名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第12回:『機動警察パトレイバー 劇場版』
はじめに
押井守の監督作『機動警察パトレイバー 劇場版』(1989年、以下『パト1』と略記)が、劇場公開35周年を記念して全国でリバイバル上映されている。私はもともと「パトレイバーファン」だったわけでも「押井ファン」だったわけでもなく、今般の35周年を「節目」と評する立場にはないけれど、『パト1』に関する所感を書くのにちょうどいい機会ではあるため、ここで取り上げることにする。
総じて、『パト1』はごった煮の快作である。『パト1』はOVA『機動警察パトレイバー』(1988~1989年、通称「アーリーデイズ」)のおちゃらけた雰囲気と地続きのコミカルな描写を残しつつ、劇場版としての大きなスケールに支えられた緊迫感のあるシーンをバランスよく配置しており、特車二課の警察官たち(要するに「現場」)の活躍を描く娯楽活劇として程よい塩梅に仕上がっている。東京湾を埋め立て、首都圏を一周する大環状線を建設するという「バビロン・プロジェクト」の途方もないスケールに呼応するかのように、プロジェクトを灰燼に帰そうとする知能犯のスケールも膨れ上がり、スケールのエスカレーションが最先端の技術に携わる人間の責任という普遍的なテーマに結びつくのは、妄想じみていながらも落とし所としては穏当である。さらに、海上に建設された「方舟」と呼ばれる巨大構造物が剥落・崩壊していくさまは迫力満点で見応えがあり(*)、98式対零式という有人パトロール・レイバー同士の対決も(零式がウイルスに汚染されていたとはいえ)ロボットアニメの見せ場として文句なしの出来映えである。以下では、このようなごった煮の要素から三つの論点を取り出して、『パト1』に関する自分の考えを整理する。
技術の革新と人間の責任
『パト1』は徹頭徹尾目に見えない害意を追って奔走する特車二課の面々を活写した作品である。本作の主犯である天才プログラマー・帆場暎一は、汎用人間型作業機械・レイバーに搭載するHOS(Hyper Operating System)と呼ばれる新型OSにあらかじめマルウェアを仕込み、一定の条件下で関東一円のレイバーの暴走を引き起こすよう準備したうえで悠々と投身自殺を遂げた。犯人がすでに死亡しており、犯人の仕掛けた時限爆弾のようなマルウェアがいつ作動するかわからない(当初はそもそもレイバー暴走のトリガーが何なのかもわからなかった)というように、二重の意味で目に見えない害意に警察は翻弄される。このマルウェアによるサイバー犯罪というテーマは2024年現在も古びないどころか、いっそう身近でアクチュアルなものとなっている。犯罪者陣営によって日々新たな攻撃手法が生み出されては、セキュリティ陣営によって防御策が講じられるといういたちごっこの状況を呈している現状にあっては、『パト1』をマルウェアによるサイバー犯罪の深刻化を予見するものとして殊更に持ち上げることも可能だろう――ちょうど『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年、以下『パト2』と略記)の主犯である柘植行人を「告げ行く人」、すなわち予言者と了解する見方のように。ここで典型的な反応を一つ紹介しておく。評論家の宇野常寛は『パト1』について、「1989年公開の映画で重機のOSに仕掛けられたウイルスプログラムを用いたサイバーテロが描かれていたことに、驚愕せざるを得ない。ここに当時の押井の圧倒的な先見性を発見することは容易い」と評している(宇野常寛『母性のディストピアII 発動篇』ハヤカワ文庫、2019年、55頁)。『パト1』以前のSF的想像力に照らして、「押井の圧倒的な先見性」という評価が正しいのかどうかはともかく、『パト1』を未来のサイバー犯罪を予見する作品と位置づける見方が巷に流布していることは確かである。私もこの見方を全否定するものではないけれど、仮に未来予測に重きを置くなら、むしろ注目すべきは帆場の仕組んだ暴走が原発で作業しているレイバーに及べば大惨事となるという認識がさりげなく挿入される点だと考えている。福島第一原発事故後を生きる私にとっては、この僅かな描写すら脱原発へ向けたアクチュアルな問題提起に感じられてならない(しかも、レイバーの暴走が天災によって引き起こされるというのも笑えない冗談である)。
未来予測についての話はこのくらいにして、作中の台詞に立ち返ろう。HOSに何らかの欠陥があることが疑われるなか、特車二課の整備班長・榊は次のように語る。
