の川で、山奥に行けば会えるわけではないということです。また、オオサンショウウオが、川と川を横断するほどの移動能力はないので、その地域の環境に適応し、進化してきた存在でもあります。

この個体が、京都水族館の最大個体だと思われます。
下の青い15㎝定規と比較すると尋常ではないデカさだと分かります。

 オオサンショウウオというと「生きた化石」という言葉も思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。オオサンショウウオの祖先種にあたる化石は、2300万年前の地層から見つかっていますが、その祖先種と現在のオオサンショウウオで、姿・形があまり変わっていないことがその理由になります。2300万年は、日本列島ができる前の時代で、その時から生きているため、彼らの体は、日本だけでなく、地球の歴史も組み込まれているのではないでしょうか。
 
以上の点から、日本でも一部の地域にしか生息していないことに加え、2300万年という非常に長い歴史を姿・形を変えずに生きてきたことゆえに、「特別天然記念物」に指定されています。つまり、「日本の自然の宝」です。
*体の中がどうなっているのかを知りたい方向けのサイトがあります。
こちらも、是非、ご覧ください。

オオサンショウウオのの全身骨格です。
(*アクアピア芥川にて撮影)

4-1.オオサンショウウオ、私たちのそばにいる生物

 オオサンショウウオというと、皆さんは、「山奥に住む川のヌシ」、つまり、「秘境に生息する生物」とイメージする人も多いと思われます。確かに、生息地の中心地は、「清流」になるため、涼しく冷たい川に生息していると考えるのも当然です。しかし、以外にも私たちの生活圏の近くにまで来てくれることがあります。増水などで河口近くまで流されたり、自ら降りてくるなどとして、近くで会うことができる可能性があります。その時は、マスコミなどのニュースでも取り上げられるくらいです。

 では、昔の人たちは、オオサンショウウオのことを何も知らなかった、又は、不気味で怖い生物かと思っていたのかというと、そうとも限りません。むしろ、私たちに身近な存在として見られていた面も無視できません。身近な存在だったことを示す一例が、オオサンショウウオの地域名での多さです。特に、代表的なものは、「ハンザキ」になります。他にも、「アンコウ」「ハガコ」「ハジクイ」「ハダカス」…と非常に多くの地域名がつけられています。「ハンザキ」の場合、体を半分にしても生きていけるくらいの生命力の強さが、名前の由来になっているそうで、「ハダカス」の場合、肌にカスのようなものがついていることが由来しています。このように「何故、その名前が付けられたのか?」という名前とその過程が、非常に多様です。地域名の多さは、各地域が、オオサンショウウオと「どのような付き合いがあったのか」や「彼らをどう見ていたのか」を示すものの一つになると思います。つまり、オオサンショウウオと地域の関係性を示します。それぞれの地域で、オオサンショウウオとの歴史が作られていた証明の一つが、オオサンショウウオの名前の多さにあるのではないでしょうか。
 
オオサンショウウオは、日本の文化にも利用されます。その一つは、「和歌」です。夏の季語として、「山椒魚」が使われます。オオサンショウウオを用いた和歌は、歴史上多くの人に読まれ、京都水族館では、「与謝野晶子」「与謝野鉄幹」「北原白秋」などと名前だけでも聞いたことがあると思う人たちがいます。

水槽の山椒魚ば抱き上ぐる 裸体の人を山かぜの吹く   (与謝野晶子)
山椒魚三尺なるを湯のあるじ 抱きて示しぬ地の謎のごと (与謝野鉄幹)
青梅街道の春いまだ浅し山椒の魚提げて来る 小さき爺に会いにけり
                           (北原白秋)

*京都水族館のパネル展示より一部引用

 今では、絶対に考えられないことですが、オオサンショウウオは、かつては、「食用」として利用されていました。実際に食べたことのある人たちの声としては、「アンコウみたい」や「トリのささみ」などとの評価がありました。その中でもひときわ目立つ食に関する評価があります。芸術家である北大路魯山人氏による評論です。実際に食した感想は、「スッポンのアクを抜いたようなスッキリした味」と評し、変わった食べ物の中でももっとうまいものと答えたそうです。

