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『ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い』について:中世主義の観点から若干のコメントを記す
はじめに
2024年12月27日、アメリカ合衆国・日本・ニュージーランド合作のアニメ映画『ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い』(以下、『ローハンの戦い』と略記。原題はThe Lord of the Rings: The War of the Rohirrim)が日本で封切られた。本作は神山健治を監督に迎え、2年6か月の歳月をかけて大部分が手描きアニメーションのスタイルで制作された作品であり、ピーター・ジャクソンの監督作である『ロード・オブ・ザ・リング』映画三部作(2001~2003年)の前史を描き出している。本作はJ. R. R. トールキンの原作『指輪物語』の「追補編」(Appendices)に含まれている槌手王ヘルム(Helm Hammerhand)に関する記述を下敷きとして、原作では固有の名前が与えられていないヘルム王の娘を主人公に据えるという挑戦的な二次創作を敢行した。この挑戦は「追補編」の「王たち、統治者たちの年代記」に淡々とした筆致で記されたヘルム王の事績を王の娘の視点で再構成することによって、「年代記」に残らなかった秘史、具体的には王女・ヘラ(Héra)の奔走と偉業を表現したものであり、歴史マニアの妄想に近い発想から出発しているともいえる。
それゆえ、『指輪物語』や『ロード・オブ・ザ・リング』のファンにとっては、『ローハンの戦い』が従前の作品の世界観と整合的であるかどうかが懸案事項となる。しかしながら、『ローハンの戦い』は『ロード・オブ・ザ・リング』の劇中暦において180年ほど前の時代を舞台としており、「追補編」のなかで「ロヒアリムたちは西と東から襲撃を受け、かれらの土地は敵に席捲され、かれらは白の山脈の谷間に追い込まれた。この年(2758年)長い冬が、北と東からの寒気と大雪を伴って始まり、ほとんど五ヵ月続いた。ローハンのヘルム王とその二人の息子はこの時の戦いで死んだ」(J. R. R. トールキン(瀬田貞二/田中明子訳)『新版 指輪物語 追補編』評論社、1992年、45頁)と端的に要約される戦記物であって、ここでは魔法・人間以外の種族・怪物といった要素はほとんど前景化しない。そこで、本稿では『ローハンの戦い』を『ロード・オブ・ザ・リング』のスピンオフ作品として成功しているかどうかという観点から評するのではなく、中世主義およびその他の補助的な論点に照らして若干のコメントを記すにとどめることにする。
なお、読者の便宜のために、中世主義あるいは中世趣味(medievalism)という用語については初めに確認しておく。中世主義とは「大衆文化における中世の描写、そしてその描写の受容に関する研究」を指す言葉であり、その代表例として、ウィンストン・ブラックは『ロード・オブ・ザ・リング』を挙げている(ウィンストン・ブラック(大貫俊夫監訳)『中世ヨーロッパ:ファクトとフィクション』平凡社、2021年、10-11頁)。ブラックはほかにも、『ナルニア国物語』、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』、『ゲーム・オブ・スローンズ』、『ハリー・ポッター』、『アサシン クリード』、『ゼルダの伝説』、『ウォークラフト』といった作品を挙げているが、重要なのは通俗的な中世観の形成が18世紀から19世紀にまで遡るということである。中世に関するステレオタイプについて、ブラックは次のように述べている。少し長くなるが引用しておこう。
