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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第10回:『ファンタスティック・プラネット』


はじめに

faire is foule, and foule is faire
きれいはきたない、穢ないはきれい。
――ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』、第一幕第一場

(シェイクスピア(福田恆存訳)『マクベス』新潮文庫、2010年、10頁)

 去る2023年12月30日、TOKYO MXでルネ・ラルー(René Laloux)の監督作品『ファンタスティック・プラネット』(1973年;原題は « La Planète Sauvage »、日本語に訳すと「野生の惑星」)が放送された。本作はステファン・ウル(Stefan Wul)の小説 « Oms en série » を原作としたフランス・チェコスロヴァキア合作の切り絵アニメーション映画であり、第26回カンヌ国際映画祭(1973年)では特別賞(Prix Spécial)を受賞している。ごく一部のスタッフの紹介にとどめることをご容赦いただきたいが、本作ではロラン・トポール(Roland Topor)が原画(dessins originaux)を、アラン・ゴラゲール(Alain Goraguer)が音楽を、ヨーゼフ・カーブルト(Josef Kábrt)が人物画(graphisme des personnages)を担当している。なお、原作小説からの翻案と脚本はラルーとトポールが共同で担当した。

 本作には、人間そっくりのオム族(Oms; フランス語で「人間」を表すhommesと同じ発音)とオム族よりはるかに巨大なドラーグ族(Draags)という二つのヒューマノイドが登場する。惑星イガム(Planète Ygam)を支配するドラーグ族は青い肌にまぶたのない真っ赤な目、魚のヒレのような耳を持ち、ちょうど人間の子供がアリのような社会性昆虫を無邪気に殺してしまうように、矮小なオム族を放り投げたり踏みつけたりして殺すこともあれば、ペットとして愛玩したり、暇潰しのために闘犬や闘鶏のように戦わせたりすることもある。本作をディストピア作品として見るならば、見る者が置かれている政治的状況を投影しながら鑑賞するのが定石となる。本作がフランス・チェコスロヴァキアの合作映画であることに注目して、ドラーグ族とオム族の闘争、特に小さく脆弱な者たちが連帯して巨人を打ち倒そうとする描写に五月革命やプラハの春の弾圧を見て取ることは不可能ではないし、もっと敷衍して、植民地支配、人種差別、奴隷的苦役、動物虐待といった種々の支配・服従関係や、ポケットモンスターのようなゲームが構造上含まざるをえない非倫理性(換言すればプレイヤーの特権性、暴力性の温存)に対する批判的な寓話と受け取ることだってできる。

 しかし、本稿では作品のテーマや寓意を掘り下げて論じる前に、まずは本作が放つ独特の違和感、不気味さ、いつ残虐で冷酷なことが起こってもおかしくない張り詰めた緊張感、その一方で緊張を緩ませる珍妙な動植物の造型と生態といった生理的反応を惹起する表層について言及することを試みる。自戒を込めて書くが、ウルトラマンについて怪獣や星人、光線技や防衛チームに触れずにもっぱら正義の観点から取り上げたり、ロボットアニメについて主要メカややられメカに触れずに戦争論や人間論を弄したりする評論文は、取り上げる対象をだしにして別の話題を語っているにすぎないとも言いうる。だから、ことに『ファンタスティック・プラネット』に関しては、表層の独特な質感ゆえに、作品のテーマや寓意よりも見る者を、いや私を惹きつける表層を語ることによって、書き手である私自身の嗜好を明らかにしたほうがよいと考えた。たとえそれが安直な神経の興奮作用にすぎないのだとしても、その振れ幅を記録しておくことは、私自身の価値観や美意識を知って点検するための一助となるはずだ(読者の手引きにはならないかもしれないけれど)。

 表層に言及するにあたって、日本の著名なアニメーション監督二人が本作に示した反応を参考に記録しておくことにする。第一に、宮崎駿(現・宮﨑駿)は1981年に「ファンタスティック・プラネットに思う」という小文を書いている。日本での劇場公開に先駆けること四年、アニドウの会報『FILM 1/24』の第31号に寄稿されたこの文章のなかで、宮崎は『ファンタスティック・プラネット』を奇想の画家として知られるヒエロニムス・ボスの絵に似ていると評している。宮崎はこの映画について「おもしろい作品だが好きなフィルムではありません」と断ったうえで、「魅力的で美しい、同時にまぎれもなく生理的嫌悪もさそわれる……。中世のキリスト像を見た時のおどろきを思い出します。何というおぞましい姿を神にした事か……ただただあきれはて美などとはとても言えません」と述べている(宮崎駿『出発点〔1979~1996〕』徳間書店、1996年、149頁)。宮崎は本作に通ずる「ヨーロッパの精神風土が生み出した暗くて冷やか」な美術を「理解できない」と言いつつも、美術の不在と風土の喪失が日本のアニメを二流・三流にとどめているという忸怩たる思いを書き留めている(同書150頁)。第二に、2021年のデジタル上映に際して、湯浅政明も『ファンタスティック・プラネット』を「ボスやシュルレアリスムにも通じる、並ぶもののない、シュールで独創的な世界」と評したうえで、「簡単な答えはない。生き延びるには、ひたすら起こる出来事からそれを探り続けてゆくしかない。それは我々にも必要な力、想像力だ」というコメントを寄せている(下掲ウェブサイト参照)。