・北大路魯山人氏についての簡単な紹介が、このサイトにあります。

 戦中~戦後の時期は、特に、食料事情が悪かったため、貴重なたんぱく源として重宝されていた時があり、ある時では、結核や赤痢の治療薬として食されていることがあったそうです。

4-2.史料から読み解くオオサンショウウオ(*筆者調べ)

  オオサンショウウオについては、歴史上の文献上での記録も多く残っています。残っているもので最も古い記録は、『日本書紀』で、以下のような記述があります。

二十七年夏四月四日、近江国から、「蒲生川に何か不思議なものが浮かび、形は人のようにも見えます」と言ってきた。
秋七月、摂津国のある漁父が、堀江に網をはっていた。何かの物が網にかかった。その形は、赤子のようであり、魚でもなく、何とも名づけられなかった。

宇治谷 孟『日本書紀(下)全現代語訳』 111~112頁より引用

 『日本書紀』以外でも、オオサンショウウオに関する記述はあり、その中でも、記録が多いのは、江戸時代以降の記述になります。『和漢三才図会』という江戸時代中期に書かれた百科事典では、以下のように記述されています。その中で、私が注目したのは、『本草綱目』や『日本後記』が引用されているという点です。『本草綱目』は、中国、明の時代に李時珍によって記述された本草学の書物で、日本には慶長12年(1607)伝来しました。『日本後記』は、「六国史」の一つで、792年(延暦11)からり833年(天長10)までの桓武、平城、嵯峨、淳和の四天皇の時代42年間の記録を編年体でまとめられたものです。『日本書記』の記述を含め、オオサンショウウオが、人の目の前で見られた存在であることが、これらの記述から分かります。

鯢(さんしょういお)
『本草網目』(*鱗部、無鱗魚類、鯢)に次のように言う。鯢・テイ(*変換に出てなかったです。魚+帝)の二種がある。(渓澗中のものを鯢という。江湖中のものをテイという。)形色は鮎(*ここでは、ナマズと読む)のようで、また獺にも似ている。四足で腹は重くて袋のように垂れ、体は微紫色。鱗は、なく鮎と類似している。かつて腹を剖いてみると、中に小蟹・小魚・小石数個があった。ただし、腹の下の翅の形は、足に似ていて、よく樹にのぼる。声は小児の啼く要である。(それでまた鯢ともいうのである)。その膏は、燃やしても消耗ない。肉(甘で毒がある)、と。
思うに、鯢は、京洛の山川や丹波・但馬の各処にいる。頭面は、鮎に似ており、身体は守宮虫(*いもりと読む)に似ている。少し山椒の臭いがあるので、山椒魚という(伝えによれば、これを食べるとよく膈噎(のどのや胸のつかえ)を治すというが、まだ試していない)。
『日本後記』によれば、延暦十六年(797年)八月、掖庭(おおうち)の溝で魚が獲れた。長さは、1尺6寸であって形は普通の魚とは異なっていた。ある人は、椒魚で深山の沢中にいる(ものだ)、といった、とある。

寺島良安『和漢三才図会(7)』(島田勇雄 訳注) 平凡社 1987年 より引用 

 上記の記述以外にも、下記のような記録があります。これらの記述は、オオサンショウウオについてどこで獲れ、どのような姿・形をしているのかについて記述されています。また、実際に描かれたオオサンショウウオの図譜(*デザイン)も載せていきます。

① 今年六月十二日に、水車の間にいたのを大勢の人がそれぞれに用意し捕獲した。その姿形は図の通り。全体は、鮎に似て鱗はなく、四足。前は、四指、後ろは、五指で爪は無い。長さは約155.8㎝、胴回りは訳57㎝。全身にイボがありヒキガエルのようで、肌はいたって柔らかくぬめりがある。色は黄黒で斑模様がある。夜は実に子供の声で鳴いているようだ。

