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アジール・無縁・友誼線:TVアニメ『キミ戦』が掲げた平和の理想とその残響

はじめに

実際、文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この「無縁」の場に生れ、「無縁」の人々によって担われているといってもよかろう。
(網野善彦『増補 無縁・公界・楽:日本中世の自由と平和』平凡社ライブラリー、1996年、250頁)

 2020年12月に放送が終了したTVアニメ『キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦』(通称『キミ戦』)は瀟洒な秀作であった。本作は、高度に発達した機械文明を誇る帝国と、未知のエネルギーである「星霊」をその身に宿した魔女・魔人が治めるネビュリス皇庁が百年にわたる戦争を続ける世界で、両国の最高戦力たる二人が戦場でまみえ、志を同じくすることを知って、互いに惹かれ合う過程を描くファンタジー作品だ。
 帝国軍の元最高位戦闘員・「黒鋼の後継」ことイスカと、ネビュリス皇庁の第2王女・「氷禍の魔女」ことアリスリーゼ(アリス)は、くだらない戦争を終わらせ、恒久平和のための和平交渉を実現するという共通の目標のため、一時的に共闘するようになるが、二人の相互理解と心理的接近が「中立都市」と呼ばれる場所で進むという作劇は夢想的ながらも洒落ていて、検討に値する。
 本作はアジール(Asyl)というギミックを巧みに用いた作品である。本稿は、本作におけるアジールとしての「中立都市」の機能に着目して、暫時的な平和圏を構築する意義とその必要性について論じるものである。

アジールの概念と「無縁」の原理

 本作の分析に入る前に、アジールとは何かを整理しておくことにする。日本におけるアジール研究に先鞭を着けたのは、国史家の平泉澄であった。平泉は学位論文を改稿した『中世に於ける社寺と社会との関係』(至文堂、1926年)、第三章「社会組織」の中で、アジールという概念・制度について簡潔に記している(以下、漢字は全て新字体に直した)。

 アジール(独にAsyl 仏にAsyle又はAsile)は源を希臘に発し、今日独仏両国に於て専ら行はるゝ語であつて、仏蘭西には此の外にSauvetéの後も用ゐられ、英国にあつてはAsylum……又はSanctuary等と云はれて居る……。
(平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』至文堂、1926年、54-55頁)

 平泉はアジールをギリシャに端を発するものと記述しつつも、「殊にアジールは世界的人類的の問題であつて、決してその範囲を一国一地方に限局されてゐない」(同書57頁)、「実にアジールは人類発達の或る段階に於て、一般に経験する所の風習又は制度である」(同書58頁)と注意を促すことも忘れていない。その上で平泉は、アジールに関する西欧の先行研究を引用しながら、アジールの定義を与えている。

 抑もAsylは、refuge, place of refuge等の語によつて置き換へ得るもの、即ち避難所の義である。(同書58頁)

 C. FriedbergはAsylを定義して、「Asylとは差押へられざる、害せられざる場所の事である」と云ひ、……WestermarckはAsylumに定義して、「こゝに逃れたるものを無理に引出す事を許されない庇蔭保護の場所の謂である」と説いた。(同書58-59頁)

 さらに、平泉はアルベルト・ヘルヴィヒの著書(Albert Hellwig, Das Asylrecht der Naturvölker, Berlin 1903, S. 1-2)から5行にわたってドイツ語をそのまま引き写している。ヘルヴィヒの定義は簡にして要を得たものであるため、筆者にて訳出して紹介する。

アジール法(Asylrecht)とは(客観法として見れば)アジールに関する種々の法規範の総体である。ここでいうアジールとは、ある法共同体の持つ法制度であり、当該共同体による法の保護の外に置かれた人々の全体または一部に、あらためて永続的または一定期間の法の保護を与えることのできる法的権能を、特定の人間集団や場所に対して付与するものである。(同書59頁、邦訳は筆者による)
〔筆者注:なお、Asylrechtという単語は現代ではもっぱら「難民法」の意味で用いられるが、元来はより広汎な概念であった。本稿では元来の定義に従っている。〕