  宮崎と湯浅がひとしくボスを連想しているのは単純に興味深いが、一方で「魅力的で美しい」と同時に「生理的嫌悪」をさそうと評され、他方で「シュール」ながらも複雑怪奇な現実を「生き延びる」ための処方箋を与えるものとして受け取られたように、本作の美術はポジティブであれネガティブであれ、見る者に強烈な印象を残す。次の節からは私の率直な所感を書いていくが、その前に、私が「野生の惑星」という原題からクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(La pensée sauvage, 1962)を連想したということも書き残しておく。レヴィ=ストロースは、「野蛮」ないし「未開」とも訳されるsauvageという言葉を「野生」の意味で捉え直し、西洋文明から「未開」との偏見を向けられてきた地域において、ありあわせの道具や材料を使って高度かつ実務的な思考を紡ぎ出すブリコラージュが実践されていることを主張した。私も「野生」に敬意を表して、宮崎が愛憎相半ばで指摘した「日本の通俗文化の三流さ、安っぽさ、精神的もろさ」(宮崎『出発点』、148頁)、しかもその上澄みばかりに染まっている者の一人として、『ファンタスティック・プラネット』のささやかな脱構築を試みることにする。ただし、執筆にあたっては、セルフオリエンタリズムや無頼漢ポーズの自縄自縛に陥らないよう十分に留意する。

青い肌の(少女の)挑発

 言葉遊びにすぎないと思われるかもしれないが、『ファンタスティック・プラネット』は不気味ではあってもグロテスクではない。陰鬱な音楽、そして何が起こるか分からない見通しの悪さによって不安がかき立てられ、人によっては場面の転換のたびに慄然とすることだろうが、スプラッター映画のようなあからさまな残虐さやゴア描写を警戒する必要はない。むしろ、本作の視聴時にかかる重苦しくもエロティックな負荷は、現代の文化や風俗が視覚偏重であることを如実に表すとともに、ルッキズムにつながる美醜の感覚もひとえに風の前の塵に同じであるということ、すなわち美醜はたえずたゆたうアモルファスなものであるということを容易に理解させてくれる。

 本作の冒頭で、早々に母親を殺された野生のオム族の赤ん坊(本作の主人公)はシン知事(Maître Sinh)の娘ティヴァ(Tiwa)に拾われ、道化師のような服を着せられて飼われることになる。惑星イガムでは一週間で地球上の一年が経過するため、テール(Terr)と名づけられた赤ん坊はみるみるうちに成長を遂げる。ドラーグ族はカチューシャ状の受信機を頭に装着して、教育プログラムを直接頭脳に刻み込む。ティヴァはちょうど「いいとこのお嬢さん」が膝の上に猫を乗せてかわいがるようにテールを携えて教育を受けたため、テールはドラーグ族の教育プログラムの恩恵にあずかり、惑星イガムの風土やドラーグ族の習俗に関する教養を身に着けるにいたる。知識を得たテールは開幕から30分ほどでティヴァのもとを脱走し、野生のオム族と合流して、ドラーグ族への叛逆の狼煙を上げる中心人物となっていく。そのため、本作の尺の半分以上を占めるのは、オム族の部族間の小競り合いと統合、オム族の交尾の仕方といった生態の描写、ドラーグ族によるオム族虐殺計画の進展とオム族の反撃、そしてドラーグ族とオム族との和平の成立といった一連の出来事の経過である。しかし、そうしたドラマよりも強烈な印象を残すのが、やはりドラーグ族の見た目および習俗、そして場面の転換とともに挿入される不可思議な造型の動植物の生態と食物連鎖であることは疑いない。以下、本稿では前者に的を絞って所感を書き連ねていく。