中世に関する典型的な道具立て〔注:城砦、国王と王妃、馬に乗った騎士、封建制、虐げられた農民、お粗末な技術、蔓延する疫病と飢饉、魔術と迷信など〕はたいてい西ヨーロッパの(そしてたいていは単にイギリスとフランスの)空想上の光景であり、主だった善良な登場人物といえば白人だけだし、指導者となるのは男性だけで、女性は無力で孤立無援である。そしてその場合、宗教はキリスト教やキリスト教以前の北方の多神教(たとえばトール、オーディン、そしてその信者集団)と相場が決まっている。過去数十年の大衆文化において、中世は残虐な戦争、レイプ、拷問、頻発する異端審問、そして非ヨーロッパないし非キリスト教徒を虐殺する生々しい暴力と同義である。
とはいえ、前掲のブラックの指摘にもとづいて、「この作品は時代考証が甘い」とか、「この作品は中世に関する誤ったイメージを流布するおそれがあるため、専門家として容認できない」といった反応を一律に示すのは、文字どおりつまらない実証主義でしかない。批判は作品の完成度や社会的な影響の程度にも応じて行われるべきであって、作品が極度に洗練された「リアリズム」を持っており、それを盲目的に支持するファンがあふれているからこそ、あえて強く批判しなければならない局面もあれば、作品がきわめて退屈だったりゾーニングやレーティングによって公開範囲が狭められていたりするために、ある程度は見逃してやってもいいという場合もある。本稿も中世主義の観点から『ローハンの戦い』を快刀乱麻を断つがごとく評するものではなく、その他の補助的な論点にも照らしながら、『ローハンの戦い』の全体的なトーンについて論評を加えるものである。そのことをあらかじめお断りしておく。
戦争の形態と経過について
まず、中世主義に汲々とする前に言っておかなければならないのは、『ローハンの戦い』は単調・平板な映画だということである。本作はヘラという勇敢さと怜悧さを兼ね備え、聖女のような役割すら果たすカリスマ的な女性キャラクターを生み出した一方で、134分の上映時間のほとんどを膠着状態に入った会戦なき戦争描写が占めており、ここでは血湧き肉躍る展開は見られない。しかし、戦争が一気呵成に終局へ向かわないからこそ、本作は重厚な圧迫感に満ちており、通好みの作品に仕上がっているとは言える。本作の地味な出来映えはひとえに原作へのリスペクトに起因している。本作は「王たち、統治者たちの年代記」というスタイルをとった原作を可能なかぎり忠実になぞり、ヘルム王と褐色人(Dunlending)の有力者・フレカ(Freca)の不和、王国集会で提案されたフレカの息子・ウルフ(Wulf)とヘラの縁談、ヘルム王による縁談の拒否、ヘルム王とフレカの決闘、フレカの死とウルフの追放、ウルフの叛逆と会戦、ヘルム王の二人の息子の戦死、エドラス(ローハン王都)の陥落と角笛城(Hornburg)への退却、角笛城包囲戦、ヘルム王の奮戦と死、ヘルム王の甥・フレアラフ(Fréalaf)の馬鍬砦(Dunharrow)からの出陣、叛逆者ウルフの討死、フレアラフの国王戴冠といった出来事(トールキン『新版 指輪物語 追補編』では68-72頁)を淡々と時系列に沿って描いている。『ローハンの戦い』はトールキンの手になる編年体の「年代記」を脚色したからこそ、全体として盛り上がりに欠ける通史的な二次創作にとどまり、同時に王の事績を顕彰するというプロパガンダ的な性質を結果的に帯びることになった(この点については節を改めて後述する)。
このような筋書き上の退屈さを補うために、本作は視覚的な効果に頼っている。原作では「ロヒアリムは敗れ、その国土は蹂躙された」(トールキン『新版 指輪物語 追補編』、70頁)という一文しかない会戦のシーンを、本作は2,000騎の騎兵と5,000人の歩兵が平原で激突する圧巻のスペクタクルで表現した。アニメーションにおいて、馬の作画やモーションが予算に大きく左右されることは知られているが(*)、本作は名実ともに「ハリウッド超大作」と呼ぶにふさわしい大規模で入り乱れた騎馬戦を大スクリーンで見せることに成功しており、この点では脱帽せざるをえない。
(*)小説家・脚本家の榊一郎はX(旧Twitter)において、自作『棺姫のチャイカ』のアニメ化を見越して、作中に馬車を登場させなかったことを明かしている。榊が反応するきっかけとなったポスト(ツイート)と併せて掲載しておく。