 平泉はヘルヴィヒに従って、アジールを罪人のアジール(Verbrecherasyl)、外国人のアジール(Fremdenasyl)、奴隷のアジール(Sklavenasyl)の三種に区分した上で、世界各地のアジールの諸相を紹介している。平泉はその中へ逃げ込んだ殺人者を一時的に不可侵の状態とする「罪人のアジール」の例に着目して、次のように述べている。

 このAsylrechtの前提として予想せられる事は、仇討の盛んに行はれた事、殺人行為に対しては国家が刑罰を加へる代りに、被害者の近親の仇討が合法的行為と認められた事、否実に仇討が近親の必ずなさなければならない義務とまで考へられた事、これである。
 これはAsylの起るに必要な一条件であつて、国家の権力の確立し、一切の罪は国家によつて正当に審判せられる所にはAsylは起るべきものではなく、私刑の盛に行はれ、ある程度まで、それが是認せられてゐる所に、初めてAsylの起る必要があるのである。(同書74-75頁)

 このように、平泉はアジールを復讐の連鎖を切断するための保全の場と見ており、それゆえに刑事裁判を国家が一元的に担う段階にあっては、アジールは不要になると考えている。同様の見解は、この章の結論部分でも繰り返し示されている。

アジールの盛衰は実に政府の統括力のそれに反比例するものである事が分る。……蓋しアジールなるものは、専断苛酷の刑罰、又は違法の暴力の跋扈する乱世に於てのみ存在の意義を有する所の、一種変態の風習なるが故に、確固たる政府ありて、正当なる保護と刑罰とを当局の手に掌握する時には、アジールは存在の意義を有せず、強いて存在せしむれば百害あつて一利なき事明かである。この故に厳明なる政府が完全なる統治を実現せんとする時は、かくの如き治外法権を否定するは当然の事である。(同書156頁)

平泉は皇国史観のイデオローグとして悪名高い人物ではある(晩年のエピソードについては下掲記事を参照)。しかし、平泉『中世に於ける社寺と社会との関係』は、日本中世史ブームの火付け役となった網野善彦によっても先行研究として挙げられており、この事実を単純に無視することはできない。

 網野善彦『増補 無縁・公界・楽:日本中世の自由と平和』(平凡社選書、1987年/初版は1978年)は、平泉の議論を敷衍して、「しかし、アジール(避難所)は、『無縁』の原理の一つの現われ方にすぎない」(網野『増補 無縁・公界・楽』平凡社ライブラリー、1996年、243頁)と述べる。網野が追究するのは「アジールが一体いかなる原理に支えられて成立し、またいかなる場が、そうした原理をになう場となりえたか」(同書26頁)ということである。網野は倒叙法を用いて、日本の中世から近世にかけての豊富な事例に基づき、人類史を貫く「無縁」の原理の析出を試みている。これは歴史家としてはいささか大胆で乱暴な議論ではあるが、思想としては興味深いため、歴史学的に見て論証に成功しているか否かは本稿では問題としない。
 網野は、縁切寺(駈込寺)、無縁所(公界寺・公界所)、自治都市、一揆、惣、楽市場、さらに中世前期の山林、浦・浜、市・宿・庭、墓所といった個々のアジールに「無縁」の原理を見出す。網野は例えば自治都市について、「中世都市の『自治』、その『自由』と『平和』を支えたのは、『無縁』『公界』の原理であり、『公界者』の精神であった」(同書91頁)と述べている。網野によると、「無縁」「公界」「楽」は「全く同一の原理を表す一連の言葉」(同書109頁)である。「無縁」「公界」「楽」の場においては、「世俗の貸借関係は、ここでは切れる」(同書108頁)。また、「私的な主従関係、隷属関係が、無縁・公界・楽の場には及び難い」(同書114頁)とされ、「無縁・公界・楽の場での平等・対等な交易が保たれ、また、祠堂銭等の金融活動も社会的に保証された」(同書116頁)という。
 もちろん、網野はアジールの夢想的な側面にも目を配っている。網野は次のように言う。