技術の革新が進んでも、機械自体は中立であり、それを扱う人間次第で善にも悪にもなる――この立場は永井豪の『マジンガーZ』が冒頭で提示するテーゼに近似している。すなわち、搭乗型ロボットを扱うことで人間は「神がみにも悪魔にもなれる」。「神となり人類を救うことも」、「悪魔となり世界をほろぼすことも」自由に選べるというわけだ。しかしながら、技術が陶酔(Rausch)と制御(Kontrolle)という双極を相互嵌入させるはたらきを持っているということに注目すると、榊の言葉はナイーブにすぎると言わざるをえない。ドイツ文学研究者のガブリエーレ・シュトゥンプが指摘するように、技術とは「陶酔と制御を結び付けたり両立可能にしたりする比較の第三項」にほかならない(ガブリエーレ・シュトゥンプ(長谷川晴生訳)「陶酔と制御:アルフレート・デーブリーン『山と海と巨人』における技術」鍛治哲郎/竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学:ドイツ文化の諸相1900-1933』青弓社、2014年、66頁)。技術は「もはや操作不可能な性質、麻薬-魔術的な性質」を持っており(同論攷67頁)、人間を陶酔状態へと駆り立てる。人間が技術を完全に制御できるなどというのは驕りであって、いったん技術に対する熱狂が生じれば歯止めがきかなくなってしまう。
したがって、ここで問うべきは「果たして人間は機械の前にあって、正しく善悪を判断できるのか」ということなのだ。もっと直截に言ってしまえば、技術に対する熱狂が生じている状態で、技術がもたらす弊害を批判するのは困難を極めるということだ。『パト1』に即して言えば、レイバーが実用化され、バビロン・プロジェクトの工期短縮に一役買っている状況においては、プロジェクト自体を正面から批判することは無効化されやすい。プロジェクトは善の方向性の判断なのだと喧伝されやすい。だからこそ、帆場はHOSにマルウェアを仕込むという「間違い」または「悪さ」を通じて、陶酔状態へと駆り立てられた人間たちの隙をつく挙に出ざるをえなかった。言うなれば、帆場が実質的に「ハック」したのはHOSではなく技術に対する人間の驕慢なのだ。結局、「人間の側が間違いを起こさなけりゃ」という榊の条件づけはあくまで警察の治安維持の観点にすぎない。何が「間違い」なのかを正しく判断する基準がどこにあるのかについて、『パト1』は沈黙を守っている。『パト1』はたしかに快作だ。しかし、警察官たちを主役に置くかぎり、必然的に一定の限界はあるということは指摘しておくべきだろう。
かりそめの街・東京
私が大学進学を機に東京へ移り住んだのは2009年のことである。そうすると、私はかれこれ15年も断続的に東京の住民であったことになる。出生から高校卒業までの18年間、私は仙台で暮らしていたけれど、18年間のうち最初の数年間は(写真などの「記録」は残っているとしても)まともに「記憶」がない状態であるから、私の体感としては東京で流れた時間のほうが仙台で過ごした時間よりも長く感じるようになってしまった。やがて、客観的にも東京での生活期間が乳幼児期を含めた仙台での18年間を上回るようになるだろう。私は東京にやってきてからというもの、東京は永遠に完成しないかりそめの街であるという印象を拭えずにいる。永遠の未完成――しかし、それは東京に限った話ではないのかもしれない。足を運ぶたびに変化している渋谷駅の構造、小田急百貨店旧本館の取り壊しに代表される新宿駅西口の再開発、広大な東京駅丸の内駅前広場の整備といった東京の大規模な再開発に当てられているだけで、一般に街というものは時代とともに変容を続けながら平衡を保つダイナミックな運動体なのかもしれない(それゆえに、街の古層は保全の取り組みを不断に続けないかぎり、近視眼的な政治的決定によっていともたやすく破壊されうる。神宮外苑や北九州市の「初代門司駅」遺構がその典型例である)。
東京がかりそめの街だという感覚は、東京の上っ面(しかもそのごく一部)だけを眺めて出てきた勘違いにすぎないのかもしれない。しかし、大学時代に研究室の先輩が東京を「いつでもβ版の街だ」と評したのを聞いたとき、私は自分の感覚を言い表す的確な表現を与えられたように感じた。それ以来、私は「β版」という表現を愛用している(なお、その先輩もいわゆる「地方出身者」であったことを附記しておく)。