「江戸末期の博物図譜におけるオオサンショウウオ」 292頁より引用
*奥蔵魚仙 『水族四帖』の記述

② 右図の魚は今年享和六年十二日に、石神井川下流の板橋駅の水車にて捕獲されたもの。口は大きく目は小さい。皮膚は、ぬめりがあり黒の斑模様、栗のような黄褐色を帯びている。体長は約155.8㎝、胴回りは約57㎝ある。前脚の伊比は四本、後ろは五本。

「江戸末期の博物図譜におけるオオサンショウウオ」 294頁より引用
*小野羅山『魚譜』の記述
①の図譜(『水族四帖』)
(https://dl.ndl.go.jp/pid/1287211/1/1  より引用)
*オオサンショウウオの真下にいるのが幼体、左側にいるのはハコネサンショウウオです。
②の図譜(『魚譜』)
(https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2540510/1/38  より引用)
②の図譜(『魚譜』)
(https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2540510/1/38  より引用)
②の図譜(『魚譜』)
(https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2540510/1/38  より引用)

 記述も図譜も「指の数」、「ぬめり」、「目の小ささ」、「口の大きさ」などとオオサンショウウオの特徴について言及されています。つまり、実際のオオサンショウウオを観察した上で記述と写生が行われたことが分かります。『水族四帖』の図譜では、ぬめりを表現するために雲母を使用していると指摘されています。その上、『魚譜』では、口の中を白く描いていることからも、実際のオオサンショウウオを観察して描かれたのではないかと考えられます。私もこれらの史料を読んで、よくここまで見たなと感服しました。

オオサンショウウオのオオサンショウウオの大きいあくびです。
口の中は、白いです。

 他にも、オオサンショウウオについて、「人のよう」「魚」などと書かれていることも注目されています。『和漢三才図絵』で、オオサンショウウオの記述を探した時は、魚類の章に入っていました。つまり、昔の人たちはオオサンショウウオは、魚の仲間と認識していたことです。現在の自然科学が一般的になる前の人たちは、生物をどう見ていたのかが、分かる非常に興味深い一例ではないでしょうか。下の表に、オオサンショウウオが、見られた際の記録を載せます。以外にも人前で見られていたことが分かります。

「珍禽異獣奇魚の古記録」 52~53頁を基に作成

 今は、「科学」を通して、世界を見ていますが、当時は、まだそこまで一般的でなく普及も限定的な社会だったと思われます。オオサンショウウオを知るには限られた手法で、ここまで知ることのできた昔の人たちの観察眼の鋭さも知ることができたのではないでしょうか。

5.オオサンショウウオの神秘性

 先程の説明で、オオサンショウウオは、以外にも人ととの接点があることが分かりました。それゆえ、オオサンショウウオは、簡単に接し、会うことのできるような感じも持った人もいるかもしれません。しかし、オオサンショウウオを見ていた面は、「身近さ」だけではありません。何らかの「神秘性」や「謎」も同時に兼ね備えた存在でもありました。まず、江戸時代では、オオサンショウウオが、発見・捕獲される度に、将軍に上覧されたり、見世物にされたりしていたため、近くにいながらも強烈な印象を残したことがうかがえます。大きな話題になるのは、現代だけではなかったということです。
 また、オオサンショウウオは、神様として扱われることもあり、何か神秘的なものを兼ね備えた存在として見られることもありました。岡山県真庭市豊栄向湯原では、「はんざき大明神」として祀られています。長さが、3丈半(約10m)もある非常に大きな大はんざきが、人を襲って食べていたため、それをやっつけた若者、三井彦四郎がいました。その大ハンザキをやっつけた後の三井家では不幸が続き、皆死に絶えてしまったそうです。村人は、これを大はんざきの祟りだと恐れ、氏神の境内に祠を建てたという伝説です。毎年8月8日に「はんざき祭」が行われ、伝説にあやかった全長10mのねぶたや全長5.5mの山車が、町内を歩くそうです。