 身近な例を挙げれば、今敏の監督作品『PERFECT BLUE』のタイトルにも用いられているように、青い(blue)ということは淫猥(obscene)ということでもある。とりわけドラーグ族の女性の青い肌と豊満な体型は、ちょうどポール・ゴーギャンを魅了したタヒチの女性たちのように、見る者を、いや私を抗い難く挑発する。乳房のようなものが露わになった青い肌の女性たちを見ていると、かつて裸体を描く口実として神話や聖書のモチーフが利用されたように、SFが利用されているとすら思えてくる。私の主観を排して、客観的に見ても、miyakoを震源地とした異色肌ギャルのメイクが世界を席巻し、エイリアン・ルックで注目を集めるサニバニがパリのランウェイを闊歩するようになった今となっては(下掲記事を参照)、ドラーグ族の知的な装いのなかに抑圧された放埒さはこの上なくセクシーな魅力に満ちていると評価せざるをえない。

 ただし、一点留保をつけなければならないのは、ドラーグ族は瞑想(méditation)の最中に体の形状や模様を自由自在に変化させることができるということだ。ドラーグ族の人間に似た姿態もスタティックに固着したものではなく、ダイナミックに移ろうものである。ティヴァもテールのそばで眠りにつくとき、脚部が蛇のような形状に変化しており、この事実からは見る者を妖しく虜にする姿態も一時的なものにすぎないことが窺われる。したがって、私はごく表面的な見た目に惹かれているだけであり、異性愛規範を前提としたルッキズムに抗えずに踊らされているとも言える。青い肌の女性ジェンダー化されたヒューマノイドに対するフェティシズムは多分に神経の興奮作用と異性愛規範に傾斜した一面的なものの見方であり、特定のパートナーとの継続的なアサーティブ・コミュニケーションやスキンシップによって熟成される愛情には遠く及ばない。しかしながら、それでも私は、表層に瞬間的に心奪われてしまうのが人間の常であり、人間が境界のあいまいな美醜に翻弄され疼き続けることから解放されるのは容易ではないという考え方を退けることができない。ドラーグ族の女性たち、とりわけシン知事の娘であるティヴァは私の心をとらえて離さない。この葛藤について、節を改めて掘り下げることにする。

巨人の(少女の)ドミナンス

 ティヴァは背筋が震えるような危険な魅力を備えている。ティヴァの魅力はすんでのところで均衡が崩れそうな二面性にこそ認められる。ティヴァはドラーグ族のなかでもひときわ育ちがよく素直な少女である。きちんと面倒を見るからオム族の赤ん坊を飼わせてほしいと両親に懇願するティヴァの様子は、我々のよく知る人間の少女のそれ――具体的に言えば、犬猫や小鳥を両親にねだる様子――と重なる。加えて、ティヴァは最初に自分の名前と同じ名前をペットにつけようとしたり、テールに触発されてお化粧ごっこ(自分の顔にまつげを描き、おしろいをつける遊び)を始めたり、テールに「テールはティヴァが好き」(Terr aime Tiwa)とオウム返しで言わせたりするかわいらしさを備えている。ティヴァはテールが脱走した後も、テールの身を案じて、脱走防止の首輪(collier)を遠隔操作で直ちに引き寄せることをためらうような「いい子」なのである。それでいて、ティヴァはオム族より圧倒的に巨大で力も強く、故意か過失かを問わず、オム族を踏み潰したりその四肢や首をへし折ったりするのはたやすい。テールはティヴァに文字通り生殺与奪の権を握られているのである。圧倒的な力を秘めた存在に飼いならされ愛玩されることへの憧れが民主主義において危険であることは言うまでもないが、その存在がカリスマ的存在というよりはむしろ「かわいい」存在であったときに、人間はいっそう無防備になってしまう。本作の真の恐ろしさはこうした人間の脆弱性を浮き彫りにしている点にこそ認められる。

 しかし、巨大で圧倒的な存在から愛玩されアビューズされることの倒錯的な快楽を識ることにはメリットもある。本作を見る者はまず人間そっくりのオム族に感情移入してドラーグ族の暴虐に怯え、不愉快な気持ちになりながらも、時間が経つにつれて、他の動物を狩ることを楽しみ、命をもてあそび、議会や地方自治を制度として持っているドラーグ族こそが人間の似姿なのではないかと考え直し、自分が責められているような居心地の悪さを感じるほうへとシフトしていく。この通常の生理的反応を経て、テールがティヴァのもとから脱走できずに、死ぬまで飼われ続けるか途中で捨てられるシナリオを妄想してしまうというもう一つの楽しみ方に到達したとき、高等人種(ドラーグ族)が野蛮人種(オム族)をアビューズするという構造自体の欺瞞が真の意味で暴かれ、消費されることを消費する、あるいは消費しつつ消費され返すという互酬性(réciprocité)の連環が成立することになる。この連環は消極的ながらもいわゆる「性弱説」的な地平を拓く。人間誰しも一皮むけば変態なのだと言い切るつもりはないけれど、相互視姦の拮抗が次善の策ながらも、自分の支配欲・独占欲・加害欲のブレーキとなる可能性は否定できない。