馬は確かにアニメで予算喰うというか、描くの大変だそうな。棄てぷりの時はだから早々に山越えする際に馬車売り払ってたし、それを聞いていたからチャイカじゃ馬車じゃなくて機車を(アニメ化する可能性を考慮して)設定したのだよな。>RT
— 榊一郎@『魔王を斃した後の帰り道で』 (@ichiro_sakaki) February 11, 2021
最近ファンタジーのアニメばっかみてんですけど、重要視されない馬の作画に予算が出ちゃうなぁと思った 馬具むちゃくちゃだったはめふら、そんな動きでいいのか神様に拾われた男、何か忘れたけど明らかサラブレッドに農耕させる作品とかみてきて、自然に常歩駈歩させてる無職転生の予算がすごい
— コト (@kamakirisuki) February 10, 2021
ただ、中世主義の観点では、本作は「騎士は中世文化と戦争で中心的な役割を担った」(ブラック『中世ヨーロッパ』、149頁)という架空の認識を圧倒的な映像美で強化することに一役買っている。野暮な指摘であることを承知で言うと、ブラックが指摘するように、「中世の軍隊のほとんどは歩兵から成り立っており、栄誉ある『騎士』の称号を持つ戦士が、歩兵として戦うこともまれではなかった。馬にまたがる中世の騎士は無敵の戦力だと思われているが、中世のどの時期においても、騎兵が戦場を支配することはなかった」(同書169頁)。これに対して、本作はヘラの偉業を馬との強い結びつきによって表現している。ヘラは歩くよりも先に馬に乗ることを覚えたとされており、気難しい馬であっても心を通わせ、乗りこなすことができる(ここでは、Nintendo Switch/Wii U用ゲーム『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を彷彿とさせる英雄イメージが見られる)。ヘラが大鷲のもとに初めて辿り着くことができたのも、アイゼンガルドを脱出することができたのも、叛逆者ウルフを討ち取ることができたのも、すべて乗馬の才に起因している。反対に、『ローハンの戦い』においては馬に対する無理解は死に直結するものとして描かれている。ヘラは戦争においては駿馬が生死を分けることを直観的に理解していたが、ヘラの兄・ハマ(Hama; ヘルム王の次男)はヘラの助言を容れず、スタミナに乏しい愛馬に固執したために、戦場で敵の捕虜となり惨殺されるにいたった。このように、本作は騎士と馬との信頼関係や重騎兵の活躍を重視しているという意味で、オーソドックスな中世主義としての側面を持っていると言える(**)。
(**)ただ、そもそも原作において、ローハンの民・ロヒアリムとは「馬の司」を意味するものとされており(トールキン『新版 指輪物語 追補編』、67頁)、彼らは先祖代々「何よりも平原を愛し、馬と馬乗りとしてのあらゆる技に喜びを見いだしていた」(同書65頁)と書かれているため、会戦において騎兵が主役を演じるのは行間に織り込み済みであったとも言いうる。
ところが興味深いことに、本作はトールキンの「年代記」に忠実であろうと努めたため、包囲戦(siege)という重要なテーマを拾い上げることにも成功した。本作の後半をなす角笛城包囲戦は多くの観客にとって退屈に映ることだろうが、長引く包囲戦と厳しい寒さによって、角笛城内の備蓄が尽きていく様子とウルフ軍の士気が下がり消耗していく様子がパラレルに描かれるのは、中世史を学ぶ身としては渋い魅力があるように感じられた。ブラックの著書を読み、「中世の戦争の実態は、(騎兵・歩兵を問わず)たいていは兵士同士の衝突ではなく、城塞をめぐる戦いや、飛び道具によるものや、攻城兵器によるものだった」とか、「戦争といえば、都市であれ城塞であれ、戦略的要地を防衛したり奪取したりすることが主になっていた」(ブラック『中世ヨーロッパ』、171頁)といった記述に親しんでいる者も、本作の包囲戦の描写に関しては一定程度楽しめるのではないだろうか。
質実剛健と忠誠について
