『孤独の発明』ポール・オースター 生と死の感覚
ふと頭に浮かぶ。「自分は本当に生きているのだろうか」と。でも、そう思うのは、私だけではなさそうだ。
『柴田元幸ベスト・エッセイ』の「死んでいるかしら」に、次のような文がある。
自分はもう死んでいるのではないだろうか、と思うことがときどきある。
この感覚は、次のように述べられている。
・・・生に対する根源的な疎隔感とかいった高級な感覚があるわけではないが、さりとて、「僕はいま、ここで、こうして生きているんだ!」と呼べるような確固たる生命感を抱いているわけでもないのだ・・・
難しい観念論ではなく、日常生活から出てくる実感である。こういう表現にエッセイの魅力があると思う。
ポール・オースターの『孤独の発明』に、次の文章がある。
But for a man to die of no apparent cause, for a man to die simply because he is a man, brings us so close to the invisible boundary between life and death that we no longer know which side we are on.
"The Invention of Solitude" Paul Auster
しかし、ひとりの人間が見たところ何の原因もなく死んでいくこと、まさに人間であるがゆえに死んでいくこと、それは我々を、生と死のあいだの見えない境界線のすぐそばまで連れてゆく。その結果我々は、自分が本当に生の側にいるのかどうか、もはや確信ができなくなってしまう。
『孤独の発明』ポール・オースター 柴田元幸訳(新潮文庫)
ポール・オースターの作品には、invisibleという語が時々登場する。Invisibleというタイトルの作品もあるので、ポール・オースターにとって特別な意味があるのは確かだ。
invisibleは'impossible to see'と定義されている。「見えない境界線」は存在するのか、私にはわからない。
ブルース・ウィルスが出演した『シックス・センス』はホラーとかミステリー映画に近い。しかし、生と死の世界を意識させる映画でもある。
『柴田元幸ベスト・エッセイ』、『孤独の発明』、『シックス・センス』について考えていると、「自分は見えない境界線のどちら側にいるのだろうか」と考えてしまう。
自分の生をどうやって確認することができるのか。この世界全体が死の世界だとすると、自分が死んでいることすら気がついていないことになる。
妄想に近い自問で、馬鹿げているかもしれない。だが、そう決めつけることができるのか?
さて、"which side we are on"ということになりますが、あなたはいかがですか。生者の側か、死せる生者の側か・・・。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?