水族館内で、作られたものです。
このようなものを作り、オオサンショウウオを祀っていました。

 オオサンショウウオの神秘性は、「文学」の世界にも反映されています。井伏鱒二氏の『山椒魚』という小説の題名だけでなく、太宰治の『黄村先生言行録』やチェコの作家のカレル・チャペックの『山椒魚戦争』においても物語のキーマンとしての位置づけがなされているそうです。

 オオサンショウウオの神秘性に取りつかれたのは、日本人だけでなく、外国人もいました。その外国人は、シーボルトです。シーボルトは、日本に来て医学を教えていたのですが、その傍らで日本の生物、地理、歴史についても研究を行っていました。日本について研究している中で、最も刺激を受けたのが、オオサンショウウオと言われています。シーボルトの『日本動物誌』には、オオサンショウウオの写実がある上、長崎から江戸へ参府した際の日記にもオオサンショウウオに関する記述があります。『日本動物誌』の写実は、非常に精密にできており、このまま動きだしてもおかしくないくらいのものになっていました。

三月二七日…(中略)…私は、彼の骨折でたくさんの山の植物と1匹の珍しいオオサンショウウオを手に入れた。すなわち山に棲息する魚で、鈴鹿山、とくにオクデ山の渓流にいるもので、そこからときどき岸の湿地にやってくる

シーボルト 『江戸参府紀行』 165~166頁より引用
下記サイトから引用
https://adeac.jp/fukuoka-pref-lib/top/topg/theme/siebold/fauna_japonica.html
下記サイトから引用
https://adeac.jp/fukuoka-pref-lib/top/topg/theme/siebold/fauna_japonica.html
下記サイトから引用
https://adeac.jp/fukuoka-pref-lib/top/topg/theme/siebold/fauna_japonica.html

 ヨーロッパでは、とうの昔に絶滅していたため、日本で生きている姿が見えるとは思いもしなかったでしょう。日本から2匹を手に入れ、そのうちの1匹は、50年近く生きた記録があるそうです。生命力の強さを感じますね。
 江戸時代から明治時代にかけて様々な目的で日本に来る外国人がおり、シーボルトもその一人でした。大森貝塚を発見したドワード・S・モースやナウマンゾウを発見したハインリッヒ・エドムント・ナウマンも、本来は、お雇い外国人として来日し、日本へ学問を教えると傍ら、日本の歴史、地理、文化、民俗について研究していました。彼らは学者ですが、何故、日本についてコレクションし、研究をしたのかという行動の原点には、「日本という国の異質さ」があったのではないかと思います。彼らの国であるヨーロッパ、アメリカだけでなく、中国と比べても日本には違いや独自性があります。これは、歴史、文化などの社会的な面だけでなく、自然においても同じであったと考えられます。何が違い、どう違うのか、その違いはなぜ生まれたのかを知りたい、見つけたいという思いから、日本を研究したのであり、オオサンショウウオもその一つになるのだと思います。

 私は、「オオサンショウウオの何が人を惹きつけるのか?」を考えた時に思い浮かんだのは、「人に近いが、人ではない」という点に当たるのではないかと感じました。先程の歴史史料の記述からも「人」「赤子」などとの記述がありましたが、見た目や生態は、「人」とは遠いです。他の歴史史料の記述から、「樹にのぼった」や「万能薬」などもあり、どう見ても事実とは違うものもあります。2本の手と2本の脚があり、それが人っぽさを表すかもしれませんが、生態などからどこか違うと感じさせつつ、生態などもよくわからなかった当時では、伝説や想像が生まれるようになったのではないでしょうか。

6.オオサンショウウオ、日本から消える

6-1.オオサンショウウオは内側から破壊される

 オオサンショウウオは、今、「日本」から姿を消そうとしています。その要因は、「交雑」です。下のグラフは、京都のある実情を示すデータになります。これは、何を示すデータでしょうか?

