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#235 テストは児童・生徒にとって、学びの羅針盤

児童、生徒が教科・科目の学びを進めていく上でのモチベーションの1つに「受験」がありますね。

本来的に、「学び」のゴールは受験ではないし、そのためだけに「学ぶ」というのは、学歴社会の悪しき習慣だと個人的には思いますが、しかしテストや受験が、彼らの「学び」のモチベーションとして機能するなら、それ自体は決して悪いことではありません。また自分が努力した成果が、何かしらの形で評価されるべきであることもまた事実でしょう。

ここで大事になるのが、「テストの内容」です。

児童・生徒はやはり「テスト」や「受験」を目標に勉強するし、だからこそ志望校の問題の対策などをします。ということは、受験問題(あるいはテスト問題)は、彼らにとって学びの「羅針盤」になると言えます。彼らの「学び」の質を上げるかどうかは、彼ら自身が挑戦しようと思っている「ハードルの質」に大きな影響を受けるでしょう。

中学入試の国語では問題文が長すぎて全部解き終わらない子どもが続出し、読解力をつけるどころか飛ばし読みも横行し、誤読が頻発して本末転倒の事態となっているという記事を見つけました。

受験の一つの目的は、その段階での学習の習熟度の尺度から篩にかけることにあります。その結果、問題レベルが異様に高くなったり、癖のありすぎる形式になり、結果、児童・生徒の本質的な学びに繋がらないこともあります。

志望校合格には、一定レベルの知識・技能・思考・表現力と受験技術が求められるわけですが、時に受験技術(例えば選択肢のみを見て正答を導き出すなど)が純粋学力よりも重視されてしまうこともあります。特に中学受験では、多くの児童が塾を通じて、受験対策をするので、合格結果の方にフォーカスがいきます。学びの初期段階で「技術」を叩き込まれた児童が、その後「技術」だけではクリアできない課題に出会った時、それを解決するのが難しい場合があるのです。

中学受験を経験しなかった私は、勤務した私立中高一貫の問題を初めて見た時、「合格する子は全員天才なのではないか」と思うほどの難易度でしたが

少し厳しい言い方をすれば、私の個人的感覚でいうと、入学した生徒の80%は、「賢い」感じではないのです。

私は英語しか教えていませんでしたし、他の教科・科目の感覚が深いレベルでわかるわけではないので、あくまで個人的な感覚なのですが。

記事の中にもあるように、「大量の情報をそれなりに処理する能力」を求められることが多い現代社会。学びの本質はそこではないはずだと思う私がいます。

前述したように、受験問題やテストは、そこをモチベーションに学習している児童・生徒にとって「学びの羅針盤」です。

その指針のありかたが、彼らの「学び方」に大きな影響を与えるからこそ、その内容を十分に吟味し、質を担保しなければならないのです。


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