『ローハンの戦い』の単調さ・平板さは編年体のスタイルのみならず、単純化された対立の構図にも起因している。本作は一言で言えば、増長した辺境の有力者一族がローハン王家に反旗を翻すも結局失敗するという物語である。ただ、本作はローハン王家の面々を質実剛健で配下や民からの信頼も厚い貴種として描く一方で、叛逆者のフレカ・ウルフ父子については驕慢と臆病が同居する矮小な人格として誇張しており、叛逆者の愚かさと残忍さばかりを際立たせているという問題点を抱えている。
たしかに、原作においてヘルム王は「力すぐれた不屈の人」とされており(トールキン『新版 指輪物語 追補編』、68頁)、「しばしば白い装束に身を固め、単身城を出ると、まるで雪トロルのようにのっしのっしと敵の野営地に乗り込み、素手でたくさんの人間を殺した」と書かれてはいる(同書70-71頁)。本作も原作の記述を踏襲したにすぎないのだろうが、白い髭をたくわえた老王がいまだに筋骨隆々としており、先陣を切って勇猛果敢に戦うばかりか、超人的な脚力で飛び上がって敵の兵士を撲殺する様子を映像で見せられると、ほかの登場人物がさしたる異能を持っていないがゆえに、さすがに戸惑いが大きかった。しかも、ヘルム王が配下や民から支持を受けている原理(言い換えればローハン王家が政治や裁判をどのように取り仕切っているか)が説明・明示されないため、見方によっては、ローハン王家が単に神話に遡る血の原理や事実上の力の強さによって維持されているにすぎないようにも見えてくる。そうすると、むしろ王座にあぐらをかいているのはローハン王家の側だとも言いうるわけだが、本作はそうした正統性に対する疑念を排除するために、フレカ・ウルフ父子を過度に醜悪かつ尊大に描いている。
ロヒアリム(Rohirrim; ローハンの民)と叛逆者たちは何もかもが対照的である。白い肌のローハン王家は尊厳ある地位に就いているが、褐色人の叛逆者たちは王国内で周縁的な位置にとどまっている。ヘルムが引き締まった筋肉質の体を維持しているのに対して、フレカは肥満体であって、そのことを集会の場で揶揄される。戦争に際しても、ソーン卿(Lord Thorne)の一派を除いてロヒアリムは一枚岩の結束を誇り、ヘルム王に忠誠を誓って、決して敵前逃亡はしない。他方で、ウルフ軍はウルフの人徳によって集められた貴顕の士で構成されているわけではなく、利害の一致や金銭的報酬を餌に野合する雑多な集団にすぎない。ロヒアリムが父祖の誇りや大義のために戦うのに対して、父を殺されたウルフを突き動かすのはローハン王家を根絶やしにするという復讐心とついでに王位を簒奪するという野心にすぎない。ロヒアリムは信頼関係で結びつき、相互に命を賭して助け合うが、ウルフは誰のことも信頼しておらず、長引く戦争で配下が消耗し、傭兵からは不満が出ても、彼らに寄り添った停戦・講和という選択肢をとることができない。ウルフは角笛城には金銀財宝が眠っており、陥落の暁には好きなように略奪してかまわないという虚偽を述べて配下や傭兵の離反を抑えるなど、場当たりの所業を重ね、挙句の果てに自分に諫言する側近のターグ将軍(General Targg)を殺害してしまう。このように、本作は人間の弱さ、すなわち両極のあいだで絶えず揺れ動く心を描くことを放棄しており、外部に愚かで邪悪な敵を作り出すことによって、ローハン王家は偉大であるという前提を改めて確認するような稚拙さを抱えていると言わざるをえない。
さらに、本作には家族間の不和も出てこない。中世史(特にフランク王国史)に関心を抱いている身からすると、戦争や幽閉はしばしば王族の親子間、兄弟間、ときにはおじと甥のあいだの諍い――言うなれば「お家騒動」――から生じるものであるため、ローハン王家が内紛により引き裂かれない点には、制作陣の人間観や家族観が反映されているように思えた。とりわけ、ヘルム王の甥(ヘラのいとこ)であるフレアラフの扱いは注目に値する。フレアラフは一度ヘラの誘拐を敵に許したかどでヘルム王の怒りを買い、馬鍬砦での待機を言い渡されることになる。フレアラフはウルフ軍との会戦に出陣することを認められなかったわけだが、驚くべきことに最終局面まで一切の独断専行をせず、ヘルム王の言いつけを守って行儀よく待機し続けていた。しかも、フレアラフは浅黒い肌の人物として描かれているにもかかわらず、ウルフ方の褐色人とは似ても似つかぬ忠誠心を示し続けているが、これは恣意的な区別としか言いようがない。本作ではローハン王家だけがこのような「育ちのよさ」に満ちている。ここにはローハン王家の威信に傷をつけまいとする制作陣の――もしかしたら無意識の――配慮が透けて見える。