展示パネルをもとに作成

 このグラフの答えは、「外来種のチュウゴクオオサンショウウオとの交雑」個体の割合です。調査で獲られた個体の「90.3%」は、チュウゴクオオサンショウオとの交雑の割合で、「8.1%」は、チュウゴクオオサンショウオの割合になります。このグラフからは、純系の日本のオオサンショウウオは、残りの1.6%(個体数にして4匹)分しかいないということを示しており、外来種にとって代わられているということになります。つまり、遺伝子汚染・攪乱が起こっているということです。『和漢三才図絵』を含む歴史史料で、オオサンショウウオが、京都に生息していることが記述されていました。それゆえ、京都ならではの関係性を築いていたのではないかと思われます。そのオオサンショウウオが、京都から消えようとしています。
 ただ、京都の場合、交雑が発生した時期が、「生物多様性」と生物多様性を構成する「遺伝子多様性」が、どういうもので、何故守っていかなければならないのかが、まだわかっていない、一般的でなかった時に発生しました。それゆえ、私は、京都のオオサンショウウオの交雑問題を起こした側を強く批判することはできません。だから、手を打たなくていいというわけではありませんが、今からでもチュウゴクオオサンショウウオとの交雑をなくしていく努力が求められ、このようなことを今後してはならないという教訓にすべきだと思います。

「京都」の「純系」の日本のオオサンショウウオです。
しかし、京都水族館ではこの個体のみの展示でした。
ここでまんじゅうみたいに重なっているオオサンショウウオは、
全てが、交雑かチュウゴクオオサンショウウオです。

*下のリンク先での統計でも、チュウゴクオオサンショウウオとの交雑の多さに驚かされます。

*オオサンショウウオとは何者かと危機について非常に簡単で詳細に解説されている動画は、うぱさんのこの動画です。ここまでの内容の復習にも丁度いいので、是非、ご覧ください。

 しかし、私が、オオサンショウウオの交雑で、最も話したいのは、「京都のオオサンショウウオが交雑だらけ」という話ではなく、「交雑が全国に広がっている」点です。京都の場合は、交雑しきってしまい、突飛で酷い状態になってしまっている事例ですが、日本全国のオオサンショウウオが、京都のようになろうとしていることです。今年の10月では、岐阜県下呂市で交雑個体が見つかり、さらに12月で木曽川でも交雑個体が発見されました。その上、去年は広島でも発見されています。交雑個体が、最近、相次いで見つかっているのが実情です。これらの事例だけでなく、交雑が、全国に浸透していることを示す内容もあります。このままだと、日本のオオサンショウウオが、消えることもおかしくないです。

 交雑種は、京都、三重、奈良、岡山でも確認されており、清水准教授は「山口、島根、鳥取でも確認されるのは時間の問題」と指摘。「100年、200年先には在来種がいなくなることも現実的に見えている」と危機感を示す。

https://www.asahi.com/articles/ASQ7G66YMQ71PITB004.html  より引用
こちらは、琵琶湖博物館の個体です。
残念ながら、こちらも「交雑」個体です。
めちゃくちゃでかかったです。

*オオサンショウウオ以外だと、コイも交雑が最も深刻な生物です。興味があれば、こちらもご覧ください。

 交雑の最大の問題点は、「何が起こるのかわからない」ということです。そもそも交雑で種や地域個体群がどうなるのかは、不明です。しかし、最悪、避妊個体を作って子孫ができなくなり、その地域からオオサンショウウオが、消えるというシナリオがありえます。これ以外にも、チュウゴクオオサンショウウオの遺伝子が混ざることで、日本の地域の河川で生き残るための遺伝情報が薄められ、それが、個体数の減少や絶滅に繋がる可能性があります。交雑による遺伝子汚染・攪乱は、「体の中に核兵器と時限爆弾がうめられ、両者が同時に爆発する」という危険性があります。日本の自然で生きてくために作られた遺伝子情報が、交雑によってなくなってしまいます。それが、オオサンショウウオがいなくなり、日本の自然を破壊することに繋がりかねません。