 もとより、戦国・織豊期の現実はきびしく、このような理想郷がそのまま存在したわけではない。……俗権力は無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠をはめ、包みこもうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾をよびおこしていた。それだけではない、こうした世界の一部は体制から排除され、差別の中に閉じこめられようとしていたのである。餓死・野たれ死と、自由な境涯とは、背中合せの現実であった。(同書119頁)

 しかしそれでも、網野は「さまざまな徴証からみて、『無縁』の原理は、未開、文明を問わず、世界の諸民族のすべてに共通して存在し、作用しつづけてきた」(同書242頁)と述べて、「無縁」の原理が人間の本質に深く関わっていると力説するのだ。「実証史学」はいざ知らず、批評の次元においては、こうした冒険に触発されることは許されてしかるべきだろう。次節では、前述の平泉・網野の議論を踏まえて、『キミ戦』におけるアジールとしての「中立都市」に着目し、その機能を明らかにする。

アジールとしての「中立都市」とその機能

 本作における「中立都市」は、帝国にもネビュリス皇庁にも属さない第三国の地位にとどまるものではない。後述するように、「中立都市」の域内では暴力が排除されており、この中に入った者は一時的に世俗のしがらみから切断される。その意味で「中立都市」とはアジール(あるいは無縁所)なのであり、「黒鋼の後継」ことイスカと「氷禍の魔女」ことアリスはこの中で両陣営から切断され、一時的とはいえ、一人の少年・少女に戻るのである。この切断機能こそが、本作に洒脱な色彩を与えていると言うことができる。
 以下、本作の展開を具体的に見ていくことにする。第1話では、イスカとアリスが初めて戦場でまみえ、一騎討ちを演じる様子が描かれる。互角の戦いを繰り広げて引き分けた二人は、第2話において「中立都市」で偶然にも再会する。隊長命令で休暇を取らされたイスカは、「女騎士ベアトリクスの悲恋」なるオペラの観劇のために「中立都市」エインへ足を運ぶ。オペラの終幕後、イスカは感極まって号泣する前の座席の女性にハンカチを手渡すが、なんとその女性とは、お忍びで観劇に来ていたアリスだったのである。アリスは直ちに戦闘態勢に入ろうとするが、従者のから「中立都市」では一切の争いが禁じられているという忠告を受け、その場は矛を収める。ここで市街戦に発展しなかったということは、本作の展開上重要である。芸術の都市とされる「中立都市」の域内では暴力的な所作が禁止されており、たとえ敵同士であっても相互に不可侵の状態に置かれる。これは第10話以降の「独立国家」における市街戦のシーンと好対照をなしている(後述)。
 二人の鉢合わせは、たまたまオペラの座席が前後だったということにとどまらない。オペラの観劇後も、二人は昼食に入ったレストランで相席となり、同じ料理を注文し、パスタの好みで意気投合してしまう。さらに、また別の日にも、二人は帝国画家ヴィブラン・サリルの展覧会で再会することになる。この事実上の美術館デートにおいて、一方でアリスは「美術に国境なんてないわ」と語り、他方でイスカは画家の作風に関する蘊蓄を披露する。こうした一連の「できすぎ」の逢瀬は、すべて「中立都市」の域内で展開する。なぜなら、イスカもアリスも「中立都市」というアジールの中でしか、一人の少年・少女に戻ることを許されないからである。
 そして、美術館デートを経て、二人の間に興味深い事態が生じる。アリスがイスカに対して用いる二人称が敬称から親称に変わるのだ。美術館に入場する前、イスカと鉢合わせたアリスは「なんであなたがここにいるのよ!?」と叫ぶ。しかし、同じ絵画を見ながら会話をするという体験を経て、アリスがイスカに瓶の飲料を振る舞うとき、彼女の発する二人称は「あなた」から「キミ」へとシームレスに変化する。

アリス これ、道案内のお礼。
イスカ 別にお礼だなんて……。
アリス 借りを作りたくないの、特にあなたには。(中略)キミにあげるって言ってるの。気にしないで。そういえばキミ、何歳なの?
イスカ いま、十六。
アリス じゃあ、私のほうが上だったんだ。