 さらに見逃せないのは、ドラーグ族の生命維持および生殖が、女性の性的解放を恐れ、オープンな性教育や性的接触を危険視・悪魔視するような宗教右派が絶賛しそうなほどに観念的であるということだ。瞑想で飛ばした精神を惑星イガムの衛星(satellite)に所在する石像に宿らせ、男女ペアで踊ることによって生命維持と生殖を行うドラーグ族が、肉体的接触によって殖える野生のオム族を害獣ないし害虫扱いするのはもっともだが、青い肌のドラーグ族も見方を変えればセクシーな魅力に満ちているのだから、やはりエロティックな互酬性は揺らがない。もちろん、人格を持った他者を一方的に「まなざす」ことや消費することの暴力性は否定すべくもない。しかしながら、人間が完全なる無菌状態・無害ではいられず、ある種の獣的なおぞましさが自分の内側にあるということを抱きかかえ、それを相互に承認し合うことでしか幸福に生きていけないのも一つの道理である。ドラーグ族は知的な装いをもって性的な放埒さを封じ込めようとしたが、セックス・アピールを体から完全に消し去ることはできなかった。ドラーグ族は瞑想によって抑圧した性的衝動をオム族に発見されたことによって滅亡の危機に瀕したとも言いうるのである。こうした筋書きに鑑みると、ドラーグ族とオム族との和平とは猥雑さの再評価であると言うことができる。都市生活を送る現代人は、いやお前は潔癖になりすぎている、もう少しだけ猥雑であってもいいはずだ――そんな声が本作の内奥から聞こえた気がした。どうやら私はドラーグ族の青い表皮、まさに本作の表層を低徊しているうちに、深層に迷い込んでしまったようである。本作は巨大で圧倒的な力を持つ少女の着せ替え人形となり、無残にも裸にさせられるという人間の尊厳を損なう行いに身を委ね、興じることのロールプレイングであると言っても過言ではない(とはいえ、残念ながら劇中でティヴァは成長して遊んでくれなくなってしまう。だからこそ都合のいい男性向けジャンルとして「モンスター娘」や「巨女」が一定の受け皿となり続ける)。巨人の少女のドミナンスを受け容れることは、現実に横行する支配・服従関係、とりわけ私自身が様々な局面でゲタを履かされていることの追認ないし正当化でしかないのかもしれない。だがそれは、冷めた目で自分を見つめる視点を獲得し、伏在する権力構造を意識する契機にもなるという意味で、私にとってはどうしても欠かせないものなのである。

おわりに:言葉遊びの果てに

 本作の物語は、現生人類の住まう地球テール(Terre)がドラーグ族との和平を成立させたオム族の作った人工の衛星だったという結末をもって、やや性急に幕を下ろす。ティヴァがオム族のみなしごに与えたテール(Terr)という名がフランス語で「大地」や「地球」を表すterreと同じ発音なのは、人類と大地との結びつきを再確認させてくれる。以前に別の記事でも書いたとおり、公法学者のカール・シュミットは「人間の視界は、大地に生まれ、大地の上で活動する生物として定められている。……どのように歩み、どのように活動するかという運動の形式も、人間の姿そのものも、それに規定されている」と述べていた(カール・シュミット(中山元訳)『陸と海:世界史的な考察』日経BPクラシックス、2018年、16頁)。

 だとすれば、テールの名づけ親であるティヴァは地母神、すなわち女神ディーヴァ(diva)という言葉にゆかりがあると考える余地がある。畢竟、ティヴァの青い肌は淫猥で挑発的でありながらも、同時に神聖さを帯びていたと言わなければならない。まさしく、本作は「きれいはきたない、穢ないはきれい」(faire is foule, and foule is faire)という一節にふさわしい名作であった。ただし、ドラーグ族の議会が男性ジェンダー化されたヒューマノイドばかりで占められている点に鑑みて、ティヴァの魅力が性別役割分業や良妻賢母の理想によって裏打ちされているのは明らかだ。これは残念ながら、制作年代にも起因する本作の決定的な限界である。次のフェーズとしては、女神ディーヴァによって託児所に預けられたり、政界や財界に同行させられたりする展開が必要なのかもしれない。

参考文献

宮崎駿『出発点〔1979~1996〕』徳間書店、1996年。

カール・シュミット(中山元訳)『陸と海:世界史的な考察』日経BPクラシックス、2018年。

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髙橋優
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