 オオサンショウウオの交雑の問題が、深刻になっているからこそ、外来種問題において世間に対して完全に誤解と分断を与えるような尊師らの教えに影響されないでください。特に、交雑においては、「遺伝子の多様性を高めるために非常にいいことだ」や「交雑で強い個体が生まれる」という誤った内容が発信されています。ハイブリッドを作って、別れたものをぐちゃぐちゃに混ぜることは、多様性ではありません。まして、交雑で強い個体が、生まれるのもそもそも「雑種強勢」の個体である可能性が高く、それをあえて触れてないのではないかと思わざるをえません。かいぼりなどで活動をされている久保田潤一氏は、自身の著書で、下記のように苦言を呈します。現場を見ている人が、このような注意喚起をされるということは、誤った認識が、世間に浸透していることに対する危機感の表れでもあると思います。
*また、私が、過去にクワガタの外来種問題で、遺伝子汚染・攪乱についての問題点と誤解について解説しました。こちらも是非、ご覧ください。
 交雑がオオサンショウウオに与える影響は分かりませんが、実際に別の生き物では、子孫が残せなくなるという悪影響が、日本で起こっています。そのような悪影響が発生しているにも関わらず、自身の立場を利用して明らかに逆行した発信を行うことに対しては、報いを受けるべきです。そのような発信を止めないのなら、影響されてはいけない悪の権化として、どのような傷を負おうとも永遠に「批判」という石を投げ続けられるべきだと思います。

世の中には、専門家・学者の肩書を持ちながら「外来種を悪者にするな」「駆除する必要はない、受け入れろ」という発言をしている人たちがいる。また、そうした論調の専門書っぽい書籍も存在する。しかし、非科学的な感情論なので注意が必要だ。…(中略)…
 こうしたことを発信する人は、種数が増えたり交雑したりすることが生物多様性を高めると思っていたり、外来種問題と人種差別問題を混同していたりすることも多い。いずれも、生物多様性やその保全という概念の理解が間違っているので、影響されないでほしい。

『絶滅危惧種はそこにいる 身近な生物保全の最前線』96頁より引用

6-2.オオサンショウウオは危機でもあり脅威でもある

 ここまでの記述で、オオサンショウウオが交雑によって消えてしまうという危険を理解できたと思います。うぱさんの動画にもあるようにチュウゴクオオサンショウウオは、日本では外来種として猛威を奮っていますが、現産地の中国では、絶滅寸前で、日本の方よりも絶滅の危険性が高いとも言われています。食用としての乱獲が、絶滅の原因と言われてますが、養殖個体を各地に放流しており、遺伝子攪乱も深刻化していると考えられます。外来種というと、世界中に進出し、大繁栄をしている生物と思われるかもしれませんが、現産地を見ると絶滅に危機にあり、「強い」とは言えない生物であることがわかります。

 しかし、「日本の」オオサンショウウオも、生態系を破壊するリスクも持っています。「国内外来種」として脅威になっているということです。NHKでも記事になっており、こちらでは、地域住民が、オオサンショウウオのいる川をこれからも守り続けていくことを好意的に紹介しています。活動としては、非常にいいものですが、本来はいなかったものでもあるため、私は、いいものだと見れません。オオサンショウウオは、河川の生態系では、頂点捕食者に当たります。現地の本来の生態系を考えた場合、オオサンショウウオのような頂点捕食者の位置は、何段階も飛び越えたものになることが予想されます。よって、オオサンショウウオに対して、在来の魚が、無防備で、対抗手段がないままやられてしまうのではないかと感じました。また、和歌山県のレッドリストでも、人為的な移動を非常に危惧している記述があります。結果的に、和歌山県にオオサンショウウオがいるが、本来あってはならない過程で、オオサンショウウオがいることを忘れてはいけません。