 しばし間を置いて、アリスはハッとして「私、何を……」と自分の言葉に戸惑いを見せる。これ以降、本作のタイトルにもなっている「キミ」呼びが定着することになる。「あなた」も「キミ」も、日本語の日常会話ではあまり使わない翻訳調の二人称だが、これは西欧諸語の敬称/親称(フランス語のvous/tu、ドイツ語のSie/duなど)に対応していると考えるべきだろう。多くの日本の作品が親密度の変化を示すために「なまえをよんで」の手法に頼りがちなところ、本作は「中立都市」というアジールの中で少年・少女を各陣営から切り離し、敬称から親称への移行を描くという洒落た作劇を行っており、「西洋かぶれ」と言ってしまえばそれまでだが、なかなか目を引くものがある。
 第3話でも、「中立都市」の切断機能が再度強調されている。イスカとアリスは雌雄を決するため、運命に導かれるように「中立都市」へ引き寄せられる。改めて対面した二人は、一度「中立都市」の外の荒野に出て、互いの言い分を語り合う。「こんな幸せな都市があるのに、どうして私たちは憎み合ってるのかしらね」と語るアリスに、イスカは和平交渉という目標を明かす。アリスが「戦いを終わらせるための戦いを望む者がいたなんて」と心を動かされる中、帝国とネビュリス皇庁の最高戦力たる二人の接近に刺激され、百年前に封印された災厄の大魔女ネビュリスが復活を遂げてしまう。二人は荒野での共闘を選び、大魔女ネビュリスを一時的に退けることに成功するのだが、ここで注目すべきは二人の言葉だ。

アリス 悔しいな……。私、このことだけはキミと二人だけで決着つけたかったのに。中立都市でキミと出会ってから、私の中でモヤモヤがたまってる……。でも、それは姫として失格だもの。今日はそれを断ち切るつもりで来たわ。すごい気合い入れて来たのに。誰にも邪魔されずに、キミと二人だけで決着つけたいと思ってたから。なのによりによって、あんなやつに土足で入り込まれて、大迷惑よ!

イスカ 気が合うと思わないか? アリスは燐を傷つけられて腹が立っている。僕だってあれだけ暴れられたら、和平交渉どころの話じゃない。僕らがいるのは帝国でも皇庁でもない、中立都市だ。目的が同じ、それだけでいい。

 互いの真意を知るためには、両陣営のしがらみから解放されて「無縁」となる契機が必要であり、それは「中立都市」の切断機能によって用意される。しかし、「中立都市」の域内では暴力的な所作が禁じられているから、雌雄を決する過程で小競り合いが生じうることが予期されるのであれば、一旦「中立都市」の外に出ることが求められる。二人が「中立都市」の域内ではなく、その外で大魔女ネビュリスに襲われる展開も、アジールの観点から巧妙に仕組まれたものと理解することができる。
 第6話では「燐の大誤算」と称して、燐がイスカを昏睡させてしまう事件が描かれるが、これも「中立都市」が暫時的な平和圏であるということを踏まえた作りになっている。なかなかイスカと会う機会を得られないことに不満を募らせるアリスは、燐の助言に従って、会う約束も会える確証もないまま、「中立都市」でイスカを待ち続ける。数日の探索の後、ようやく二人は「中立都市」のベンチで再会するが、二人の接近を快く思わない燐は、睡眠薬を盛った飲料をイスカに提供する。イスカは「独特な香り」に気づいたものの、そのまま睡眠薬入りの飲料を口にしてしまい、その場で昏倒してしまう。燐はイスカの昏倒に狼狽する。燐の言葉からは、彼女自身、睡眠薬を盛るという行為が「中立都市」のアジール法に違背していることに自覚的だったことが窺われる。

   アリス様、申し訳ありません。私めが今の飲料に睡眠薬を盛りました。
アリス 何ですって? 燐、中立都市で何を!
   ち、違うのです、アリス様。そもそも私から提供されたものなど飲まないと思っていたのです。
アリス ならどうして?
   我が国が毒を仕掛けた、その事実があれば十分でした。そうすれば、さすがにこの男もアリス様を危険視し、気安く声をかけなくなると……。見込みが外れたか……。