結局のところ、本作の短絡的な発想はトールキンの原作に対する「史料批判」が十分にできていないことから生じている。一般的に、王国の年代記は王の事績を顕彰し、現行の支配体制に正統性を付与するという政治的プロパガンダとして書き継がれていることが多く、記載を文字どおりに受け取っていいかは他の史料と突き合わせて検証する必要がある。もちろん、トールキンの「年代記」は創作だけれども、ここでも同様のことが言える。すなわち、トールキンが「年代記」というスタイルでローハン王家(エオル王家)の来歴を書いたとき、それは必然的にローハン王家の輝かしい側面を強調するものにならざるをえなかった。それゆえに、本作が原作に忠実であろうとすればするほど、結果的にローハン王家を顕彰するようなプロパガンダ的記述に絡め取られ、必要以上に叛逆者を邪悪に描くという陥穽に落ちることになった。ここには、原作ファンによる二次創作の限界が見て取れる。その限界を打ち破るためには、さしあたり「血は水よりも濃い」という息苦しい慣用句を疑ってかかる視野の広さが求められるが、残念ながら本作の制作陣はそれを持ち合わせていなかったようである。
おわりに
本作はこの大きな弱点を補うかのように、ヘルム王が子ゆえの闇に迷う展開を用意することによって、ヘルム王を等身大の人間に近づけようとしてはいるが、手遅れの感が強い。王妃に先立たれ、シングルファーザーとしてヘラを育ててきたヘルム王にとって、ヘラの安寧と幸せは最優先事項であった。ヘラは比類なき武人たるヘルム王の泣きどころなのだ。ヘルム王はヘラが王子も顔負けの勇敢・怜悧な大人に成長していたことを見過ごし、ヘラを庇護の対象にすぎない女子――政略結婚の道具――として軽んじた。ヘルム王はヘラの忠言を聞き入れず、ウルフ軍の戦力や戦略を過小評価してしまった。この油断がローハンを危機に陥れることになった。ヘルム王は王子二人を失って初めてヘラの才知に気がつくが、いくら悔やんでも後の祭りである。ヘルム王はようやくヘラを一人前の王族と認め、ヘラに角笛城とロヒアリムを託して散っていく。このような脚色はたしかに、部分的ではあれ、子煩悩な親に共感を引き起こすかもしれない。しかしながら、決して珍しくはない家族間の不和を排除し、極度に単純化された「家の子・郎党/それ以外」という対立の構図を作ったという負債は、父親の自分勝手な葛藤を見せたくらいでは返しきれないと言わざるをえない。
本作が生み出したヘラという女性キャラクターは父親の権力から解放され、ローハンの再興をいとこのフレアラフに託して、誰とも結婚することなく去っていく。こうして、透明化された女性は透明化されたままとなり、本作はあってもなくても変わらない外典の領域にとどまることになった。本稿は本作に対して中世主義の観点からコメントを記すものとして書き出されたが、実際に蓋を開けてみると、本作は中世主義以外の点――制作陣の浅薄な人間観と保守的な家族観――でつまずいており、むしろ中世主義の観点から論じることによって、騎馬戦や包囲戦といったかろうじて楽しめる点を見いだすことができるものであった。本作の観客への悪影響を少なく見積もることには慎重になるべきだけれども、本作が全体として地味で退屈な出来映えとなったことは不幸中の幸いではあるだろう。
参考文献
J. R. R. トールキン(瀬田貞二/田中明子訳)『新版 指輪物語 追補編』評論社、1992年。
ウィンストン・ブラック(大貫俊夫監訳)『中世ヨーロッパ:ファクトとフィクション』平凡社、2021年。
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