・・・和歌山県では、かつて伊都郡高野町大滝で生息し、産卵していたが、1953年の豪雨による水害のため、この谷川が埋没し、生息は見られなくなった、という記録がある(大上常太郎,1955)。
 その後も、和歌山県内各地でオオサンショウウオの発見記録があるが、いずれも1個体のみの発見であり、自然分布とは認めがたい。現在、古座川町の平井川で生息・産卵しているが、これは、1958年に兵庫県生野地方から複数個体を持ち帰ったものが、その後、平井川で生息・産卵するようになったことに由来する。こうした人為的な移入のないよう、今後は十分に注意すべきである。

和歌山県レッドリストより引用
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/032000/032500/yasei/reddata.html  

・国内外来種の脅威、国内外来種の危機と脅威については、うぱさんのこちらの2本の動画が、非常に分かりやすく解説されています。是非、ご覧ください。

7.まとめ

 以上が、オオサンショウウオに沼った展についての解説でした。私が、調べた内容も多く含んでしまったのですが、オオサンショウウオとは何者かとその現状を同時に知るきっかけになれたと思います。今回の内容は、「文化」「歴史」のオオサンショウウオが中心です。ここでの展示を見るまでは、「山奥に潜み、何かあった時に出てくる奇妙な生物」と思っていました。しかし、歴史史料の記述の多さからも人との接点の多い生物と分かります。同時に、オオサンショウウオのような生き物もいないことから、「神秘性」というものも感じとることができます。こんなことあり得ないだろうという記述もありますが、それは、「オオサンショウウオをどう見ていたのか」や「生物をどう見ていたのか」を反映する表れ、つまり、昔の人たちの世界の見方を反映するものではないでしょうか。現在でも、オオサンショウウオについては分からないことが、多いです。「成長速度」や「性成熟はいつか」などです。科学で分かったことがある反面、分かってないことはまだあります。そういうのを含め、オオサンショウウオは、人を惹きつけてくれると感じます。

過去の写真ですが、京都水族館では、幼生のオオサンショウウオの成長記録が、とられています。
毎日、記録が変わるので、こちらも日々の楽しみだと思います。

 オオサンショウウオの危機として、交雑を取り上げました。交雑によって「歴史」を失うことを感じてほしいと思います。交雑で生まれたオオサンショウウオは、本来からそこにいたオオサンショウウオとは言えません。まして、人為的な原因で混ざった個体の存在によって、その地域で作られたオオサンショウウオと自然の歴史は、消えてしまいます。また、オオサンショウウオは、日本人と関係を深く持ち、歴史を作りました。これまで日本人が作ってきたオオサンショウウオとの歴史は、「その地域に土着したオオサンショウウオと作ってきた歴史」です。交雑に置き換えられたオオサンショウウオになってしまっては、オオサンショウウオとの歴史は「切れた」と感じます。オオサンショウウオと作る歴史は、「これまでの自然に対して、どう生きていくのか」と「どのようにして人との関係性を作ってきたのか」この2つが繋がっていないといけません。「遺伝子」と「人との歴史」は、同質のものではないですが、「積み重ねてきた」という点では、同じものです。純系の日本のオオサンショウウオを交雑という内側から破壊する行為から守っていき、未来に向け、オオサンショウウオとの歴史が作られることを願います。

 今回の企画展示に行った丁度1年前にも京都水族館にいってました。その時は、京都水族館は、どのような水族館かをまとめました。こちらも是非、ご覧ください。

 オオサンショウウオの企画展示について見に行ったのですが、去年の段階では、いなかったイセゴイやカライワシが見れました。(*写真が汚くて申し訳ございません。)大きく、スマートな魚が好きな私には、最高のものが見れて大満足でした。オオサンショウウオ以外でも楽しむことができてとてもいい日でした。時間を空けて再度来館したら、また、新しい発見があるということを教えてもらいました。

イセゴイです。
カライワシです。

 以上になります。ここまでご覧いただきありがとうございました。

8.参考・引用文献


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