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音楽の現象学的還元

1.伝統的認識論の否定

 前回の記事で述べたデカルトからカントに至るまでのそれぞれの思想は,〈認識〉を考えようとする際,まず客観的な「世界」が存在し,それを〈意識〉がどう受け取るのか,という順序で考えようとしてきた。しかし,フッサールはこの順番に問題があると指摘する。フッサールは,『デカルト的省察』の中で次のように述べる。

伝統的認識論......では,私は自分を世界内部の人間として見出し,世界を経験すると同時に,私を含めた世界を学問的に研究する者として見出す。......私はこう言う。私にとって存在するものはすべて,私の認識する意識のおかげで存在し,それらは私にとって,私が経験することによって経験されたもの......である,と。(フッサール『デカルト的省察』)

 「伝統的認識論」とは,上記でも述べたような,はじめに「世界」という客観物が存在し,その中に人間が生まれて,この客観物としての「世界」を〈認識〉していくという,従来の〈認識〉の考え方である。フッサールは,この「伝統的認識論」こそが,近代哲学の難問を払拭できない原因であるとした。

 というのも,客観的な「世界」が存在するということを前提とすると,この客観的な「世界」に対応するような客観的な〈認識〉,すなわち「世界」全体の完全なる〈認識〉を想定せざるを得なくなる。それゆえ,人間の〈認識〉は〈神〉のような完全なる〈認識〉とは異なるため,人間の〈認識〉と客観的な「世界」の完全な 〈認識〉とは,永遠に一致しないものとならざるを得なくなってしまうのである。

 そこでフッサールは,この発想を逆転させ,はじめに「認識するわたしの〈意識〉」があり,そこに「世界」の存在がそれによって「わたしに対して存在する」という考えに至った。そして,このような考えから,「現象学的還元」という方法を提唱する 。

2.「現象学的還元」という方法

 「現象学的還元」の根本の意味をひとことで表現すると,「世界は客観的に存在する」という近代哲学の前提となる確信を考え直してみることを意味している。

 はじめに,客観的な「世界」とそれを〈認識〉する人間(=意識)があるという前提から,客観的な「世界」があるという態度を「遮断」する。この作業を,フッサールは「現象学的判断中止(エポケー)」あるいは「括弧入れ」 などと呼んでいるが,この作業によって残されるのは「〈認識〉するわたしの〈意識〉」だけとなる。この〈意識〉を現象学では「超越論的主観」や「純粋意識」などといった用語で言い表している。客観的な「世界」の確信を徐々に取り除いていき,そこから「純粋意識」を取りだしていくこの作業を,フッサールは「現象学的還元」と呼んだ。そしてフッサールは,この「現象学的還元」によって得られた「純粋意識」こそ,現象学における〈真理〉であるとしたのである。フッサールは,以下のよう言葉を残している。

本質諦観において把握された本質が,少くとも非常に広い範囲において確固たる概念に固定されること,したがって確固たるそしてその種類において客観的にかつ絶対的に妥当する陳述となる可能性といったものを与えるということは,偏見のない人なら誰にでもはっきりしていることだ。(フッサール『厳密な学としての哲学』)

経験的もしくは個的直観は,本質直観(理念を観て取る働き)へと転化させられることができるのである。(フッサール『イデーンI-I 純粋現象学への全般的序論』)

 ここから,フッサールの現象学は,本質の「世界」がどう現れ出るのかを追求するものではないことが分かる。現象学とはむしろ,世界像が〈意識〉の中にどのように現れ出て確立されるに至るのかを追求するものなのである。そして,客観物の「ありのまま」を絶対的に〈ことば〉によって言い表すことはできないが,〈意識〉に与えられた「直観」の「ありのまま」を〈言語〉によって言い表すことはできる,ということを示唆している。このフッサールの現象学における〈真理〉の在り方を図示すると,以下の図のようになる。

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 この考え方こそが,フッサールにとって,人間が「世界」を構成していく過程を誰もが客観的に学びとれる方法で記述することを保証するものであった。そして,この確信こそ,最も「厳密な学」としての現象学という理念の根底となるものであった。フッサールはこの考え方によって,デカルト以降の近代哲学の難問を乗り越えたと自認した。

3.音楽の現象学的還元

 さて,ここまでくどくどと「現象学的還元」の説明をしてきたのだが,この「現象学的還元」を〈音楽〉に当てはまると,どのようになるのだろうか。

 上記の図における〈対象〉が〈音楽〉となるので,鳴り響いている〈音楽〉の「ありのまま」を,絶対的に〈ことば〉によって言い表すことは不可能だが,〈音楽〉によって〈意識〉 に与えられた「直観」(=「イメージ」)の「ありのまま」を,絶対的に〈言語〉によって言い表すことは可能だ,という図式になる。このような考えを図示すると,以下のような図となる。

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 一見,なるほど,と納得できそうな主張である。しかし,私の見解からすると,この考えは不十分なものだと断言する。というのも,もし〈音楽〉がこのような〈意識〉に与えられた〈言語〉にこそ〈真理〉が宿るとするならば,そこに鳴り響いている〈音楽〉など存在し得ないからである。これこそ,最初の記事で述べたような〈言語〉が〈音楽〉の上位概念となってしまう所以ではないだろうか。

 このようなフッサールの現象学を,デリダは「イデア性の形式における現前性の形而上学にとらわれている」として批判し,〈ロゴス中心主義〉による〈認識/対象〉の二項対立を〈脱構築〉していくこととなるのだが,この続きはまた次の記事で。


Yuki ISHIKAWA

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石川 裕貴
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