 イスカが敵から提供された飲料を口にしたのは、飲料を提供された場、すなわち「中立都市」が暴力を排除した暫時的な平和圏だからである。本来、アジールの中で謀殺など起こってはならないのだから、イスカが睡眠薬の混入を疑わなかったのも無理からぬことだ。問題はあくまで燐がアジール法に違背したことであって、油断したイスカが愚かだったというわけではない。たとえアジール法を破る者がいたとしても、アジール自体の存在意義は失われない。むしろ、アジール法があっても侵害が生じるのだから、その拘束を外してしまえば、世界は境界線(Grenze)で区切られた平面と化し、諸邦の間に相互不信と歯止めのない軍拡競争が生じかねないと言うべきであろう。従って、「燐の大誤算」のエピソードから「やられる前にやれ」式の先制攻撃を肯定する教訓を引き出すのは、端的に言って愚かである。
 暫時的な平和圏を構築・維持する意義をいっそう明確にするためには、本作における「中立都市」と「独立国家」の区別に注目するのが有用だ。第10話から第12話(最終回)にかけて、イスカ一行は「独立国家」アルサミラを訪れる。アルサミラの雑貨市には、帝国・ネビュリス皇庁双方の品物が流れ込むとされており、一見すると「独立国家」も「中立都市」の同義語であるように思われる。しかし、アリスの妹(第3王女)のシスベルがアルサミラを訪れるやいなや、彼女を巡って市街戦が勃発するのは見逃せない。彼女はネビュリス皇庁内部の造反分子に逮捕されそうになり、そこへ飛来した帝国の実験兵器からも襲撃を受ける。そして、シスベルを救うため、その場に居合わせたイスカとアリスは再び共闘を組むことになるのだ。
 こうした経過に鑑みるに、流血沙汰の舞台となった「独立国家」はアジールではなく、いわば友誼線(Freundschaftslinien, 英語ではamity lines)の外側にある第三国に過ぎないと考えるべきだろう。公法学者のカール・シュミット『大地のノモス』(1950年)の中で、友誼線について次のように述べている。

 この「線」でヨーロッパは終わり、「新世界」が始まった。ここ〔=友誼線〕でヨーロッパの法、少なくとも「ヨーロッパの公法」は効力を失った。その結果、従来のヨーロッパの国際法によって定められた戦争の保護規定(Hegung)もここ〔=友誼線〕で効力を失い、土地取得(Landnahme)のための闘争はやりたい放題となった。線の向こう側では「海外」の地域が始まるが、その地域では、戦争のあらゆる法的な枠組が欠けているので、より強い者の法だけが妥当した。この友誼線の主たる特性は、……土地取得を行う条約締結者同士の闘争空間(Kampfraum)をその線の外側に持っていくところにある。まさしく、彼らの間には友誼線以外に共通の前提も共通の権威も一切ないのである。……そのような関係にある条約締結者が実際に意見の一致を見ている唯一のものは、線の向こう側で始まる新たな諸空間(Räume)に対する自由である。その自由は、制約なき、なりふり構わぬ暴力行使の可能な領域を、友誼線がその外側に確保してくれるがゆえに存在しているのである。
(Carl Schmitt, Der Nomos der Erde im Völkerrecht des Jus Publicum Europaeum, Berlin 1950, S. 62)