そんな私にとっては、文脈こそ違えども、『パト1』における松井刑事の長台詞は首肯できるものに思えた。帆場の人となりを知り、犯行動機を明らかにするため、松井は自殺にいたるまでの帆場の足取りを追って東京各地を駆けずり回る。松井は再開発によって更地にされていく東京の町並みを目にして、特車二課の盟友・後藤に次のように語る。
この台詞を聞いてすぐに思い出したのは、丸山真男の「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で――否定を通じてでも――自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」という指摘である(丸山真男『日本の思想』岩波新書、1961年、5頁)。丸山は日本の論争(敷衍すれば学問的蓄積そのもの)のあり方について、次のように述べている。
景観や文化財の保護を含めた都市計画も一つの思想のあらわれである以上、日本において「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されない」のであれば、都市計画も場当たりのものにならざるをえないだろう。その典型例として、日本の首都である東京を思い浮かべるのは不自然なことではない。東京は戦後復興期から高度経済成長期を経て、ある意味で豊かな消費社会の舞台として爛熟を迎え、その後も無限の成長という資本主義的な幻想を追い求め続けるなかで、歴史的な積み重なりを忘却・度外視したかりそめの街と化しており、そこで人々は空転を続けている――このような認識はいっそう先鋭化して『パト2』に引き継がれることになるが(柘植に言わせれば、東京は「蜃気楼」のように見える)、『パト1』の段階でもある程度まとまった形で示されている。マルウェアによるサイバー犯罪を通じて関東一円のレイバーを暴走させ、東京およびバビロン・プロジェクトを壊滅させるという帆場の企ては、現実離れしたスケールで展開するがゆえに、めまぐるしく変化を続ける「β版の街」に違和感を覚えつつも、そこで生活していくために鈍感になることを選んだ人々を惹きつける妖しい魅力を備えている。私は『パト1』もとい帆場を自分の代弁者と言うつもりはないけれど、無視できない隣人くらいには思っている。
聖書の引用とエリートの造形
作中で明確に言及されているように、『パト1』には旧約聖書の聖句からの引用がいくつか見られる。HOSのマスターコピーには「いざ我ら降り かしこにて彼等の言葉を乱し 互に言葉を通ずることを得ざらしめん」(『文語訳 旧約聖書I』岩波文庫、2015年、Gen. 11:7を一部改変)という『創世記』の一節が記録されていた。帆場の生家には「ヱホバは天をたれて臨り給ふ、その足の下はくらきこと甚だし」(『文語訳 旧約聖書III』岩波文庫、2015年、Ps. 18:9;Vulgata版ではPs. 17:10)という『詩篇』の一節が書かれていた。後藤は帆場の犯行動機を推理しながら、「そのもろもろの神の像はくだけて地にふしたり」(『文語訳 旧約聖書IV』岩波文庫、2015年、Is. 21:9)という『イザヤ書』の一節を引用してみせる。こうした執拗な引用によって、『パト1』は「ヱホバ」を僭称して「バビロン・プロジェクト」に鉄槌を下そうとする帆場暎一(E. HOBA)という知能犯の姿を浮き彫りにしようとする。
ここで重要なのは、MIT留学を経てHOSをほぼ独力で開発することに成功した天才プログラマーと「カミソリ後藤」の異名をとる切れ者の警部補が、旧約聖書を縦横無尽に引用・暗誦できるという点で釣り合っているということだ。つまり、『パト1』においては――本稿で詳述することはしないが、『パト2』でも同様に――聖書に関する教養を備えていることが知的エリート(または知能犯)である証左として取り扱われており、この取り扱いこそが『パト1』を魅力的なサブカルチャー作品たらしめている。言うまでもなく、キリスト教徒が国民の大半を占めているわけではない日本において、聖書が文化の隅々まで染み込んだ共通の基盤となったことは一度もない。それゆえ、キリスト教徒ではない多くの日本人にとって、聖書はあくまで「借り物の知識」にすぎない。自戒を込めて言うと、信仰の伴わない断片的な聖書の知識など、西洋文化を理解するための道具であると言ってみたところで、「凡人とは違う自分」を演出するための武装と本質的には大差ない。私はおよそ十年前、第四ラテラノ公会議(1215年開催)の決議文翻訳企画に参加する貴重な機会を得たことがある。そこで実際にラテン語テクストを精読した際、私は聖書の聖句を自由自在に引用・変形し、現代日本の民法や刑事訴訟法と比べても遜色ない水準で法の創造や解釈を成し遂げている西洋中世のエリートの筆致を目の当たりにして、恐懼するばかりであった。このレベルの知的営為を史料として見せつけられた経験によって、私は『パト1』に見られるような聖書の唐突な引用をあどけなくも愛おしく思えるようになった。
