来世では、もう出会わない気がしてる「さようなら」って言えてよかった|中村森【一首評】
数ある好きな短歌から、今日はこちらの短歌をいただきます。
ほかの短歌鑑賞(一首評)は、こちらからどうぞ。
STEP1:ひとくち食べた印象やイメージ
「さようなら」はとても言いにくい。
なぜなら、そのタイミングが「現在と未来を繋ぐ線の上にある」からだ。
はじめて会った時の「はじめまして」や1日のはじまりに使う「おはよう」は、使う場所がはっきりしている。
はじめて会った時というある一点で使う限定的なあいさつだから、迷いようがない。
一方、「さようなら」はどうだろう?
もちろん、物理的に居場所を変える時などに「あ、ここかな」という瞬間はある。
でも、明日もまた言うような気分で「さようなら」と言ったきり、何年も、何十年も会わなくなることも、意外とあるのだ。
いや、そのもう二度と会わないように見えた別れだって、まだどうなるかわからない。
生きている限り。
何十年も前に軽い「さようなら」をした人と、また久しぶりに会える日が来ないともかぎらない。
STEP2:食べ続けて見えた情景や発見
別れはいつも突然だ。
わたしにも、昨日までとなりにいた人と急に連絡がつかなくなった経験がある。
数年たってやっと、風の噂で病気になったことを知った。
人は繋がっているようで、繋がっていない。
どちらかの意志で、または意思が全く関与しないところで、別れというのはやってくる。
その人は仕事もプライベートもすべてのつながりを絶った。そして、SNSに上がっていたすべての写真を消して、アイコンもデフォルトに戻した。
かろうじて自分の写真ではなかったLINEの白熊のアイコンだけは、昔と同じ。
いつかまた、このLINEを見てくれる日が来るような気がして、わたしは白熊をたまに見にいく。
決して「さようなら」が言えない別れが悪いわけではないけれど、やっぱり「さようなら」を言いたかった。
でも、もしあの時ちゃんと「さようなら」が言えていたなら、たぶん今のわたしは白熊を見に行ってない。
***
作中主体が「さようなら」を言えた相手は誰なのだろう?
ヒントは2つ。
「さようなら」をちゃんと言えたことに対してよかったと思えるぐらいだから、それなりに近い人ではあったはずで。
ただのクラスメイトとか、同僚とかと言うよりは、関係は深くあってほしい。ましてや、ただの通りすがりの通行人…ではないだろう。
相手が生きているとすれば、その本命は恋人。
死による別れの可能性も踏まえるのであれば、家族という線も考えられるが、いったん家族はのぞいて考えたい。
来世では出会わない気がしている理由はなんなのか?
1だとしたら「さようなら」を言えて「よかった」とわざわざ言わない気がする。2だとしてもちゃんと始まってもない関係にあえて「さようなら」を粒だてない。
そう考えると、3がいちばん濃厚だ。
***
1987年にダニエル・ウェグナー(ハーバード大学教授)が提唱したシロクマ実験(皮肉過程理論)をご存じだろうか?
人間の脳は、否定形を理解できない。
作中主体のように「来世では出会わない気がする」と思ったことがあるか考えようとしたが、なかなか出てこない。
考えれば考えるほど、逆に「来世でも出会う気がする」と思った人が浮かんでしまう。
それは、数年前に亡くなった父だ。
父の死は突然だった。
かけつけた時はもう亡くなっていた。
だから生きているうちに(死ぬ直前に)、「さようなら」は言えなかった。
でも、不思議と焦らなかったし後悔もなかった。
ただ、「ありがとう」と「またね」しかなかった。
不思議なくらいあたりまえに、わたしは来世でまた父と出会うと思っている。
理由は自分でもよくわからないが、今でもずっと。
だからこそ、作中主体がもう出会わない気がしてる相手は家族ではないと思う。
やっぱり、恋人説が濃厚だ。
まとめ:好きな理由・気になった点
・解釈が分かれそうな「来世では、もう出会わない気がしてる」の意味
・意外と言えないことが多い「さようなら」への発見と共感
とても好きな短歌のひとつです。
ごちそうさまでした。