 友誼線とはヨーロッパとそれ以外の空間(Raum)を画する線であり、この友誼線の内側、すなわちヨーロッパの内部でしか国際法秩序は成り立たない。国家間に紛争が生じた場合、友誼線の内側では「戦争と平和の法」に基づく紛争解決が図られるが、友誼線を一歩外に踏み越えれば、そこには弱肉強食の空間が広がり、国家は相互に自力救済に訴えることが認められる。シュミットはこのように整理するが、ここで本作に立ち戻ると、常夏のリゾート地として成功を収める「独立国家」アルサミラは、友誼線の外側にある「新世界」(具体的にはシンガポールや中近東の諸国)の表象のように見える。帝国とネビュリス皇庁をヨーロッパ内部の条約締結者(Vertragspartner)と同視できるかは微妙なところながら、非暴力を謳う「中立都市」のアジール法が律儀に守られていること、すなわちルール無用の場外乱闘が全面的に許容されているわけではないことに鑑みて、やはりシュミットの言う「線引き思考」(Liniendenken)は本作の分析概念として有効だと考えられる。
 第12話の最後のシーンで、イスカとアリスはベンチから立ち上がり、それぞれ反対方向へ別れていく。アリスは「なんでかしら、キミと出会うのはこんな場所ばっかり」とこぼすが、「こんな場所」が何を指すのかは解釈が分かれるだろう。植生が熱帯のそれなので「独立国家」だと考えることもできるし、これまでの逢瀬の経過に鑑みて「中立都市」だと考えることもできる。前者の解釈を採って、もはや二人の間にアジールは不要になったと考えるのも、後者の解釈を採って、アジールを起点とした和平交渉の見通しがついたと考えるのも、同程度に魅力的だ。いずれにせよ、二人の相互理解と心理的接近はアジールなくして実現することはなかった。暫時的な平和圏の構築・維持を夢物語だと嘲笑しているうちは、暴力のエスカレーションからは決して逃れることはできない。現実主義という名の迎合主義に押し流されそうになる昨今こそ、理想を高く掲げることが必要なのだ。

本作の出演者について

 本作の出演者にも一部触れておくことにする。イスカ役を演じる小林裕介は、誰が相方になるかによって引き出され方が異なる主人公声優だ。本作ではアリス役を演じる雨宮天が小林裕介の相方を務めているが、その結果、小林裕介は芯の強さはあれど刺々しさはない中性的な魅力を纏うことになった。雨宮天はノーブル感の乏しい役者ではあるが、本作ではそれが却って功を奏し、おてんばな姫君として鮮明な像を結んでいた。刺々しさを雨宮天が引き受け、難局を打開する力を小林裕介が密かに発揮するというバランスの取り方は、男女ペアの一つの理想形とも言えよう。
 燐役を演じる花守ゆみりは、本作では低音域を維持する技量を見せつけている。低音域でのブレのないコントロールは主人に振り回される従者という役柄に説得力を与えているが、かといってこの音域では叫べないというわけではないため、他の声優の暴走・逸脱を押し止めるような外枠をうまく作っている。花守ゆみりの確かなキャリアの積み重ねが遺憾なく発揮された、危なげない表現を聴くことができた。
 イスカの所属するN07部隊の隊長・ミスミスを演じる白城なおは、ある意味本作で最も注目に値する役者だろう。白城なおは中学卒業後すぐに地元で就職し、その後上京して通信制の高校に通いながらデビューしたという逞しい経歴の持ち主だ。そんな彼女が、見た目も言動も子供っぽい22歳のダメダメ指揮官を演じることになるとは、これは運命のいたずらなのか。実際にこんな上司がいたら、部下はイライラして仕方ないだろうが、彼女の柔らかな耳触りの演技を聴いていると、不思議と「こんな上司がいてもいい」と思えてくる。また、ミスミスの上司・璃洒役に『デート・ア・ライブ』(2013年4月期)の琴里役のような暗躍を見せる竹達彩奈を配したのも、白城なおを際立たせる好対照の配役と評価できる。
 そして勿論、関俊彦に触れないわけにはいかない。関俊彦は、第7話から第9話にかけて登場する「超越の魔人」ことサリンジャー役を演じている。サリンジャーはかつてネビュリス皇庁に反旗を翻し、長らく収監されていた最悪の脱獄囚という役柄だ。『鬼滅の刃』(2019年4月期・7月期)の鬼舞辻無惨役のおかげで、国民レベルで関俊彦が聴きやすくなっている中、サリンジャーを「ラスボス」に据えることなくあっさりと退場させたのは、深夜枠1クール作品のある種のチープさを象徴するようで好感が持てた。