なお、帆場と後藤が引用するのが漢籍ではなく聖書であるというのは、歴史的な積み重なりを忘却・度外視したかりそめの街では――しかも埋立地は地縁の基盤となる大地(Erde)ではないので――、知的エリートもうわべだけの断片的な知識を振りかざすことしかできないのだと暴露されているようで、なんとも切ない気持ちになる。しかし、『パト1』における聖書の引用はハッタリとしては十二分に機能しており、自分の健全さや凡庸さを否定したくてたまらない若者の肥大した自我をくすぐる魅力的なスパイスとなっていることは否定できない。それを「幼稚」の一言で切って捨てるのは、サブカルチャー作品の存在意義を全否定するようで、私はまだ躊躇してしまう。
おわりに
最後に、『パト1』の総合的な魅力を際立たせるために、きわめて簡単ながらも『パト1』と『パト2』を比較して筆を擱くことにする(本格的な検討は別稿を期する)。
『パト1』と『パト2』はどちらも空疎な都市・東京を舞台に繰り広げられる「テロとの戦い」を描いたという点では共通しているが、一貫したトーンの有無が両者の印象を大きく異なるものにしている。『パト1』には余白がある。『パト1』の取り上げたサイバー犯罪、技術の革新と人間の責任、東京の空疎さといったテーマはいずれもアクチュアルであるし、もっとまじめに煮詰めることも可能なものである。しかし、『パト1』はある種のノイズ、すなわち「アーリーデイズ」から引き継がれたおちゃらけた雰囲気をところどころ纏うことによって、視聴者に全体として高尚な印象を与えないよう配慮されている。『パト1』の魅力の核心は、普段はおちゃらけた「独立愚連隊」もやるときはやるという落差なのである。したがって、『パト1』で提示されたテーマについてまじめに考えぬく、議論を深める、他の文脈に接続するという作業は評論家、もとい一人一人の視聴者に委ねられている。言い換えれば、『パト1』そのものを権威(Autorität)や正典(Kanon)として仰ぎ、それに耽溺するような構造は生じない。
これに対して、『パト2』は一定のトーンを突き詰め、徹底的にコントロールすることによって、視聴者が作品の外側にある世界へ脱出していくことを許そうとしない。視聴者は『パト2』の政治的主張(厳密に言えば、政治的主張めいた妄想の所産)に対して何らかの態度を示すことを迫られる。それは往々にして『パト2』への惑溺かアレルギー反応か、どちらかになる。それゆえに、作品としての純度・強度を評価基準にする者にとっては、『パト2』のほうが優れた思考実験としてのフィクションだということになりがちである。しかし、『パト2』の持っているある種の強度によって、『パト2』そのものが作品の外側にある世界、すなわち現実へと張り出していきやすくなっていることには注意を要する。『パト2』を註釈なしに見た者は、しばしばその一貫した強圧的なトーンに眩惑され、独演会とも言うべき長台詞を多用した政治的主張がこけおどしではないのかという検討を経ることなく、現実における政治的決定のための材料として『パト2』を短絡的に「引用」するという陥穽にはまりやすい。パトレイバーは元来、ウルトラマンやダンガイオーから聖書にいたるまで、作品の外側にある世界から雑多な「引用」を繰り返す二次創作的な色彩を帯びていた。それが一転、事ここにいたってパトレイバー自体が「引用」される権威や正典と化してしまうわけである。このような危険性がギリギリ生じない娯楽作品として、『パト1』は輝きを失わない。我々は余白ゆえに選ぶことができる――『パト1』の提示するテーマを受けてどう考え、行動するのか、そして何を優先するのかを。
参考文献
宇野常寛『母性のディストピアII 発動篇』ハヤカワ文庫、2019年。
丸山真男『日本の思想』岩波新書、1961年。
ガブリエーレ・シュトゥンプ(長谷川晴生訳)「陶酔と制御:アルフレート・デーブリーン『山と海と巨人』における技術」鍛治哲郎/竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学:ドイツ文化の諸相1900-1933』青弓社、2014年、65-81頁。