おわりに

 網野は日本の歴史について、古代・中世から近世への移行過程で、「無縁」の原理が専制権力のもとで危険視され、疎まれて衰微していく様子を描いている。そして、日本が西欧と異なり、「無縁」の原理を十分に自覚できず、近代的な自由・平和へと昇華できぬまま天皇制に押し潰されたことを示唆している。

 西欧では……「無縁」の原理は、宗教改革・市民革命など、王権そのものとの激烈な闘争を通じて、自由・平和・平等の思想を生み出したものと思われる。しかし、日本の場合、近世社会に入ると、「無縁」の原理の自覚化は、その歩みを遅めたようにみえるが、反面、「無縁」の世界も、鬱屈した状態におかれつつ、なお、かなり広く、その生命を保ったかの如くである。アジールそれ自体は、ほとんど消滅一歩手前の状況にあったといってよかろうが、「無縁」の原理とその基底の世界は、決して滅びはしないのである。
 幕末・明治の転換期は、西欧の自由・平等思想の流入と、日本の「無縁」の世界の爆発にともなう、「無縁」の原理の新たな自覚化との交錯の中で進行した、とでもいいえようか。……それが結局、前者の主導するところとなり、「無縁」の原理の日本的な自覚化は、ついに実らなかった……。その過程が段階を画するためには、「有主」の世界から、「原無縁」を最初に組織し、その後も「無縁」の世界の期待を体現しつづけてきた王権―天皇との酷烈な対決を経なくてはならなかったが、その課題に、ほとんど手をつけることなしに、日本の「近代」は始まる。
(網野『増補 無縁・公界・楽』平凡社ライブラリー、1996年、246-247頁)

 また、網野はアジールの中でしか一息つけないような、民衆を極度に抑圧する江戸時代の身分制度に批判的な目を向けているが、大学構内の「学問の自由」すら禁圧しようとする政権の支配下で喘ぐ我々にとっても、網野の記述は他人事では済まない。

 もしも文化が、人間の多少とも自由な精神活動の所産であるとするならば、江戸時代の文化といいうるもの、絵画・文学・演劇等々の大部分が、こうした場〔筆者注:遊郭、賭場、芝居小屋等の周縁的空間〕を媒介としてしか生れえなかったことを、一体、どう考えたらよいのか。……日本の近世社会が「自由」の原理をここまでおいつめたところに成立しているという事実を、もっともっと突き放して考える必要があるのではなかろうか。(同書31頁)

 既に述べたように、平泉は強力な国家権力が確立した後にはアジールは不要・有害になると看做していた。しかし、「決められる政治」が強権を恣にする現今にあっては、むしろ暴力・実力が排除された暫時的な平和圏の構築から始めることには十分な意義があると言わなければならない。それは読書会でも趣味サークルでも構わないだろう。異常な体制のもとで正気を保つためには、世俗のしがらみから一時的であれ切断される場が必要不可欠なのである。
 最後に、一言だけ附言すると、本作は視覚的には奇妙な印象を与える作品である。登場人物が自動車を乗り回し、首都にはガラス張りの高層ビルが並び立ち、「中立都市」の劇場は日本の一地方都市の市民文化会館にしか見えない。こうした現代的な意匠は、(中世)ヨーロッパ風と言い張られる図柄(いわゆる「剣と魔法のファンタジー世界」)に飽き飽きした身には却って新鮮に思われた。また、第4話以降に登場する光学迷彩スーツは『魔法科高校の劣等生』(2014年4月期・7月期)『メイドインアビス』(2017年7月期)に登場するスーツを彷彿とさせたが、この手の衣装は怪作のメルクマールと看做すことができるのかもしれない。

参考文献(2022年1月12日追記)

網野善彦『増補 無縁・公界・楽:日本中世の自由と平和』平凡社ライブラリー、1996年。

平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』至文堂、1926年。

Albert Hellwig, Das Asylrecht der Naturvölker, Berlin 1903.

Carl Schmitt, Der Nomos der Erde im Völkerrecht des Jus Publicum Europaeum, Berlin 1950.
(邦訳:新田邦夫訳『大地のノモス:ヨーロッパ公法という国際法における』慈学社、2007年)

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